第三百四十七話 欲したもの
オリアンが妙な胸騒ぎを覚えたのは、ミレルバスの思考が読めないからではなかった。彼の口振りに、過去の記憶が呼び覚まされたのだ。遠い昔。ミレルバスがまだ青臭い夢を誇らしげに語っていた時代。オリアンがリバイエン家に入るずっと前のこと。
懐かしい記憶だが、浸っている場合でもない。
「……みずから王を討つか」
言葉にした途端、その馬鹿馬鹿しさに呆然とする。しかし、ミレルバスはオリアンの感情などお構いなしにうなずくのだ。
「ああ」
考えれば考えるほど、愚かなことだ。
国主みずから戦場に立ち、敵国の王を討つなど、本来ならばありえないことだ。あってはならない。あるべきではない。小国の王が戦場に立つというのはいい。弱小国家にしてみれば、王も戦力のひとつになりうる。しかし、ザルワーンはそのような小さな国ではない。
戦力は数多にあり、資金も資源も潤沢にある――そこまで考えて、彼は胸中で首を振った。
(それもいまや遠い昔のことか)
二ヶ月前、グレイ=バルゼルグの離反によって、膨大な戦力の六分の一が失われた。それが最初。いや、ログナーがガンディアに飲まれたのを最初とするべきなのだろう。ガンディアのログナー制圧さえ防げていれば、こうはならなかったのだ。
ガンディアの戦力を甘く見ていた。まさか、ガンディアにとって偉大な先王を失い、骨抜き同然となった小国にログナーを打倒できるとは、だれも思うまい。バルサー要塞の奪還が限度だろうとだれもが認識していた。
しかし、ガンディアは大方の予想をたやすく覆し、ログナー軍を撃破、全土を支配下に置いた。その後の施策も卒がなく、人心は安定しているという。ザルワーンによる支配よりも、ガンディアの統治のほうがましだという感情はわからなくはないのだが。
冷遇していた属国を奪われ、重要な戦力に裏切られたザルワーンではあったが、それだけならばまだいくらでも挽回することはできたはずだ。
グレイに拘らないのならば、全力でもって討ち滅ぼせばよかった。そうすれば、国内に敵を抱くという状況に陥らずに済んだのだ。ガンディアの侵攻に対して全戦力をぶつけることができた。
だが、グレイとその軍勢は放置された。ガロン砦に篭もり、龍府を睨む敵を黙殺したのは、いま思えば、ガンディアにとっての好手だったのだろう。
すべての始まりは、ナーレス=ラグナホルンという獅子身中の虫を飼ってしまったことなのかもしれない。
ナーレスを見出し、重用したのはミレルバスだ。そのけじめをつけるためにみずから動くというのは、感情としては理解できなくはない。
そして、戦力的にも、彼が戦場に立たざるを得ないまでに追い詰められた。個人の力などたかがしれている。だが、彼一個の命で敵軍の指導者を討つことができるのならば、安いものだ。特にザルワーンにとっては。
ミレルバスとレオンガンド。互いに国主の命であれど、等価ではない。
ミレルバスは、こういうときのために後継を育成してきた。彼の思想を受け継ぎ、理想を実現するための人材を手ずから育て上げたのだ。彼は自分自身も駒のひとつと考えている。ザルワーンを理想の国にするための駒、手段に過ぎないのだ。
「……君の出番は訪れないと思っていたのだがな」
「わたしも、そうであればそれでよいと思っていた。だが、どうやら、現実というものはそう上手く行くものではないらしい」
だから、国主みずから敵軍の指導者を討ち、戦いの幕を引こうというのか。
確かに敵軍の、敵国の王を討てば、軍は勢いを失うだろう。勢いを失うどころの話ではない。ガンディア王はまだ若く、未婚であり、跡継ぎとなるべき人物もいないのだ。
レオンガンドを失えば、それだけでガンディア国内は混乱し、政情は乱れるだろう。戦争を続けることなどできるはずもなく、ガンディア軍は龍府への侵攻を諦めざるをえない。制圧した都市のいくつかも手放すかもしれない。手放さないとしても、奪還の機会は訪れる。それだけの状況を作ることはできるだろう。
レオンガンドを討つのは、この状況を覆すには唯一無二の手段ともいえるのだが。
「だが、どうするつもりだ? 彼らが守護龍を突破するとは思えないが」
オリアンは自負を持って彼を見た。
