第三千四百七十一話 星の海、獣の刻(九)
シーラは、想った。
帰りを待ってくれているひとがいる。再会を待ち望んでくれているひとがいる。いますぐにでも逢いたいひとがいる。
だから、死ぬわけにはいかない。ここで終わるわけにはいかないのだ、と。
すると、どうだろう。
ハートオブビーストが、まるでシーラの想いに答えてくれるようにして、吼えた。
蝕が生み出した暗黒空間に蝕まれ、急速にぼろぼろになっていく肉体は、いまこの瞬間も大量の血を流しているはずだった。全身を苛む激痛が、その証だ。
皮膚が剥がれ、筋肉が裂け、骨が砕かれていく。それでも、まだ、右腕は繋がっていて、斧槍を握り締めていた。
ハートオブビースト。
そして、血は、ハートオブビーストの能力を発揮するための触媒だ。
シーラの全身から流れ落ちていく大量の血液は、すべて、ハートオブビーストの糧となった。獣の槍が吼えたのも、その血を吸ってのことだろう。
血が獣を目覚めさせ、再び、九つの尾を顕現する。
ハートオブビースト・ナインテイルの発動は、シーラの崩壊寸前の肉体を瞬く間に復元させた。失われた部位を創造し、体に馴染むように変化させ、治癒する。
治癒の尾だけならば時間のかかる再生も、三本の尾を用いればあっという間だった。
もちろん、体が元通りに回復したからといって、状況が好転したわけではない。依然、全周囲には暗黒空間が広がっていて、シーラを滅ぼすべく押し寄せてきている。
なにもかもを飲み込む闇の力。
命を賭した、みずからの死を、みずからの滅びを省みない最終手段。
故に、どこにも逃げ場はない。
(あんたの愛も、本物なんだろうな。ファルネリア)
だけど、と、シーラは、ハートオブビーストを握り締め、九つの尾の全力を解き放った。
(俺は、決めたんだよ)
九つの尾の共振が生み出す絶大な力の渦は、大いなる混沌そのものとなって暗黒空間を掻き混ぜ、シーラを滅ぼすべく一点に集中していた力の流れを変えていく。
シーラは、その大いなる力の流れの中で、再び、巨大獣と化すと、全身全霊の力を込めて、跳んだ。なにもない暗黒空間を蹴り、眼下に向かって、跳躍したのだ。
眼下に広がる暗黒の闇は、無限に続くかのように思えた。
が、しかし、シーラは、その闇の先にこそ光があるのだと信じた。
確信がある。
この暗黒空間は、ファルネリアの最終攻撃手段であり、ファルネリアが生み出した星の海そのものを暗黒空間に変えたものだ。つまり、星の海の、あの宇宙の果てへと至れば、脱出できるということだ。
ただし、この暗黒空間は、中心に向かって絶大な力の流れが出来ていたため、白毛九尾の力を以てしても抜け出すのは至難の業だっただろう。
その点に関しては、既に手を打っている。
混沌の尾の力を最大限に引き出し、暗黒空間の力の流れを変えたのが、それだ。
シーラの囚われていた中心に向かっていた力の流れは、いま、暗黒空間の外に向かっていた。つまり、シーラは、その力の流れに乗っていけばいい。
皮肉なことに、シーラに滅びをもたらすはずの破壊的な力の流れこそが、シーラに勝利をもたらすものとなったのだ。
そして、暗黒空間の果てへと至るまで、それほど時間はかからなかった。
絶大な力の流れに乗ったのだ。
その移動速度も、想像を絶するものがあった。
暗黒空間の内と外を隔てる壁のようなものはなかった。
ただ、闇を抜けただけだ。
しかし、光があるわけではなかった。
絶対の暗黒が薄闇へと変わった、ただそれだけのことだ。
それはそうだろう。
ファルネリアの宇宙は、星天の間の空を覆い尽くすほどのものだった。空にあるはずの光をすべて飲み込み、夜の闇に変えてしまったのだ。
そんな星の海のすべてが暗黒空間に変わったのだとすれば、暗黒空間を脱したところで、光などあろうはずもない。
(それも、これまでだがな)
