第三千四百八十一話 幻想と虚構の狭間(二)
左頬を切り裂いたのは、ウェゼルニルの拳が生み出した力の渦だ。神威の渦、神威の竜巻といっていい。
それはつまり、ただ拳を振っているだけではない、ということだ。拳を繰り出しながら、神威を発散している。それにより、神威は渦を巻き、小さくも獰猛な竜巻となって、拳の届く範囲の内外の敵をも攻撃可能としている。
あのときとは違う、とはまさにその通りだ。
あのとき――ログナー島で交戦したときに比べると、明らかに手強さが増している。
そもそも、ログナー島で交戦したときとは、状況が違うのだが。
あのときは、レムはひとりではなかったし、ウェゼルニルもひとりではなかった。互いに死力を尽くした結果、レムたちが勝利することができたのだが、それもこれも、味方がいたからこそだ。レムひとりでは、とても斃せたとは思えない。
では、いまはどうか。
いま、レムはひとりだ。
ひとりで、ウェゼルニルと戦い、斃さなければならない。
それもできる限り早く、だ。
早急に突入組の面々との合流を果たすには、一刻も早くウェゼルニルを斃さなければならない。突入組の人数は限界近くまで絞られている。ひとり欠けるだけで、戦力は大きく低下するのだ。レムとて、重要な戦力であることに間違いはなく、故に、獅徒ひとりに手こずるわけにはいかないのだ。
相手も、ひとりだ。
しかし、ウェゼルニル自身が明らかにしたように、彼は、初戦時に比べて大幅に力強くなっている。目に見えてわかるほどだ。
あのときのウェゼルニルを一としたならば、いまのウェゼルニルは最低でも五はあるのではないか。
(いえ、それ以上と見ておくべきでございますね)
レムは、ウェゼルニルの余裕に満ちた様子を見ながら、想った。
ただし、あのときとは大きく異なることがある。
それこそ、ウェゼルニルがひとりだということだ。
あのとき、ウェゼルニルには神がついていた。神との合一による戦闘能力の強化が著しく、故にレムたちは圧倒されたのだ。
いま、目の前にいる獅徒には、神の影はない。
獅徒ひとり、雪原の中に佇んでいる。
構えもせず悠然と立ち尽くす姿は、まるで山のようだ。迫力があり、圧力があり、見ているだけで震え上がりそうな、そんな感覚さえある。
レムは、胸中、頭を振った。認識を改めたのだ。
神がいないという事実は、つまるところ、神と合一せずとも、そのときと同程度かそれ以上の力を発揮することができるからなのではないか、と。
神がいないことは、むしろ、レムにとって喜ばしい情報などではないのではないか、ということだ。
(いえ、そんなことはどうでもよろしい)
レムは、己の影に手を伸ばし、新たな大鎌を引き寄せた。考えるのは大事だが、考えすぎるのはよくないことだろう。考えすぎた結果、実際以上に相手を大きく強く見てしまうことは、よくあることだ。そしてそのためによくない結果が生まれることも、だ。
いまは、目の前の敵を斃すことに注力するべきだった。
そのためにウェゼルニルの実力を分析していたのだが、それが思考をよからぬ方向に導くのであれば、思索を打ち切るべきだ。
思考をまっさらな状態にして、敵と向き合う。
山のような巨躯をどうやって打ち負かすのか。
ただ、討ち斃すだけでは意味がない。
獅徒を斃すには、“核”を破壊しなければならない。体内のどこかに隠されている“核”を見つけ出し、打ち砕く。
そうすることで、ようやく獅徒は滅び去る。
神兵や使徒と同じだ。
同じだが、難易度でいえば、獅徒のほうが圧倒的なのは考えるまでもない。
そして、だからこそ、考えるべきではないのだ。
「なんだ? こないのか」