ガンディア軍には、守護龍一体とて倒すことはできないだろう。黒き矛でさえ、《白き盾》でさえ、ドラゴンには手も足も出なかったのだ。全力をぶつけたところで、ガンディア軍に勝ち目はない。突破することなどできるものだろうか。
とはいえ、守護龍は砦の跡地から動くことはできない。契約が、ドラゴンの行動を束縛している。不安要素を払拭するためには、そうしなければならなかった。ドラゴンに行動の自由を許せば、操者の死の果てに待つものがより悲惨なものになる。龍府だけではない。ザルワーン全土、いや、小国家群全域にとっての脅威となるかもしれないのだ。
しかし、守護龍が動けないことは大きな問題にはならない。ドラゴンはただ、龍府を守護する存在であればいい。敵の接近を阻み、撃退するだけでいいのだ。
無敵の防衛網、五方防護陣として君臨してくれていれば、それだけでよかった。それだけで、龍府はあらゆる外圧から守られる。
ガンディア軍もいつかは諦めざるをえない。兵力、資金、資源を無限に捻出できるわけではない。
「ガンディア軍はおよそ七千人に及ぶ大軍勢だという話だが、そのすべてを守護龍にぶつけるとは考えにくい。恐らくガンディア軍は、四千もあれば龍府の制圧は可能だと思っているのではないか?」
「ふむ……龍眼軍は二千人足らず。そう考えていても不思議ではないな」
オリアンは顎に手を当てた。
「つまり、三千人で守護龍の注意を惹き、残る四千人で強行突破するというわけか」
四千の中に武装召喚師を含めれば、その戦力は倍増するといっても過言ではないのだ。ガンディア軍には黒き矛を含め、数人の武装召喚師がいることはわかっている。
そして《白き盾》という傭兵集団の存在も大きい。クオン=カミヤひとりの存在で持っている組織ではないのだ。無敵の盾は、ただそれだけでは勝利を掴むことはできない。
《白き盾》には強力な武装召喚師が揃っており、その事実は守護龍からの報告でも確認できた。もちろん、守護龍そのものには無力極まりない存在ではあるのだが。
それだけの戦力を龍府攻略に差し向ければ、二千人の龍眼軍など相手にもならないかもしれない。蹴散らされ、龍府は瞬く間に制圧されるのではないか。そうなれば、この国は終わりだ。
龍府はこの国の、ザルワーンの首都だ。竜の国が竜の国たる所以が、この首都であり、その名に込められてもいた。
「しかし、三千人では守護龍の足止めにもならんよ」
オリアンは、ただ事実を告げた。ファブルネイアに集ったグレイ軍が、ドラゴンの力によって壊滅したことをいっているのだ。その事実は、当然、ミレルバスも知っているはずなのだが。
「レオンガンドが勝利のための犠牲を厭わぬ男ならば、三千を犠牲にしてでも龍府を落とそうとするだろう」
「レオンガンドは、そのような男かね」
「少なくとも、彼のザルワーンへの憎悪は深い」
オリアンは涼しい顔で聞いていた。ミレルバスは、シウスクラウドの死因に言及している。二十年前、ザルワーンを訪れたシウスクラウドに死に至る毒を仕込んだのは、マーシアス=ヴリディアだった。彼は暴君としてザルワーンの歴史に残ったが、オリアンにとっては外法の師でもあった。
オリアンは武装召喚師としてマーシアスに拾われ、彼に武装召喚術を教える代わりに外法を学んだ。マーシアスも、悪い男ではなかった。
根っからの悪人など、そうそういるものではない。
だからといって、彼の政治が評価されることはありえない、と言い切れるほどに国主としては最悪だったのだが。災厄そのものといっても過言ではなかった。ミレルバスが国主の持ち回りを禁じようと決意したのもわかるほどだ。マーシアスの暴政によって破滅に近づいたザルワーンが持ち直したのは、ひとえに、国主となったミレルバスが尽力したからだ。ミレルバス以外の人間が国主の座についていたならば、ザルワーンはとっくに滅んでいたか、それに近い状態になっていただろう。
そんな男の毒牙にかかった哀れな王の息子が、レオンガンドだ。話によれば、彼はマイラムにおいて演説を行い、ザルワーンを悪と断じ、糾弾したという。シウスクラウドの死因がザルワーンにあると宣言されてからというもの、ガンディア軍の戦意は否応なしにあがったらしい。
シウスクラウドは、マーシアスとは真逆に位置する人物だったのだろう。国民に慕われ、兵卒からの信頼も厚く、将官も彼を英傑と仰いでいたのだ。彼らがザルワーンに対して憤怒を露わにし、憎悪をもって攻め寄せてくるというのは、当然の帰結だったのだ。
