第三千四百四十六話 百万世界の叡智(九)
視界を埋め尽くした光は、おそらく、トワの神威だったのだろう。
生まれ立ての女神が放つ莫大な神威が、目も眩むほどに鮮烈な光となって世界を白く染め上げ、なにもかもを塗り潰していったのだ。その光の中心でなにが起きたのか、どのような結果に終わったのか、神ならぬエリナにわかるはずもない。
ただひとつ確かなことがある。
エリナをきつく締め付けていたアルシュラウナの巨腕、その握力が急激に弱まったかと思うと、いつの間にか手の中から解放されていたということだ。
そして、竜人態のラグナに抱き抱えられるようにして場所を移動していた。
神威の光が吹き荒れ、逆巻く光景は、ただただ圧巻されるものがあり、エリナは、ラグナの腕の中で茫然とするほかなかった。
まるで光の嵐だ。巨大な竜巻となって天に昇り、周囲に存在するありとあらゆるものを吸い上げながら、膨張していく。
アルシュラウナの姿は見えない。
だが、アルシュラウナが無事であるとは、とても思えなかった。無事ならば、アルシュラウナがこれまでそうしてきたように、トワの攻撃を無力化したのであれば、とっくに光の嵐は掻き消えているだろうし、無感情にも勝ち誇ってきたはずだ。
そうは、なっていない。
そして、光が消えて失せた。
本や本棚、図書館の残骸など、巻き込んでいたものすべても、光とともに消滅したようだった。
なにも残らない。
ただひとり、トワを除いては、だ。
トワだけは、空中にあった。アルシュラウナが浮かんでいた場所に、ただひとり、ぽつんと佇んでいる。
「終わった……のか?」
ラグナが、実感もなさそうにつぶやくのも無理のないことだった。エリナにだって、よくわからない。だから、半信半疑に話しかけるのだ。
「勝った……んだよね?」
「わからぬ……わしにはさっぱりわからぬ」
「えー」
「いったいなにがどうなって、こうなったんじゃ?」
「それはねえ」
エリナは、眉根を寄せた表情をしたラグナからトワに視線を移しながら、いった。
「全部トワちゃんのおかげだよ」
「それは……わかっておるのじゃが……」
ラグナが苦笑交じりにいってくる間、トワが降下してきた。全体的に幼さの残る女神には、掠り傷ひとつ見当たらない。
「トワよ……おぬしは、いつからエリナの中におったのじゃ?」
「んー……途中から」
トワは、どこか困ったような顔をしている。
「それはわかっておるわい」
「わたしが腕を切り飛ばされたときには中にいてくれたんだよね?」
「うん」
「本当なら、あのとき殺されてたんだよ、わたし」
「……じゃろうな」
ラグナが渋い表情をしたのは、エリナが絶体絶命の窮地に立たされていたことを思い出したからなのだろう。
「あやつが手加減をするとは考えられぬ。エリナが目障りとなれば全力で殺しにかかったはずじゃ。つまりじゃ。エリナよ。おぬしがこうしていられるのは、全部、トワのおかげじゃということを忘れるでないぞ」
「う、うん、わかってる」
「わかっておらぬな。おぬしの考えなしの行動が、危うくおぬし自身の命を奪うところじゃったんじゃぞ」
「ご、ごめんなさい……」
「役に立ちたいという気持ちはわかるが……もう少し考えて行動するべきじゃ。おぬしを失いたくないのは、セツナたちだけではない。わしも同じなのじゃからな」
「ラグナちゃん……」
エリナは、ラグナの愛情の籠もった叱責を受けて、心の底から反省した。ラグナのいうとおりなのだ。もし、あのとき、トワがエリナの中にいてくれなければ、エリナは間違いなく殺されていたのだ。それは、エリナ自身が一番理解していることだったし、だからこそ、トワに感謝していた。
「しかし、どうしてエリナの中に隠れようと思ったんじゃ?」
「あのひとに見つからないようにしたほうがいいのかな、って思ったから」
