第三千四百八十五話 幻想と虚構の狭間(六)
ウェゼルニルの変貌。
全身が白化した人間という印象を与える姿だったこれまでとは大きく異なるその姿は、彼が正真正銘の化け物であることを改めて示してくるかのようでもあった。
元々の巨躯が一回り大きくなり、頭髪が全身を覆うほどに伸びていた。甲冑は肉体と一体化した上で歪に変形し、神秘的というより凶悪な印象を与える。まさに異形の怪物とでもいうべき姿であり、それがウェゼルニルの全力を発揮した形態なのだろうということは想像に難くない。
背後に輝く光線は、神々が負う光背と同じようなものなのだろう。
つまり、彼はいま、神に等しい力を持った、と見るべきなのではないか。
もっとも。
(神と同等の力を持っていることなど、最初からわかっていたこと。いまさら姿が変わったところで、こちらの戦い方に変化などございませぬ)
レムは、胸中で叫ぶようにいうと、頭上に向かって矛を掲げた。間髪を容れず、“破壊光線”を撃ち出す。狂暴な光の奔流が大気を蹂躙しながらウェゼルニルの元へと到達する。しかし、“破壊光線”はウェゼルニルに直撃することなく、空の彼方へと飛んでいってしまった。
ウェゼルニルの姿が掻き消えている。
「“真聖体”と、俺たちはいっている」
声は、真後ろから聞こえた。
「この姿のことだよ」
振り向き様、全力で矛を振り抜くも、ウェゼルニルの手の甲で受け止められてしまった。無論、穂先ではない。柄の部分だ。でなければ、いかに変貌したとはいえ、ウェゼルニルの手が無事で済むわけがない。
再現したものとはいえ、黒き矛だ。その斬撃を軽々と受け止められるはずもないのだ。
「それが一体、なんなのでございましょう?」
レムは、透かさず“破壊光線”を放ちながら、問うた。黒き禍々しい穂先が白く膨張したかに見えた瞬間、ウェゼルニルの姿が虚空に溶けて消え、切っ先から解き放たれた光の奔流は、そのまま真っ直ぐに飛んでいっただけで終わる。
「獅徒がその使命を果たすために与えられた最大の力、それがこれだ」
「つまり、“真聖体”となったからには、わたくしを斃せる、と。そう仰りたいのでございますね」
「違う違う」
ウェゼルニルは苦笑する。
「いったはずだぜ。俺は、あんたを封殺する、と。どう足掻いたところで斃せないあんたは、ここに留め置くのさ。この幻理の間にな」
「それは御免被ります」
レムは、周囲を見回し、ウェゼルニルを肉眼で確認した。一面の銀世界で、ウェゼルニルの白い姿は、一見探しにくそうだが、その巨大さと異物感は、一目見ただけで彼とわかるのだ。隠れるつもりがないのだろう。ウェゼルニルには、余裕が見て取れた。
「わたくしは、一刻も早く、御主人様の下へ向かわなければなりませんので」
「だから、そうさせないといっているのさ」
「意地悪ですね」
「敵だろ」
「ええ、まったく、その通りで」
レムと“死神”たちによる神速の連携攻撃も、ウェゼルニルには、一切通用しなかった。黒き矛の一閃は空を切れば、回転槍は大地を貫き、大斧は地面を崩壊させただけだった。双刃が生み出す光弾も、杖の巨腕も、鎧の翼も、“真聖体”となったウェゼルニルには、掠りもしない。
ウェゼルニルを捉えたと想っても、実際には、まったくそうではない。
そんな状況が続けば、さすがのレムも冷静さを失いそうになる。
「避け続けるだけで封殺するおつもりですか」
「それもいいが……さすがにそれじゃあ疲れるだろ、互いにな」
「いいえ、まったく」
「はっ、素直じゃないお嬢さんだ」
「お嬢さんと呼ばれる歳でもありませんが」
「そうかい? ま、どうでもいいさ」
ウェゼルニルを見失うたびに探しだしては飛びかかり、“死神”たちと全周囲から猛攻を仕掛けるものの、獅徒の余裕ぶった様子に変化はなかったし、当然のようにすべての攻撃をかわされてしまい、徒労に終わる――そんな攻防が続いている。
攻防といえるようなものですらないのかもしれない。
レム側の攻撃は、“真聖体”となって以降のウェゼルニルには、一切、通用していないのだ。
直撃するどころか、掠りもしない。
まるでそこに実体がないかのように攻撃が擦り抜けてしまう。目の前にいるのは確実なのに、だ。そして、気づけばまったく別の場所にいて、こちらを見て、悠然としているのだ。
そこへ“破壊光線”を撃ち込んでも、意味がなかった。
また別の場所に彼が移動しているだけだ。
いや、移動さえしているのか、どうか。
ウェゼルニルは、動く気配すら見せていなかった。
「もう、あんたは俺の術中だ」
ウェゼルニルが冷ややかに告げてきたとき、レムは、無言のまま彼に斬りかかっていた。
しかし、振り下ろした矛は当然のように空を切り、風圧によって舞い上がった雪が視界を白く染め上げた。それは一瞬の出来事に過ぎない。その一瞬が終われば、また、つぎの攻撃に取りかかるだけのことだ。ウェゼルニルの妄言になど耳を貸す必要はない。なんとしてでもウェゼルニルの実像を掴まえ、攻撃を叩き込むのだ。
そうして、一刻も早く、この虚像だらけの空間を抜け出さなければならない。
セツナの元へ、一秒でも早く。
そう、想っていた。
だから、というわけではないはずだが、レムは、ふと、前方になにかがあることに気づいた。
(あれは……?)
幻理の間は、一面の銀世界だった。
頭上には雲ひとつ見当たらない青空がどこまでも続き、その空と同じだけ、雪原が続いている。地平の果てまでの雪原。それがこの幻理の間と呼ばれる領域の特色であり、それ以外なにもなかったはずだ。
それなのに、いま、レムの視界には天幕が立っていた。
(いつの間にあんなものが?)
いまのいままで気づかなかった、というわけではない。そんなことはありえない。白い天幕とはいえ、この雪原しかない世界に存在する異物に気づかないことなど、あるわけがなかった。
つまり、いまさっき突然出現した、ということになる。
ということは、どういうことか。
(ウェゼルニル様の術……でございましょうね)
ウェゼルニル自身がいったことだ。
術中だ、と。
つまり、レムがいま近づこうとしている天幕は、ウェゼルニルが作り出した虚構であり、幻想に違いなかった。
そして、罠でもあるのだろう。
レムは、足を止め、周囲を見回した。いつの間にか、膝まで埋まるほどに雪が積もっていたことに気づく。これも虚構だろう。術中とはまさにそのことであり、レムは、知らず知らずのうちにウェゼルニルの作り出す幻想の世界に足を踏み入れていたようだ。
だから、ウェゼルニルがどこにも見当たらないのではないか。
気配を感じ取ることすらできない。
あれほどの存在感を感じ取れないことなど、あるはずがないというのにだ。
(術中……)
ふと、気づく。
“死神”たちすらいなくなってしまっていて、手にしていたはずの矛も消えてしまっている。
いつの間にか、レムひとりが雪原の天幕の前に佇んでいた。
(なるほど)
ウェゼルニルがいった封殺とは、このことなのだろう。
レムをこの虚構と幻想の狭間に封じ込めておこうというのだ。
レムは、殺せない。
レムは、滅ぼせない。
セツナを命の源としているからだ。
ならば、セツナが死ぬまで一所に封じ込めてしまえばいい。
ウェゼルニルの結論は、極めて合理的だ。




