第三千四百五十三話 束の間
獅徒オウラリエルの体が跡形もなく消滅すると、残されたのはエスクただひとりだった。
戦いは、終わった。
まさに死闘だった。
命を賭けた闘争であり、エスクが求め続けていたものがそこにはあった。
全力を尽くし、限界を超え、ようやく掴み取った勝利。
なのに、どうにも虚しさがある。
勝てば満たされる。敵を斃せば喜べる。普段ならばそういう気分になるはずだったし、今回ばかりは、そんな風にはなれない自分がいた。
主のいなくなった領域には、いまもなお雨が降り続いている。その雨音が妙に心地よく感じるのは、虚しさをも包み込んでくれるからかもしれない。
(終わった……)
エスクは、自分の手を見下ろした。人間と変わらない手には、傷痕ひとつ見当たらない。手首も、腕も、肘も、肩も、胴体や足にだって、傷ひとつ残っていない。あれだけ切り刻まれ、ばらばらに切り飛ばされたというのに、一切の傷痕がなかった。
普通ならば、ばらばらにされた時点で死んでいるはずだ。
だが、死ななかった。
それはなぜか。
(人間じゃないから……だな)
人間であれば、オウラリエルに殺され、絶命していたことだろう。
人間であれば、こうして虚しさを抱きながら、勝利の実感を覚えることなどなかっただろう。
だから、人間ではなくなってしまったことをどう受け取るべきか、彼は静かに考える。
そもそも、“大破壊”を生き延びた時点で、精霊と呼ばれる存在が救いの手を差し伸べてくれた時点で、エスクは、人間とは異なる存在になっていたと考えるべきなのだろう。
本来ならば、“大破壊”の時点で命を落としていたのだ。
(……ああ)
エスクは、ふと、雨にぬかるんだ地面に映り込む別人の足を見つけて、ゆっくりと顔を上げた。燐光を帯びた足は、少し前にも見た覚えがあった。ドーリンの足だ。
顔を上げれば、ドーリンとレミルが立っていた。淡い光を帯びたふたりは、エスクが生き残ったことを喜ぶように微笑んでいる。
(わかっているさ)
胸中、彼は、いった。
なにがわかっているのか。
目の前に立っているドーリンとレミルが本物ではない、ということだ。
精霊が見せる幻であり、実体を伴わない妄想に過ぎない。
それ故に、ドーリンもレミルも無言のまま、エスクが望んだ通りの姿、思った通りの表情をするのだ。
オウラリエルが見えなかったのも、そのために違いない。
なぜ、精霊たちがそんな幻をエスクに見せたのか。
精霊たちに聞かずとも、わかる。
励ましてくれたのだ。
きっと、そうに違いない。
「ありがとうよ」
その感謝の言葉は、自身の肉体に宿る精霊たちに向けたものであり、そういった直後、ドーリンとレミルの幻像は跡形もなく消え失せた。
余韻もなにもあったものではないが、それでよかったのだろう。
余韻に浸っている場合ではないのだ。
戦いは、終わった。
厳清の間を受け持つ獅徒オウラリエルを討ち斃したのだ。
「行かなきゃな」
先へ進み、セツナたちとの合流を目指さなくてはならない。
そして、獅子神皇を打倒し、この戦いのすべてに決着をつけるべきだ。
オウラリエルは、獅徒として生まれ変わり、戦う力を持てたことを喜んでいた。だが、だれもがそうではあるまい。獅子神皇によって強制的に生まれ変わらされたことに絶望するものだっているだろうし、なにより、獅子神皇を放っておけば世界が滅ぼされる可能性が高いのだ。
そんなことを認めるわけにはいかない。
体力は、残っている。
随分と消耗してしまったが、体はまだまだ動くし、命のある限り戦えるのだ。なんの問題もない。なにより、そう簡単に死なない肉体を手に入れたのだから、たとえ体力が尽きたとしても、セツナの盾くらいにはなれるのではないか。
それは、エスクにとっては喜ばしいことだった。
「とはいえ……だ」
