第三百三十七話 遠い願い(三)
「――いっているんだ」
自分の声で、彼は覚醒というものを認識した。ついさっきまで深い眠りに落ちていた意識が瞬時に活動を再開するはずもなく、彼は、ぼんやりと前方を眺めている。
彼が目覚めたのは、テントの中だった。ガンディア軍が《白き盾》団長である彼のためにと用意してくれたものではあったが、このテントを利用しているのは彼ひとりではない。《白き盾》の幹部には自由に使っていいといいつけていた。ウォルドもグラハムもこの広いテントの中でくつろいでいるはずなのだが、見える範囲にはいなかった。
クオンは、自分たちが持ち運んだ荷物を背凭れにして座っていた。地面の上には厚めの敷物が敷かれており、座ったまま長時間寝ていても、尻が痛みを訴えてくるようなことはなかった。冷えているわけでもない。
眠りに落ちる直前まで降りしきっていた雨は止んだのだろう。テントを叩く雨音は聞こえなくなっていた。雨水がテント内に侵入してくるようなことはなく、もちろん、敷物が雨水を吸ってクオンたちの眠りを妨げられるといったこともなかった。
クオンたち。そう、クオンたちだ。イリスはクオンの膝を枕にして眠っていたし、クオンの左肩には隣りに座ったマナの頭が乗っかっていた。ふたりとも、日頃の疲れのせいで睡魔に抗えなかったのかもしれない。
ふたりの寝顔を見比べながら、そんなことをぼんやりと考える。ふたりの規則正しい寝息は、彼女たちが健やかに寝ていることを如実に表している。特にクオンの膝枕で寝入っているイリスの横顔は、無邪気な子供のようだった。めずらしい表情ではあるが、ここのところ、見慣れた顔でもあった。イリスは、実の姉のアーリアとともにいるとき、こんな表情をしたものだ。普段の姉に対しては警戒心を抱く必要がないからだろう。マイラムでの対峙がいまでは嘘のように思えた。アーリアの演技だったのかどうか。
よく廻らない頭では、ろくな考えが浮かばない。超人的な力を得た少女の寝顔を見つめながら、息を吐く。
夢を見ていた。夢と現の狭間で、悪夢のような現実を見せつけられていた。それはよく覚えている。二日前のドラゴンとの戦闘経過については、夢に見せられるまでもないことだというのに、シールドオブメサイアは何度となく見せつけてきた。現実を直視しろ、ということなのだろう。盾の力だけではなにもできないという現実。
シールドオブメサイアの能力に頼りきりで、なにひとつ進歩していないクオンへの忠告であり、警告。
わかりきったことだ。いつだって自覚するしかない。どんな戦場であれ、クオンがすることといえば、シールドオブメサイアを召喚し、対象を守護するということだけなのだ。戦闘は仲間任せで、高みの見物といってもよかった。指揮を取るということ自体、ほとんど必要がない。なにせ、盾の庇護下にある仲間たちが負傷を負うことはないのだから、どのような無茶な戦い方をしても問題ない。窮地に陥ることさえない。
緊張感とは無縁の戦場を渡り歩いてきた。
それもこれもシールドオブメサイアの性能故なのだろう。シールドオブメサイアの能力があまりにも強すぎるから、クオンはなにもしなくていいのだ。これが、なんらかの欠点があれば話は別だったはずだ。一定の範囲しか守護できないというのなら、クオンも動き回る必要があっただろう。あるいは、部隊の指揮も取る必要が出てきたかもしれない。しかし、実際はそんなことはなかった。《白き盾》の団員を護るだけならば、なんの制限もなかったのだ。
(無敵の傭兵団。不敗の軍団……か)
クオンは、茫然と前方を見やった。《白き盾》の団長にと用意された広い空間には、ウォルドやグラハムの姿は見えない。クオンと、イリスとマナだけしかおらず、しかもふたりは寝入っている。少しばかりの寂しさを覚えて、苦笑を浮かべる。
ふたりも側に居てくれるのなら十分ではないか。
しかも、ふたりは無防備な寝姿を晒していた。クオンに気を許していることの現れだと信じてもいいはずだ。それは決して悪い気分ではない。少なくとも、イリスやマナがいる間は、孤独感に苛まれずに済むからだ。
