第三千四百二十五話 神の目(一)
「ナルフォルン……ねえ」
かつてアレグリア=シーンだったものが名乗った名を反芻するようにつぶやいて、エインは、なんともいえない気持ちの中にいる自分を認めた。
その変わり果てた姿は、光の道からガンディア島へと至る戦いの中で感じていた最悪の可能性を形にしたものであり、故にこそ、エインの胸中には複雑な感情が渦巻いている。
アレグリア=シーンの面影を多分に残した、人外。異形というわけではないにせよ、人間とはまったくの異質の存在であることは間違いない。全身が白く変色し、変容してしまっているのは、神威の影響だ。白化とも、神化とも呼ぶその現象は、生物の本来の状態よりも高次の存在へと変わり果てた証なのだという。
神兵も、使徒も、神将も、結局は同じことなのだろう。
どれだけ多く神の力を与えられ、順応することができたかどうかの違いに過ぎないのではないか。そして、使徒以上の存在と想われる神将は、獅子神皇によって並みの神に匹敵するか、それ以上の力を与えられていると考えていいのではないか。
神将なのだ。
獅子神皇の使徒たる獅徒以上の力を持っていたとしても、なんら不思議ではない。
《そうだ。だからこそ、速攻で蹴りをつけるべきだ》
エインの脳内に走ったのは、マユリ神の聲であり、エインは、その瞬間、視界が激しく揺れ動くのを認めた。自身の体が自分の意思や意図とは関係なく動いていた。
広大な平野の真っ只中に佇むナルフォルン。
その姿を頭上から見下ろしていることに気づいたときには、エインは、周囲に神威の塊が出現していることを知った。マユリ神によるナルフォルンへの攻撃だろう。無数の神威の塊は、槍状に収束し、一斉に降り注ぐ。当然、ナルフォルンへ、だ。
それが苛烈極まりない攻撃であることは、エインにもはっきりとわかる。マユリ神との合一によって、マユリ神の力を理解できているからだ。
そして、それが無意味であることも、正確に把握できるのだ。
「そういうの、無駄だと想いますよ」
《なに?》
「彼女は臆病だから」
だから、通用しないはずだ。
理屈としては支離滅裂だが、エインの中では一本の筋が通っていることだった。
実際、マユリ神が乱射した神威の槍は、ナルフォルンに直撃することすらできず、彼女を包み込む防御障壁に激突しただけで終わっている。防御障壁を貫通するどころか、傷つけることすらできなかったことからも、その防御障壁が極めて強大な力によって構築されていることがわかるだろう。
マユリ神の神威の槍が弱かったわけではない。
マユリ神は、速攻で蹴りをつけようとしていたのだ。つまり、神将の肉体を破壊し、内包しているであろう“核”をも壊し尽くすだけの威力を込めていたはずだ。それが、まったく通用しなかった。防御障壁に直撃し、爆散している。
その爆風を受けながら、大きく飛び退いたのも、エインの意思というよりはマユリ神の意思であり、彼はなんともいえない気分だった。自分の体が別の意思によって操られているのだ。気持ちが悪いことこの上ない。
《どういうことだ……?》
「いったでしょう。彼女は臆病だって」
エインは、ナルフォルンがゆっくりとこちらに向き直る様を見つめながら、告げた。
「戦場に出ることが心底怖くて堪らないから、戦場に出ずとも勝利できる方法ばかり考えていた。その結果、ナーレス師に見出されたのが、アレグリア=シーンという女性なんですよ」
無論、空想や妄想の戦術だけで評価されたわけではない。彼女の考え出した戦術の数々は、極めて現実的で実現可能なものばかりだったからであり、また、戦術によって勝利を収めたという事実もあったからだ。実績があり、将来性があるからこそ、ナーレスは、彼女を後継者のひとりとして選んだ。
エインとともに。
以来、互いに切磋琢磨する関係であり、毎日のように戦術論を交わしたものだ。
そんな日々の中でエインが彼女について理解したことといえば、彼女が極めて消極的な人物であり、端的にいえば臆病な性格の持ち主だということだ。
本来、戦いすら嫌いなのがアレグリア=シーンという女性だった。それなのに軍団長を務めていたのは、戦嫌いの臆病者という性格が災いした、といっていい。いかにすればみずからは戦場に出ずに済むか、という手段や方法ばかり考えていた彼女が、どういうわけか実績を重ね、軍団長まで上り詰めたのは皮肉というべきなのかもしれない。
が、むしろ、それは彼女にとっては喜ぶべきことだった。
軍団長ともならば、みずから戦場の真っ只中に赴く必要がないからだ。後方にあって指示を飛ばすだけでよかった。無論、時と場合によるが、彼女の場合、軍団長みずからが出馬しなければならないような状況を作らないことで対処していた。
そんな戦いぶりが評価され、ナーレスの後継者に選ばれたのは、彼女にとっては望外の喜びだったようだ。軍師となれば、みずから前線に出ることは決してありえない。軍師は、戦術上の生命線といっていい。そんな大切な存在を前線に出した結果、軍師が命を落とすようなことがあれば、大問題だ。
故に、アレグリアは、軍師を目指した。
エインとともに。
エインは、そんな臆病者のアレグリアが嫌いではなかったし、むしろ、好意を抱いていた。エインとはほとんど真逆の性質を持つ彼女との戦術論のぶつけ合いは、エインに新たな視点を与え、様々な戦術の可能性を教えてくれたのだ。アレグリアとの出逢い、アレグリアとの日々がなければ、エインは、一介の戦術家の域を出ることができなかっただろう。
それほどまでに彼女の影響は強く、故に、彼女のことはなんでも理解できているという自負があった。
もっとも、それは相手も同じことだろう。
アレグリアほど、エインを理解している人物はいない。
ナルフォルンに生まれ変わっても、同じことだ。
「そんな臆病者の彼女がみずから姿を現したんです。自分が絶対に殺されることのない、傷つくことのない状況を作り出していると考えるのは、当然のこと」
《ふむ。つまり、あれを斃すには、その状況を打開しなければならない、ということか》
そしてそれは、マユリ神の仕事ではない。
エインの役目だ。
ナルフォルンがこちらに顔を向けた。白く輝く姿は、それだけで神々しいのだが、身に纏う絢爛豪華な長衣もまた、神々しさを助長しているようだった。どういうわけか、目を閉じたままだが、そこになにかしらの意味があるのかまではわからない。
「ずっと気になっていたんですが、ひとつ、聞いてもいいですかね」
「なんです? エイン=ラジャール殿」
「……ああ、そういえば、御存知なかったんですね。俺はいま、エイン=ラナディースと名乗っているんですよ」
「ラナディース……?」
反芻するようにつぶやいたナルフォルンだったが、すぐに理解し、驚いたようだった。
「まさか、結婚していたのですか? アスタル=ラナディース将軍と?」
「はい」
「それは……なんといえばいいのかしら。おめでとうございます」
敵であるということを忘れているかのような彼女の反応は、かつてのアレグリア=シーンを想起させた。