エスクは、雨中、歩き出そうとして、周囲を見回した。
エスクとオウラリエルの度重なる激突によって激変した地形は周囲のみだが、変わらぬ景色が遙か遠方まで続いている。
ナルンニルノル内部であることは間違いないとは思うのだが、ナルンニルノルそのものより広大な空間に思えるのは気のせいではないだろうし、どうやってこの空間を脱出できるのか、エスクには見当もつかなかった。
(オウラリエルを斃せばそれでいいと思ったんだが……)
どうやら、そういうわけにはいかないようだ。
と、そう思ったときだった。
「ぬおっ」
エスクの視線の先の空間が歪んだかと思うと、虚空に大きな穴が開き、その穴の中からなにかが降ってきて、地面に落着して泥水を飛ばした。
「なんじゃおぬしは!?」
虚空に開いた穴が閉じていく最中、ぬかるんだ地面に降り立った人物が怒声を上げる。その姿も声も表情も、なにもかも見覚えがあった。ラグナだ。
「また突然現れたかと思えば、なにもいわずに空間転移じゃと!? わしをだれと心得おるか! 三界の竜王が一翼にして緑衣の女皇じゃぞ!? もっと敬って然るべきではないか!?」
ラグナが怒声を張り上げていた相手は、エスクもよく知らない人物だった。人物といっていいのか、どうか。異形の存在であり、神兵や使徒を想起させる外見をしている。ただし、真っ白ではなく、透き通った桜色である点が、それらとも違うことを示しているようだ。
その姿には、はっきりと見覚えがある。
エスクがこの空間に転送される直前に見ている。
ナルンニルノルで待ち受けていたこともあり、ネア・ガンディアに属するものかと思っていたのだが、どうにも様子がおかしい。
というのも、ラグナが攻撃もせず、ただ食ってかかっているだけだからだ。敵対しているようには見えなかった。
「ら、ラグナちゃん……」
ラグナの手を引っ張るようにして彼女を抑えようとしているのは、エリナだ。そんなふたりを興味津々に眺めているのがトワであり、突入組のうち、四名の無事が確認できたということになる。
エスクは、なんだか安心して、ラグナたちに話しかけた。
「……なにかと思えば、ラグナにエリナちゃん、それにトワちゃんだっけ」
「む……エスクではないか」
「エスクさん、無事だったんですね!」
「んー……」
ラグナとエリナは、エスクの無事を喜んでくれたようだが、トワは、なんともいえない表情だった。関わりが薄いのだから、致し方がない。
「おうよ。いまさっき、獅徒を斃したところだ」
「つまり、わしらのほうが先に獅徒を斃せた、ということじゃな」
「なに……?」
エスクは、ラグナが勝ち誇るように告げてきたことがにわかには信じられなかった。
「わたしたちも獅徒と戦って、その、勝ったんですよ」
「そうじゃぞ。わしら三名の圧勝じゃったな!」
「ラグナちゃん……」
「ま……エリナの気骨と、トワの機転があったればこそ、じゃが」
「……なにがなんだかよくわからないが、ま、ともかく無事でよかった」
エスクは、詳細については尋ねなかった。話が長くなること請け合いだ。それよりも、重要なことがある。
「それで……どうしてここに?」
「わからん」
「わからん、って」
「ラグナちゃんのいうとおりなんです。わたしたちにも、よくわからなくて」
そういって、エリナは、後ろのほうを見遣った。
彼女の視線の先には、桜色の美しい化け物が佇んでいる。
「獅徒を斃したら、このひとが現れて……それで」
「ここに連れてこられた?」
「はい」
「こやつに敵意がないのは確かなんじゃがなー」
「敵意がない……か」
いわれてみれば、確かに、その化け物からは敵意を感じ取ることができなかった。
最初に対面したときから、そうだった。
敵意もなく、エスクたちを合流させたということは、味方なのだろうか。