ウェゼルニルが肩を竦めたのは、レムが一向に動き出す気配を見せないからのようだった。
「だったら、こっちから行くぞ」
ウェゼルニルが地を蹴った瞬間、周囲の雪が大量に舞い上がった。視界が白銀に塗り潰された一瞬は、ウェゼルニルとレムの間合いを無にするには十分すぎる時間であり、その瞬間に肉薄してきた巨躯が猛然と拳を振り下ろしてくる様を見た。当然、対応する。大鎌を振り上げると、拳と刃が激突し、凄まじい衝撃がレムの両手に走った。
そして、鋭い痛みがレムの顔面や胸元に走る。
風圧だ。
拳打の風圧と神威が生み出す力の渦が、レムの顔面や上半身を切り刻んで見せたのだ。
だが、そんなことはお構いなしに鎌を振り上げ続ければ、ウェゼルニルの拳を押し返すことに成功する。すると、脇腹を抉るような激痛と衝撃が走った。ウェゼルニルのもう一方の拳だ。皮を破り、肉を貫き、骨をも砕く、強力無比な一撃。
それだけではない。
拳打に付随して、神威の渦が吹き荒び、レムの全身をずたずたに切り裂いていった。そして、吹き飛ばす。
「ぐうっ」
レムは、苦悶の声を上げながら、空高く打ち上げられている事実を認識した。しかし、そのおかげでウェゼルニルの追撃を受けずに済んでいるのもまた、事実だ。
脇腹を貫いた一撃は、常人ならば致命傷になっていたのは間違いなかった。ただ打撃を喰らっただけではない。皮膚は破れ、筋肉は裂け、骨は複雑に折れ、内臓にまで大打撃を受けているのだ。その痛みたるや凄まじいものだったし、大量に血が噴き出したのもいうまでもない。
レムが普通の人間ならば、いまもうこの時点で再起不能となっていただろう。
しかし、レムは、ただの人間ではない。
死神だ。
内臓への深刻な被害も、骨折も、外傷に至るまで、瞬時に元通りに治り、痛みも消えて失せる。
空中で体勢を立て直すことができたのだって、死神だからだ。呼び出した
“死神”に自分を抱き抱えさせ、そのまま地上に舞い降りたのだ。
そして、“死神”の腕の中から飛び降りれば、なにもかも元通りだ。
開戦当初から、何一つ変わっていない。
いや、変わっていることもあった。
雪原に数カ所、大きな穴ができていた。ウェゼルニルの拳が生み出す風圧などによって吹き飛ばされた跡だろう。
「やはり、ずるいな」
「はい?」
「致命傷を与えたはずなのに、もう元通りだ。ずるいだろ、それは」
「……ウェゼルニル様」
レムは、微笑を湛えたまま、獅徒を睨み付けた。
「あなた様がいえたことではありませんよ」
「ははっ、違いない」
ウェゼルニルは大笑いに笑ったが、笑い事などではなかった。
ウェゼルニルもまた、レムのようにたとえ瀕死の重傷を負ったとしても、致命傷を負ったとしても、瞬く間に回復し、元通りに戻ってしまうのだ。斃すには、“核”を破壊する以外に方法はなく、それが極めて困難であることは一連の戦闘からも明らかだろう。
獅子神皇が討ち斃されることも、獅徒の滅びの理由となるが、期待してはいけない。
セツナもレムと同じように隔絶されているに違いないのだ。セツナがレムほどの苦戦を強いられることがなかろうとも、だからといって、セツナが獅子神皇を容易く討滅できるとは思えない。どれだけセツナが強くとも、だ。
相手は、神々の王。
簡単に斃せる敵ではないのだ。
突入組の全員で力を合わせてもなお、斃せるものか、どうか。
「理不尽が理不尽を詰るのは、確かに馬鹿げた話だな」
ウェゼルニルは、ひとしきり笑ったあと、おもむろに拳を構えて見せた。
「しかし、だ。神々の王の使徒たる俺たちよりも、たかだか武装召喚師の使徒たるあんたのほうが、俺には理不尽に想えるよ」




