第三千四百八十八話 幻想と虚構の狭間(九)
庭の大池、その畔に植えられた木々が充ち満ちた生命力を解き放つが如く天に向かって枝葉を伸ばし、無数の枝から大輪の花を咲かせている。雲ひとつない青空を背景に輝く満開の花々は、花見をするのに相応しい美しさといっていいだろう。
そしてその美しさは、湖面に映り込むことで、より一層輝きを増しているといっても過言ではないのではないか。
あざやかに咲き誇る花々、その花弁が風に乗り、空を舞う。やがて池に舞い降りれば、水面に波紋を浮かべ、みずからも浮かぶ。
そんな光景を眺めながら、女性陣がそれぞれに全力を以て作り上げた手料理の数々に舌鼓を打つ。
柔らかで、穏やかな空気の中、限りない幸福を感じるのは気のせいではないだろうし、これを至福というのだ、と、彼女は確信を以て想う。
これ以上の幸福は、世界中のどこを探しても見つからないだろう。
なにせ、ここにはすべてがあった。
彼女にとって必要なもののすべてが、だ。
つまり、ここにあるもの以外はなにも必要ではない、ということの裏返しでもある。
セツナと、彼を取り巻く女性たちさえいれば、それだけでよかった。それ以外の他人などどうでもよかったし、世界のことなど知ったことではないのだ。世界がどうなろうと、どうだっていい。それが彼女の本音であり、本質といってもいい。
ただし、自分とセツナだけでは、駄目なのだ。
セツナを独り占めしたいという気分になることもないではないが、彼ひとりだけでは、意味がない。
セツナと彼女のふたりだけならば、独り占め、などとはいえないのだ。
ほかのだれかがいるからこそ、独り占めは生きてくる。
独占欲が満たされる。
だから、この状況こそ、レムが思い描く最上級の幸福そのものといってよかったのだ。
皆がいて、セツナがいて、自分がいる。
セツナの愛は分け隔てなく、だれもがそんなセツナを慕っている。
まるで夢のような世界が、現実になったのだ。
喜ぶべきことだろうし、実際、レムは心の底から嬉しく想っていた。
なにも考えなくていい。
ただ、いまこの時間を、この境遇を、この状況を受け入れ、噛みしめ、抱きしめていればいい。
命には限りがある。
永遠なんてものはなく、すべてのものに終わりは来る。
レムとて、例外ではないのだ。
故にこそ、この一瞬一瞬を大切に生きていかなくてはならない。
そんなわかりきったことをいまさらのように自覚したのは、ようやく、すべてに決着がついて、なにもかもが終わったからだ。
(終わった……?)
ふと、疑問が湧く。
なにが終わったというのだろう。
漠然と、終わったということだけは理解している。確かに終わったのだ。なにかが終わり、だからこそ、レムたちはセツナを取り囲んで幸福な毎日を送ることができている。
なにかが終わった。
それが一体なんなのか、まったく想い出せない。
極めて大切で、とても大事なことだというのに、まったくもって想い出せない。
「どうしたんだ? レム。めずらしく難しい顔をして」
問われて、そちらを見遣れば、のほほんとした様子のセツナが寝台に腰掛けて、こちらを見ていた。
「え……と……」
返答に戸惑ったのは、いつの間にかふたりきりになっていたからだったし、そこがセツナの寝室であることを認識したからでもあった。広い室内には、レムとセツナ以外のだれもいない。
完全にふたりきりだった。
だれの邪魔もないふたりきりの時間。
「そんなところで立ってないで、こっちに来たらどうだ?」
「あら、御主人様。随分と積極的ですこと」
「なんだよ、悪いか?」
「いいえ、悪くございませぬ」
レムは、首を横に振ると、セツナの顔を見た。果てしない戦いを終え、ようやく戦場を離れた男の顔は、どうにも安らいで見える。
異世界に召喚されてからというもの、真に心安らぐときなどなかっただろう彼がそんな表情をするとは、さしものレムも想像の範疇を超えていた。
衝撃を受けるほどに。
「これが、現実ならば、ですが」
だから、レムはいった。
この時間が現実ならば、どれほど素晴らしいことか、という万感の想いを込めて、いったのだ。すると、
「おい、レム。おまえは突然なにを言い出すんだ?」
セツナが寝台から離れると、素早くレムを抱き寄せた。
「これは現実だよ」
耳元で囁かれる声は、あまりに優しく、慈しみに満ちていた。ともすれば身を委ねたくなってしまうくらいに甘美で、愛おしさが溢れそうになるくらい完璧だった。
「いいえ、これは虚構にございます」
断じ、セツナを突き放す。
男は寝台の上に尻餅をつくと、愕然とした様子でこちらを見上げた。その表情も、セツナそのもののように見えなくもないのだが、もはやまったくの別人であると認識したいまとなっては、レムの心が動かされることはなかった。
「あなた様も、わたくしたちを取り巻くすべての事物も、なにものかの意思によって作り出されたまがい物にございます」
「なんでそんなことをいうんだ? 俺たちとの生活が嫌になったっていうのか?」
「……あなた様がなにをどのように仰ろうと、わたくしには響きませぬ」
レムは、冷ややかに告げた。
「あなた様は、我が主ではありません。確かに、外見も中身も完全無欠に近く再現されてはおられるようです。一目見ただけでは判別できかねるほどに。が、しかしながら、肝心の部分が抜けておりました」
「肝心の部分?」
「わたくしと御主人様の絆、でございます」
「絆なら!」
叫んでくる相手を左手で征すると、レムは、右手で自身の胸に触れた。小さな胸の奥底で、仮初めの命が静かに脈打っている。その命こそがセツナとの絆の証であり、それがあるからこそ、レムは存在し続けることができるのだ。
つまり、いま、レムがここに存在するということは、セツナとの絆が確かに息づいているという証左であり、その絆を辿っていけば、セツナに至るのもまた確かなのだ。
そして、目の前のセツナは、絆の終着点などではない。
魂の絆の片鱗すらも感じ取れない。
それがなにを意味するのかなど、言葉にするまでもないことだった。
偽物だ。
「あるとでもいうのかしら? あたしと、あなたに」
レムは、冷笑とともにみずからの影に手を突っ込み、闇の大鎌を取り出した。すると、セツナの口元に笑みが刻まれ、周囲の空間に溶けて消えていく。
「ひとがせっかく至上の幸福を与えてやったってのに、もったいないことを」
「至上の幸福?」
レムはすぐさま“死神”たちを呼び出すと、周囲を警戒した。だれのものともしれぬ寝室が崩壊し、白銀の世界が姿を現す。一面の雪景色。幻理の間に戻った、ということなのか、どうか。
「虚偽と欺瞞に満ちた世界の何処に幸福があるというのかしらね」
「それがあんたの本当の顔かい」
ウェゼルニルの声とともに、なにもない虚空からその巨躯がにじみ出してきた。“真聖体”と自称するウェゼルニルの本気の姿。その威圧感は凄まじいものがある。
「中々どうして、悪くない」
「敵に褒められても嬉しくなんてないわよ」
レムは、再び完全武装・影式に身を包むと、ウェゼルニルを睨み付けた。
「あたしが欲しいのは、セツナからの賞賛だけ。だから、殺すわ」




