第三千四百三十九話 百万世界の叡智(ニ)
前方、アルシュラウナは、巨大な本を吹き飛ばされたことをなんとも思っていない様子で、こちらを見ていた。
そうしている間にも、本棚からつぎつぎと飛んできた本がアルシュラウナの周囲に集まり始めており、この空間そのものを破壊し尽くさない限り、本による攻撃を止めることができないと理解する。そして、それが不可能に近い、ということもだ。
この図書館めいた空間は、広大極まりないものであり、ナルンニルノルがそのまま収まりそうなくらいの広さがあるようなのだ。ナルンニルノル内部であるはずだというのにだ。つまり、空間が歪んでいるということだが、故にラグナの全魔力を用いたとしても、この空間を消し飛ばすことは困難であると判断した。
仮にそれが可能だとして、実行する価値も意味もない、ということもある。
なぜならば、本棚の書物による攻撃は、アルシュラウナの攻撃手段のひとつでしかないかもしれず、ほかにも様々な攻撃方法を隠している可能性が極めて高いからだ。攻撃手段のひとつを潰すために全力を尽くすなど、本末転倒も甚だしい。
その結果、敗れ去るようなことになっては、セツナに合わせる顔もない。
自分とトワはともかく、エリナは人間なのだ。負ければ、死ぬ。殺される。そんなことがあってはならない。
「トワの情報が正しければ、あやつは“霊樹”によって百万世界の知識を得ているということじゃ。故に、わしの攻撃の一切が通用しないのじゃな」
エリナに対して説明してやりながら、魔力を練り、雄叫びとともに魔法を発動させる。
前方に生じた翡翠の光が爆発的に膨れ上がったかと思うと、つぎの瞬間、無数の光線となって周囲に飛び散った。そして、アルシュラウナへとその軌道を変えると、前面に展開する無数の本に直撃した。光線と本の激突が爆発の嵐を引き起こす中、さらにラグナは吼え、魔法を発動させる。
対象の現在座標を飲み込む魔力の爆発。
だが、空間をねじ曲げるほどの翡翠の光の爆発は、アルシュラウナを吹き飛ばすことはおろか、掠り傷ひとつつけられなかった。
アルシュラウナが、爆発の起こる寸前、まったく別の位置に移動していたからだ。それはラグナたちの頭上であり、ラグナは、瞬時に別の魔法を発動させている。しかし、頭上を埋め尽くした魔力の奔流もまた、空振りに終わった。またしても、アルシュラウナは空間転移によって回避して見せたのだ。
今度は、ラグナたちの後方に転移しており、振り向いたときには、無数の本が彼の周囲を舞っていた。
「こんな風に、な」
「じゃ、じゃあ、ラグナちゃんじゃ斃せないってこと?」
「うむ」
「うむ、って……」
エリナが茫然とするのも無理からぬことだ。
「こればかりは仕方がないのじゃな。わしは長生きじゃからのう。これまで生きてきた中で、どれだけ魔法を使ったか、覚えておらん」
アルシュラウナは、まず間違いなくラグナが誕生以来幾度となく行使してきた竜語魔法の数々を知識として完璧に記憶し、把握しているのだ。ラグナの竜語を聞けば、それがどのような魔法で、どのように作用するのかを理解しているから、対処も容易くなる。
無論、対処できるだけの能力がなければ、知識だけではどうにもならないのが竜王の竜語魔法なのだが、獅徒の能力ならば、それも問題はない。
空間転移能力を持っているのだ。
どのような状況からでも、ラグナの声が聞こえたのであれば瞬時に回避行動に移ることができる。
それも最適解でもって、だ。
「まったく、元人間とは思えぬほどの記憶力の良さじゃのう!」
ラグナが苛立ち混じりに叫ぶと、アルシュラウナが無数の本を寄越してきた。そして、密やかに告げてくる。
「知っている……ラグナシア=エルム・ドラース……三界の竜王にして緑衣の女皇……巨人を滅ぼせしもの……聖皇の友……」
飛来した無数の本を竜語魔法で撃ち落としながら、ラグナは、アルシュラウナを睨んだ。獅徒の周囲には、まだまだ無数の本が浮かんでいる上、増え続けている。このような消耗戦を続けていれば、先に力尽きるのが自分のほうであり、得策ではない。
やはり、一か八かの手に出るしかないのだ。
「そうかそうか。わしのことはよく知っておるようじゃな。エリナのことも、知っておるのじゃろう」
「エリナ=カローヌ……カラン……ミリュウ=リヴァイア唯一の弟子……召喚武装フォースフェザー……ザンラシアの妖精王……」
「ざんらしあのようせいおう……?」
「ふむ……どうやら、あやつはフォースフェザーのことも熟知しておるようじゃな」
「フォースフェザーのこと?」
「おそらくはな」
召喚武装とは、異世界の存在を術式によって武器や防具に変化させたものだ。黒き矛も、オーロラストームも、シルフィードフェザーやラヴァーソウルも、本当は、まったく別の姿をした異世界の生命体なのだ。そして、強力な召喚武装は、異世界においてもそれ相応の力を持っていることがわかっている。
ザンラシアの妖精王とやらがフォースフェザーの正体ならば、フォースフェザーの能力が優秀なのも当然なのではないか。
もっとも、その妖精王とやらがどれほどの力を持っているのかは、ラグナには見当もつかないし、いまはどうでもいいことだ。
大切なのは、アルシュラウナの知識がエリナの召喚武装にまで及んでいるということだ。フォースフェザーを用いた攻撃も、通用しないだろう。
「召喚武装の本質まで把握しておるとは……博識じゃな。知識において、おぬしに敵うものはおるまいて。獅子神皇とやらも、知識量だけではおぬしには手も足も出まい」
聖皇の力の器たる獅子神皇の知識も圧倒的なものがあるはずだが、しかし、“霊樹”とやらを活用するアルシュラウナには到底太刀打ちできるものではないだろう。もし、獅子神皇の知識だけで十分だというのであれば、“霊樹”を利用する必要も、アルシュラウナにそれをさせる意味もなかったはずだ。
“霊樹”とアルシュラウナこそ、ネア・ガンディアの知識の源であり、軍事力、技術力の根本だったのだ。
「じゃが、そんなおぬしにも、知らぬことはある」
アルシュラウナが動きを止めたのは、ラグナの発言が引っかかったからに違いない。知識を誇るものにとって、そのような発言が気に触らないはずがないのだ。
「そして、それが弱点じゃ」
ラグナは、咆哮とともに魔力を爆発させ、周囲一帯の本を消し飛ばすと、アルシュラウナへの進路を確保した。そして、トワを肩に担ぎ上げると、魔力を込めて投げ飛ばす。
「ゆけい、トワよ!」
「え……? ええっ!?」
「セツナのために勝利をもぎ取ってこーいっ!」
「兄様のため……!」
咆哮とともに竜語魔法が発動し、トワの小さな体がまばゆい光に包まれた。かと思えば、トワ自身が強烈な神威を発し、さらに加速して見せた。あっという間にアルシュラウナの元へと到達したトワに対し、アルシュラウナは、反応すらできないようだった。
それはそうだろう。
トワは、生まれ立ての神であり、一切の情報が存在しない神だ。
正体も由来も意味も、なにもわからない。
アルシュラウナは、前方に本を集めて防壁を構築したが、莫大な神威と魔力を帯びたトワの前には意味を為さなかった。
本の防壁は容易く突き破られ、アルシュラウナの上半身もまた、ものの見事に吹き飛んだ。
トワの全身全霊の体当たりが、獅徒の強靭な肉体を粉砕したのだ。




