第三千四百八十七話 幻想と虚構の狭間(八)
(今度は、なに?)
レムは、新たに出現した虚構の世界を見回し、きょとんとした。
草原だった。
だだっ広い草原が、果てない青空の下に横たわっている。
見回せば、どこかの山の麓らしいことがわかった。その山は、天を衝くほどに高く、険しかった。山の頂は白く、雪が積もっているらしいことが窺える。
(ここは……)
レムには、見覚えのない景色だった。どれだけ記憶を振り返っても、頭の中を探りに探っても、まったくもって見当たらなかった。
レムの人生は、波瀾万丈だ。
とくにこの一年ほどは世界中を駆け巡ってきたという実感があったし、事実、その通りだった。様々な地域を巡り、景色を見たものだ。堪能している暇などないも同然だったが、得難い経験だったのもまた事実だろう。
それもこれも、こうして生きているからだ。
死ねば、それで終わりだ。そのあとに得られたかもしれないなにもかもが手から滑り落ち、虚無へと還るのだ。
だから、生きていかなくてはならない。
死ぬまで、生き続けなくてはならない。
(そう、死ぬまで)
もっとも、レムは、死んでもなお生き続けているのだが。
(それはそれとして……)
再び周囲に意識を向けると、草原の真っ只中に家が建っていることに気づく。それもレムからわりとすぐ近くに在ったものだから、驚かざるを得なかった。
が、冷静になって考えてみれば、さっきまで存在しなかったはずのものが突如として出現したとしてもなんら不思議ではないという結論に至った。
ここは虚構の世界だ。
ウェゼルニルの力によって生み出された幻想と虚像の世界。
つまり、この記憶にない風景や建物は、ウェゼルニルが作り出したものだということになる。
おそらく、レムが過去のセツナやクレイグとの接触でなんら動じなかったことに業を煮やしたのだ。故に行動に出た。
レムを精神的に追い詰め、この虚構の世界に封じ込めるために。
(だとすれば、なにをしてくるつもりなのでしょう)
レムは、草原に家に向かって歩きながら、ウェゼルニルの策がどのようなものなのか考えた。レムの記憶を元にした虚構を作り出せるのがウェゼルニルだ。それはつまり、レムの記憶を完全に把握していると考えて、いい。
そこまで考えて、急に羞恥心が沸き上がってきたものだから、彼女は苦笑するほかなかった。
敵の術中で恥ずかしがっている場合ではない。
家に目を向ければ、それはそれは大きな屋敷だということに気がつく。豪邸といっても差し支えはあるまい。高い塀に囲まれた敷地内に、それこそ絢爛豪華な屋敷が聳えているのだ。まるでどこぞの宮殿のようであり、そんな建物が草原の真っ只中にぽつりと佇んでいるのは、異様としか言い様がなかった。
それこそ、虚構だからだろう。
現実にはありえないことも、虚構ならば説明もつく。
そして、虚構ならばこそ、ありえることが起こっている。
レムは、屋敷の敷地内を覗き込み、はっと息を呑んだ。
屋敷を取り囲む塀の内側には広々とした庭があるのだが、そこにレムもよく知る人物たちがいたのだ。
(あれは……)
青髪の女に真っ赤な髪の女、白髪の女もいれば、翡翠色の髪の女もいる。だれもかれも、遠目に一目見ただけではっきりとわかるくらいに見慣れた顔だった。
(ファリア様にミリュウ様、シーラ様に……)
ラグナ、ウルク、エリナ、エリルアルムの姿もあった。
セツナの周囲を彩る女性たち。
彼女たちが屋敷の庭でなにをしているのかといえば、なにか催し物の準備をしているようだった。
地面に広げた敷物の上に色とりどり、多種多様な料理が並べられていて、庭に植えられた木々があざやかに咲き誇っているところを見れば、彼女たちがなにをしているのか、わからないレムではなかった。
花見の準備、だろう。
セツナが生まれ育った国における一般的な行事のひとつであるそれは、数年前に再現したことがあった。そのときは、ガンディア王家を巻き込んだお祭り騒ぎとなったものだが、いまレムの目の前で繰り広げられているのは、極めて規模の小さなもののようだった。
とはいえ、花見に必要なものはすべて揃っているようではあったが。
「レム-! そんなところでなにしてるのよー!」
不意に呼びかけてきたのは、ミリュウだった。
「そうだぜ! 突っ立ってないで手伝えっての!」
「そうじゃぞ、先輩」
「花見とやらをしようといいだしたのは先輩ではありませんか」
ミリュウ、シーラの呼びかけに続き、いつの間にかレムの背後に回っていたラグナとウルクが、彼女を屋敷の敷地内に押し込んでいく。
レムには、抗えなかった。抗うわけにはいかないからだ。
背を押されるまま庭に向かえば、皆が待っていた。
「そうだよ、レムお姉ちゃん」
「セツナを驚かせるのだろう?」
笑いかけてきたエリナに対し、エリルアルムの反応は苦笑そのものだった。
「御主人様を驚かせる……」
そういえば、そんなことを熱烈に主張し、企画したような気がしてくる。
セツナが出かけている間に花見の準備をして、驚かせようというのだ。
そうすることで日頃の感謝を示せると思ったのだから、子供じみている。
「まったく、困った従僕なんだから」
などといいながら、決して頭ごなしに否定をしないのがファリアの良いところだ。
女性陣を取り纏める立場にあるだけのことはあった。
そうだ、と、彼女は理解した。
すべては終わったのだ。
なにもかもが終わり、だからこそ、自分たちはここにいる。
ここは終の棲家であり、楽園であり、自分たちにとっての約束の地なのだ。
セツナとともに生きるためだけの場所。
そんな場所に、ようやく辿り着いたのだ。
長く苦しい戦いの果て、やっと見出したのだ。
戦場から戦場へ、世界中を飛び回っていたセツナが羽を休めることの出来る場所。
「それが……ここ」
この屋敷。
世界の果て。
「なに? なにかいった?」
「いいえ、なんでもございませぬ」
レムは、首を横に振ると、ミリュウの訝しげな表情にさえ愛おしさが湧いてくるのを認めた。
もはや、なにも気にする必要はない。
だれもがセツナを必要とし、利用しなければならない時代は終わった。平穏が訪れたのだ。あとは、ひとびとに任せればいい。
そこにレムたちが首を突っ込む必要などどこにもない。
責任は果たした。
だったら、もういいだろう。
肩の荷が下りたような気分だった。
実に晴れやかなのに、少しだけ寂しい、そんな気分。
花見を提案したのは、そんな微妙な寂しさを紛らわせるためでもあったのかもしれない。
そんなときだった。
「なんだこりゃあ!?」
突如として敷地内に響き渡ったのは、セツナの声だ。
驚愕に満ちた声のした方向を見遣れば、彼が茫然と立ち尽くしていた。花見の準備を目の当たりにして、度肝を抜かれたのだろう。
それはそれは、彼女が想像していた以上の驚きぶりだった。
「はあ……帰ってくるの早いってば」
「普段なら嬉しいことが、教ばかりは少し空気を読んで欲しいかったかな」
「そんなこといわないの」
「そうだよ、お兄ちゃんが無事に帰ってきたんだから!」
「そうじゃな」
「そうです」
「うむ」
女性陣が口々にそれぞれの考えを述べる中で、レムもまた、セツナの無事な姿を目の当たりにして、なんともいえない気持ちになっていた。
「ええ……その通りでございますね」
それは至福に満ちた空間であり、時間であり、世界だった。




