第三千四百四十五話 百万世界の叡智(八)
「無駄かどうかは、やってみないとわからないよ!」
エリナは、ラグナが復活していく気配を感じ取りながら、アルシュラウナに向かって叫んだ。注意をこちらに引きつけることには成功したが、それだけではどうにもならないほどの力の差を認めざるを得ない。
圧倒的な力量の差。
それも、ただ力に差があるだけではない。
こちらの攻撃が一切通用しないというのが、あまりにも理不尽で、無常感を覚えさせる。
それでも、諦めるわけにはいかなかったし、攻撃の手を止めるわけにもいかなかった。
左腕を掲げたまま、緑羽の衣と青羽の翼、黄羽の王冠の能力を最大限に引き出し、発動する。
どこからともなく出現した無数の木の葉が、津波のようにうねりながらアルシュラウナに襲いかかれば、頭上に瞬いた無数の稲光が滝のように降り注ぐ。そして、濃密な霧がアルシュラウナの周囲一帯を飲み込んだ。
視界を奪えば、多少なりとも時間を稼げるのではないか、というエリナの目論見は、しかし、一瞬にして無駄だということがわかった。
雷の雨も、木の葉の津波も、当然のようにアルシュラウナには届かず、光背に触れた瞬間に分解されたのだが、アルシュラウナを遠巻きに包み込む霧の結界だけは、残り続けた。だが、それでは意味がなかった。視界を白く塗り潰したところで、アルシュラウナがエリナの位置を把握できないわけがなかったのだ。
もちろん、エリナはすぐさまその場から飛び離れている。青羽の翼は、大気中の水分を操るだけでなく、飛行能力を有しており、空中を自在に飛び回ることができたのだ。その能力によって、エリナは、攻撃と同時に場所を移動している。
しかし、雷の雨と木の葉の津波が消え失せた直後、今度は、左手首が切り落とされてしまった。
激痛に顔を歪めながらも、なんとか耐え忍んだエリナは、緑羽の衣があったことに心から感謝したものだった。緑羽の衣は、左手首の断面を羽で包み込むことで止血しただけでなく、集めた羽で擬似的に左手を作ってくれたからだ。右腕も、だ。
(これなら、まだ、戦える……!)
右腕と左手首を切り落とされたことは、この際どうでもよかった。
とてつもなく痛いし、状況が許すなら大声を上げて泣きたいが、そういう場合ではないのだ。生死がかかっている。ここで泣いて隙を見せれば、そのときには、命はなくなっているだろう。
(でも、だとしたら、どうして殺さないのかしら?)
エリナには、そのことが疑問だった。
アルシュラウナは、遠く離れたエリナに対し、精確無比な攻撃を叩き込むことができるのだ。それも問答無用で、こちらの防御手段を完璧に無視して、だ。緑羽の衣ごと右腕、左手首を切り落とせるのだから、当然、胴体を両断することだって可能なはずだ。
なのに、どういうわけか、アルシュラウナはそうしなかった。
そうすれば決着がつくはずなのに。
そうすれば、ラグナだけに集中できるようになるはずなのに。
そこまで考えて、エリナは、胸中で頭を振った。はたと脳裏を過ぎるものがあったのだ。
(そうか。そういうことだったんだ……!)
エリナは、アルシュラウナを包み込む濃霧が消え去る様を見ていた。すると、霧が晴れた先で、アルシュラウナが怪訝な表情でこちらを見つめていたことがわかった。まるで、エリナが生き残っていることが不思議とでもいうような様子だ。
(わたしを殺しているのよ、アルシュラウナは……!)
でも、生きている。
アルシュラウナが殺し切れていないからだ。
だれかが、なにものかが、アルシュラウナの攻撃を邪魔している。
アルシュラウナが知覚できないなにものかが。
それは何者なのか。
エリナは、それを理解した瞬間、勝機を見出した。フォースフェザーの全能力を解放し、自身を防御障壁で包み込むのと同時に、飛び立つ。翼を広げ、羽撃かせ、義手に発現した赤羽の杖で暴風を巻き起こせば、衣の力で木の葉を乱舞させる。数多の雷が頭上から降り注げば、津波が地上を埋め尽くす。
当然、アルシュラウナには届かない。
そんなことはわかりきっている。
エリナは、つぎつぎと無力化されていく攻撃を見つめながら、アルシュラウナに直進した。フォースフェザーの攻撃である以上、どのような策を弄しても、意味がない。だが、なにもしないわけにはいかないのだ。なにもしなければ、アルシュラウナは、エリナに注意を向けようともしないだろう。
「なにをしておるのじゃ!? エリナ!」
「これでいいのよ、ラグナちゃん。わたしは、死なない――!」
エリナは、悲鳴のようなラグナの叫び声を聞いて、力強く断言した。それが、アルシュラウナには不快に聞こえたのかもしれない。獅徒は、無表情に戻り、こちらを睨んできた。エリナは、止まらない。むしろ、加速している。一直線に、アルシュラウナの懐へ突き進む。
それによってわかったことは、ラグナの竜語魔法やフォースフェザーの攻撃を無力化する光背の文字列も、人体を分解するような力は持ち合わせていないということだ。張り巡らせた防御障壁こと剥ぎ取られたものの、フォースフェザーが分解されることも、ましてや送還されるようなこともなかった。
ただし、動きを止めざるを得なくなったが。
「無駄なことを。汝が未来は定まっている。変わらない。変わりようがない」
エリナが動きを止めたのは、アルシュラウナの巨腕に掴み取られたからだ。全身すっぽりと手の中に収まり、そのまま握り潰されるのではないかと思ったが、すぐには潰されなかった。だから、エリナは、アルシュラウナの目を見て、いった。
「だったらどうして、わたしは死んでいないの?」
「なに……?」
「もうとっくに死んでいるはずなんでしょう?」
「なにをいっておるのじゃ!」
ラグナが大音声とともにアルシュラウナの背後から襲いかかったが、獅徒は、右腕を軽く掲げただけで対処した。当初の十分の一以下の質量になったラグナの巨体が、音を立てて爆散する。莫大な光は、魔力の奔流そのものであり、膨大極まる魔力は、エリナの目の前に集まって、ひとの形を取った。
「エリナはやらせぬ!」
竜人態として復活を果たしたラグナが、アルシュラウナの巨腕を殴りつけた。渾身の一撃だったのだろう。巨腕がわずかに揺らいだ。だが、それだけだ。エリナを掴む巨腕を破壊するどころか、傷つけるにも至らない。それが力の差だ。ラグナは、これまで散々魔力を浪費している。攻撃のため、復活のために、消耗しすぎている。
それでも、ラグナは、諦めなかった。両手に魔力を集め、さらに殴りつけたのだ。
「エリナは死なせぬ!」
巨腕は揺れるだけで傷ひとつついていないようだが、ラグナは、何度も何度も殴りつけた。エリナは、なにもいわなかった。アルシュラウナの意識がこちらに集中しているという事実を確認できている。それだけで十分だ。
アルシュラウナが、口を開いた。
「無駄……無意味……無謀――」
「無明?」
トワの声は、エリナの中から聞こえた。
そして、つぎの瞬間、アルシュラウナが愕然とした表情になっていた。
エリナの体から抜け出したトワが、アルシュラウナの懐に飛び込んだかと思うと、その頭に触れて見せたからだろう。
光が、視界を白く塗り潰した。