「それで、エリナの中、か。確かに、あやつはおぬしの不在にすら気づいておらんかったようじゃし、わしの中に隠れるよりはずっと正しい判断じゃったな」
「トワ、役に立った?」
「うむ。おぬしのおかげで勝てたのじゃ。胸を張るがよいぞ」
「うん! 胸、張る!」
ラグナに褒められたことが余程嬉しかったのだろう。トワは、満面の笑みを浮かべて、胸を張って見せた。その反応のひとつひとつが可愛らしい。エリナは彼女を抱きしめてやりたくなったが、不意に怖気を感じて、手を止めた。
「……わかっていた」
声は、頭上から聞こえた。
「ラグナちゃん!?」
エリナは、悲鳴を上げながら、それを見上げた。
アルシュラウナだった。
「案ずるな。崩壊が始まっておる」
いわれるまでもないことではあったが、確かに、空中に浮かぶアルシュラウナの体は、既に崩れ始めていた。頭部は半壊し、下半身は完全に失われているのだ。
“核”を破壊されたことによる肉体の崩壊。神人や神獣、使徒に見られる現象だ。それらが人間や動植物とは異なる存在へと成り果てたことの証明といってもいいだろう。
神人や神獣といったものたちは、“核”を破壊されてから数秒たらずで崩壊してしまうものだが、さすがは獅徒というべきか。“核”を壊されても、すぐには消滅しないようだった。
「わかっていたのだ。こうなる現実。こうなる運命。こうなる未来」
アルシュラウナは、先程までよりもはっきりとした声で、いった。
「それでも、わたしは、諦めるわけにはいかなかった」
上半身が下腹部から順番に崩壊していく。
「クオン様のために」
「クオン……ヴィシュタルのことじゃったな」
「うん……お兄ちゃんの友達だったって……」
「兄様のおともだち?」
「うん……詳しくはしらないけど……」
エリナが言葉を濁したのは、いまここで離すことではないと思ったからだ。
「無駄だとしても。無意味だとしても。無謀だとしても。無明だとしても」
アルシュラウナが何度となく繰り返した言葉は、自分に向けてのものだったのか、どうか。
エリナは、崩壊していく獅徒の体を見つめながら、なんともいえない気持ちになっていた。斃すべき敵であり、命のやり取りをした相手だというのに、なぜか、胸が締め付けられるようだった。
「しかし……なぜだ? なぜ、おまえのようなものが存在するのだ。未知の女神よ」
「トワちゃんのこと?」
「じゃろうが……こやつには、わしらの声はもう届いておらんようじゃ」
いわれてみれば、アルシュラウナは、先程から譫言のように一方的に言葉を発しているだけであり、エリナたちの言動に反応を見せたことはなかった。
「おまえさえ、おまえさえいなければ……わたしの未来も変えられたはずなのに」
アルシュラウナの肉体の崩壊は、ついに首へと至った。頭部は半分しか残っていないことを考えると、残された時間はほんのわずかしかない。そのわずかばかりを、彼は、呪詛を残すことに費やしたのだ。
「未来の存在しないおまえに、なぜ――」
そういって、アルシュラウナの頭部は粉々に砕け散り、消滅していった。
「未来が存在しない……って?」
「どういうことなのかな」
「ただの負け惜しみじゃ、気にするでない」
ラグナが、一笑に付すようにして、告げた。
「あやつは未来など見えておらなんだ。そもそも、トワは未知の存在じゃぞ。生まれたばかりの女神の未来なぞ、だれにわかるものか。たとえ、あやつが百万世界の知識に精通していたとしてもじゃ」
ラグナの意見はもっともだったし、エリナもそう想いたかった。
けれども、トワは、そうは受け取らなかったようだった。
「未来……」
幼い女神は、なにもなくなった虚空を見遣り、小さくつぶやいた。
その横顔からは、なにを考えているのか、まったく想像できなかったし、エリナにはかける言葉も見当たらなかった。