これだけの仲間に恵まれている。これ以上を望むべくはないし、望むのは、仲間たちに対して失礼というものかもしれない。
《白き盾》は百人程度の傭兵集団だ。クオンの願いを叶えるため、スウィール=ラナガウディが東奔西走してかき集めた人材が多い。クオンの元に集った団員たちは、普通の傭兵とは違う。そもそも、傭兵団とは名ばかりの組織でもあった。傭兵として戦地を渡り歩くことこそすれ、各地の皇魔の巣を潰していくことにこそ重点を置いて活動していた。傭兵稼業は、集団を維持する費用を捻出するために過ぎない。
(願い……か)
瞑目する。身動ぎひとつできないのは、ともすればマナとイリスを起こしてしまいかねないからだ。ふたりの眠りを邪魔したくはなかった。特にマナの消耗は激しく、ドラゴンとの戦闘が終わってからというもの、ぼんやりとしている彼女を見かけることが多々あった。
クオンが休めといっても、笑って誤魔化すのが彼女なのだ。気を張り続けている。イリスの手前、ということもあるのだろう。ふたりは姉妹のように仲がいいのだが、といって、対抗意識がないわけでもないようなのだ。複雑なものだ。
(その点、ぼくは単純かもしれないな)
己の頭の軽さに自嘲を浮かべ、瞼を開く。
(願い続けるだけのことだ)
夢の中でのシールドオブメサイアの言葉を思い出す。
光を放つ女の姿になった無敵の盾は、クオンのすべてを見透かしたかのように嗤ったものだ。クオンの卑しい夢想を嘲笑し、罵倒するのが、彼女の趣味のようなものなのだろう。夢現の狭間で邂逅するたび、クオンは彼女に詰られ、責められてきた。
それがシールドオブメサイアを召喚する代価というのなら、喜んで受け入れよう。そういう決意は、あの空間では意味をなさない。裸の心は、過剰なまでに反応し、過激なまでに攻撃的になってしまう。それがクオン=カミヤという人間の本性なのだ、といわれてしまえば、そうなのかもしれない。護ることよりも、攻めることのほうが性に合っているのかもしれない。
とはいえ、現状、彼に敵を攻撃する力はない。身体を鍛え上げたところで、彼の役目が変化することはないのだ。ただ、盾を掲げていればいい。シールドオブメサイアを召喚し、仲間を守護していればいいのだ。それだけで勝利は約束される。戦う必要はない。
この手を地に汚す必要はない。
(ぼくはひとを殺したことはない……)
そんなことを彼に告げて、なんの意味があったのか。どういう反応を期待していたのだろう。彼が驚くさまを見たかったのか。彼が嘲笑するのを期待したのか。願ったのか。なんにしても、馬鹿げた台詞だったとは想う。想うのだが、いまさら取り消すことはできない。過去は変えられない。時は戻らない。
(嫌われたかな)
考えても詮無きことだが。
ふと、前方の天幕が揺れたかと思うと、貴公子然とした男が入ってきた。ベレル王国の騎士長でありながら、クオン暗殺未遂の責によりすべてを失った人物。グラハム。ただの、グラハムだ。家名さえも取り上げられてしまった彼は、そう名乗るよりほかなかった。もっとも、すべてを国に返上した彼は、むしろすっきりとしたらしく、身軽になったことを喜んでさえいた。騎士長という重責は、彼には負担になりすぎていたのかもしれない。
グラハムはこちらを見ると、怜悧な表情を崩しもせず、冗談とも付かないことをいってきた。
「取り込み中でしたか」
「……笑えないな」
「これは失礼を。しかし、たまには冗談のひとつもいってみたくなるものです。わたしだけが堅物を気取っていても仕方がありませんからね」
グラハムは悪びれもせずにいってくると、靴の底についた泥を丹念に拭った。雨音が聞こえなくなったとはいえ、クオンが眠る前まで激しく降りしきっていたのだ。外の地面はぬかるんでいるに違いない。
彼は、泥を拭い終えると。足音も立てずに近づいてきた。ふたりが起きないように、彼なりに配慮しているのだろう。声も決して大きくはなかった。彼の声はよく通るのだ。小声であっても。聞き漏らすことはなかった。