とはいえ、だ。
「己の感情だけで兵に死を強いるような男とも思えないがな」
レオンガンド・レイ=ガンディアは、オリアンの知る限りでは冷静な男だった。バルサー要塞の奪還に半年もかけている。ログナー戦争や此度の侵攻こそ電撃的なものだったが、それにはそれだけの理由があったことは想像に硬くない。
父を死へと追いやった国への復讐のために、自国の兵を死へと追いやるような激情家とはとても思えなかった。
「保険はあるだろう」
ミレルバスは、目を細めた。
「たとえば、《白き盾》」
「……なるほど」
オリアンはようやく、ミレルバスの考えに納得した。
《白き盾》のクオン=カミヤを使えば、三千の囮も有効に機能するだろう。たとえドラゴンを倒せないのだとしても、ドラゴンの苛烈な攻撃に耐えることができるのならば、無意味ではない。本隊がドラゴンの射程を突破できれば、ガンディアの勝ちなのだ。
もっとも、《白き盾》を使うのならば、ドラゴンに差し向ける囮に三千も割かないかもしれない。陽動の数が減れば減るほど、龍府への圧力が強くなるということにほかならないのだが、むしろ望むところかもしれない。
「龍府に来るかね……彼らは」
「来るだろう」
ミレルバスは断言した。戦いについて詳しくもないくせに、悪い勘だけは冴え渡る男だ。信じてみるのもいいだろう。どのみち、彼の判断に従うよりほかはないのだ。
「そうか……。盛大に出迎えねばな」
「後のことはこのものたちに任せてある。なんの心配もない」
ミレルバスは側近たちを一瞥して、いった。彼の半身として育て上げられた連中は、一様に不安げな表情を浮かべている。それは、ミレルバスの覚悟を知っているからこその表情だった。ミレルバスの想像通りガンディア軍の本隊が龍府に辿り着いたとき、そのときこそ、ミレルバスの命数は尽きる。
彼は、死を恐れてなどいない。
いや、みずから死に臨もうとしている。彼が戦場に立つというのは、そういうことだ。衰えの見え始めた肉体では、戦うことなどできるはずもない。数十年前とはわけが違うのだ。
無論、ミレルバスは、ただ死ににいくのではない。レオンガンドを討ち、その上で死ぬのだ。でなければ意味が無い。無駄死になる。いくら後継者がいるとはいえ、ただ死んでは、駒の無駄遣いだ。
そのための手段は、オリアンが用意していた。
「久々だ。戦場に立つのは」
オリアンがつぶやくと、ミレルバスは意外そうな顔をした。
「君も、出るつもりか」
「当然だろう。わたしは君の影だよ」
オリアンは、笑みを浮かべると、彼に背を向けた。戦いになるのなら、準備をする必要がある。
「オリアン」
「なんだ?」
呼び止められて、彼は振り返った。円卓の向こう側で、ミレルバスが立っていた。やけに空々しい魔晶石の光が、彼の全身を包み込んでいる。世が世なら、彼は名君と讃えられながら人生を終えただろう。それだけの人物だと、オリアンは信じている。
「苦労をかけるな」
「いつものことだ。気にするな」
「いつものこと、か」
「ああ。昔からなにひとつ変わっていないのだ、君は」
「人間の本質など、そう変わるものでもあるまい」
「数十年たっての言い訳がそれか」
「手厳しいな」
「当然だよ」
オリアンは、笑った。苦笑を浮かべるミレルバスの顔に、青年時代の彼を重ねあわせている自分に気づいたのだ。身も心も若く、青かったころ。彼にはまばゆい希望があり、あざやかな夢があり、高邁な理想があった。
それはいまも変わっていないのだろう。いまも理想を追い、夢の実現を目指しているのだろう。しかし、あのころの彼は、もっと別のなにかを欲していた。だからこそ、オリアンに武装召喚術を習いたがり、それが無理だとわかると、オリアンを羨ましがっていたのだ。
彼は、権力に対抗したかったのだ。
(君はただ、力が欲しかったのだろう?)
力があれば、取り戻せると思ったに違いない。
力さえあれば。
純然たる力さえ――。
「では、な」
オリアンは今度こそ背を向け、歩き出した。過去に浸っていても仕方のないことだ。状況は常に動き、変化している。時間が惜しい。
龍府が戦場になるというのなら、相応の準備をする必要があった。