シーラは、地上に降り立つと、頭上を仰ぎ見た。
快晴の青でも、満天の星々でもなく、暗黒の闇に覆い尽くされた空は、まるで世界の終わりを想起させるようだ。
広大で強大な力の檻。囚われたものは、滅ぼされるまで抜け出すことはできない。いや、滅ぼされたとしても、力の檻に囚われ続けるしかないのだろう。
ファルネリアの力が途絶えるそのときまで。
さすがは獅徒としかいいようがない。
シーラがこうして脱出できたのは、ハートオブビーストと、彼女を奮起させてくれたひとびとのおかげだ。
シーラひとりでは、こうはならなかっただろう。
空を覆う暗黒空間をよく見れば、その一点から力が流れ出しているのがわかる。
それは、シーラの脱出経路だ。
九尾の力によって作り出した力の流れが、暗黒空間に満ちた力をその外部に放出させているのだ。それはつまり、暗黒空間を拡大させることに繋がるのだが、問題はない。
暗黒の闇の領域が広がれば広がるほど、その力は薄く、弱くなっていく。
闇の濃度そのものも、だ。
そうすると、どうなるか。
シーラは、金眼白毛九尾の目でもって、暗黒の闇の中に漂うファルネリアの残骸を発見した。
残骸。
もはや、そう呼ぶ以外にはないくらいに無惨な姿をしていた。
シーラの攻撃によって体のほとんどが破壊され、上半身と頭部の一部しか残っていない状態だったのだ。再生していないのは、暗黒空間を生み出し、維持するために力を使っているからなのか、どうか。
シーラは、再び、九つの尾の力を共振させた。混沌の尾の力でもって強大な力の流れを生み出し、暗黒空間に風穴を開ける。
そして、跳ぶ。
ファルネリアの残骸に向かって、だ。
混沌の力によって紡がれる力の流れに乗って、暗黒空間を貫き、ファルネリアの元へと至る。
シーラは、ファルネリアの無惨な姿を目の当たりにして、なんともいえない気持ちになった。
「ファルネリア」
「……まったく、あなたという方は」
ファルネリアが、口元だけで苦笑した。頭部も、半分しか残っていない。そして、その頭蓋の中に“核”が露出していた。
“核”に、亀裂が入っている。
「どうして、声をかけるのです? さっさと止めをさせばよろしいのに……」
「そうだな。本当ならそうするべきなんだろう」
ファルネリアのいうとおりだ。声などかけず、感傷になど浸らず、さっさと止めを刺し、決着をつけるべきなのだ。
それで、この戦いを終わらせるべきだ。
ファルネリア自身のためにも。
「あんたは敵だ。斃すべき、な」
「ええ。ですから、わたくしも全力であなたを斃そうとしました。けれど、このような結果に終わってしまった……」
「……俺は、死ねないんだよ。あいつらと約束したんだ」
シーラの脳裏に、侍女たちの笑顔が過ぎる。
「セツナと添い遂げるってな」
「まあ……」
「それはさ、あんたを斃すよりもずっと困難で、大変な道なんだよ」
「……ふふ。だから、わたくし如きには負けていられない、と?」
「あんたは、強かったよ」
それは、誇張でもなんでもなく、本音だった。危うく命を落としかけた場面が何度もあったのだ。
「でも、俺の恋敵たちはもっと凶悪だからな」
「……ああ」
ファルネリアの口から漏れたのは、なにかを悟ったような、そんな声だった。
「いま、わかりましたわ。わたくしが負けた本当の理由……」
ファルネリアの残された体が急速に崩れていく。
見れば、“核”が自壊を始めていた。
「わたくしは、あのひとと一緒にいられるだけでいい……そう想ってしまった……だから……」
「ファルネリア……」
シーラは、獣人態に戻ると、崩壊していく獅徒の体に手を伸ばそうとした。しかし、シーラの手が、ファルネリアに触れることはなかった。
それよりもほんの少し早く、ファルネリアの“核”が崩壊し、肉体が消滅したからだ。




