第三百三十四話 力無き者(三)
クオンが盾を強く握り締めていると、周囲でどよめきがあった。顔を上げ、視線を巡らせると、ドラゴンに異変が生じようとしているのが見て取れる。
「おいおいおいおい……」
「まだ変化するのかよ」
傭兵たちが唖然とした声を上げたのは、ドラゴンがこちらを見逃すつもりはないということがわかったからかもしれない。
針鼠の体のように全身を覆っていた無数の棘が剥がれ落ち、露になった表皮の上に光が走る。棘爆弾が意味もなく炸裂し、閃光と爆音がドラゴンの変態を飾り立てる。まばゆい光に包まれたドラゴンの輪郭が、見てる間に大きく変形していった。鋭角的なものから丸みを帯びた形状へ。
クオンたちは、ドラゴンの変態を見守るしかなかった。遠距離からの攻撃が可能な召喚武装はなかったし、ただの弓では表皮さえ傷つけられず、跳ね返されるのが落ちだ。
とはいえ、遠距離攻撃が可能な強力な召喚武装があったからといって、事態は好転したかどうかは疑わしい。
ドラゴンは、スターダストを模倣して見せたのだ。遠距離攻撃ができたとして、それも模倣されたかもしれなかった。
「あれは……!」
ドラゴンの変身が終わり、光が消えたとき、真っ先にイリスが唸った。
「なるほどね」
クオンは、闇の中に出現したドラゴンの新たな姿を見て、愕然としながらも納得したのだ。
曇天の下に聳える巨体は、まるで純白の塔だった。全身を白の鱗で覆われたドラゴンは全体的に丸みを帯びながら、さっきまでよりもよりドラゴンらしくなっていた。
全長数百メートルの首ではなく、胴体が構築され、四肢が形成されていた。隆々たる腕には盾を連想させるものがあり、それは両足の関節部にもあった。背には一対の翼があり、翼から光を放射する様は、後光を背負っているかのようだ。長い尾が地中に伸びているところを見ると、自由に動き回ることはできないようだ。
「シールドオブメサイア……」
「はっ……冗談じゃねえぞ」
マナのつぶやきに対し、シグルド=フォリアーが吐き捨てるのも無理はなかった。だが、マナの言も間違いではないのだ。ドラゴンの腕と足にある盾のようなものは、シールドオブメサイアとまったく同じ形状をしていた。
真円を描く純白の盾。
召喚者の意思に応じて無敵の防壁を構築する魔法の盾は、ドラゴンの四肢においても淡く光を発していた。つまり、同じように機能しているということだろう。
「あんなの、どうやって戦うってんだ?」
「さあ?」
シグルドとジンという歴戦の猛者が根を上げる傍らで、ルクス=ヴェインの横顔は楽しげだ。圧倒的な力を見せつけてきた怪物相手に笑みさえこぼしている。余裕があるとも思えない。しかし、彼にとって戦いとは愉悦そのものなのかもしれない。
ルクスがこちらを一瞥した。
「シールドオブメサイアに弱点はないのかい?」
「使用者の精神力が尽きれば、召喚武装は力を発揮できなくなります」
「それって、武装召喚師の弱点だよね」
「ええ」
「ってことはだ。シールドオブメサイア自体に弱点はないわけだ。ふーむ」
ルクスは腕を組んで唸ったが、実のところ、そこまでのものではないとクオンは思っている。もちろん、ルクスのいう通り、シールドオブメサイアそのものに弱点というべきものはない。どう足掻こうと無敵の盾は無敵の盾だ。なにものにも傷つけられたことはない。ウォルドの打撃はおろか、マナのスターダストの爆発も意味をなさない。だからこそ、彼女はスターダストを思い切り振り回すことができるのだが。
シールドオブメサイアが発生させる防壁は、守護対象を増やせば増やすだけ、その防御力は弱体化する。しかし、守護対象を数百人に広げた程度では大きな差は生まれないし、それが何千人となったところで、人間相手には気にならない程度の変化に過ぎない。さらに十倍の人数を守ろうとすれば、どこかに破綻が生じるかもしれないが、いまのところ人数を増やしすぎて防壁が崩壊した、などということはなかった。
「あのドラゴンにどれほどの精神力があるかはわかりません。尽きるまで待ち続けるというのは愚策でしょうね」
クオンが告げると、ジンが苦笑した。
「ドラゴンの精神力が尽きる前に、こちらの食料が尽きるかもしれませんね」
「絶望的だな」
シグルドが嘆息したものの、彼の目は絶望してはいなかった。楽観主義などではあるまい。ただ、戦って打ち倒すつもりがないだけかもしれない。この混成部隊の目的は、ドラゴンの調査に過ぎないのだ。倒す必要はないし、倒せないとわかれば素直に引き返すのが部隊として正しい行動だ。
なのだが。
ドラゴンがこちらを見下ろしながら、腕組みをした。大きくため息でもつくかのような所作をすると、翼を広げ、ゆっくりと降下していく。
巨躯ではあるが、首だけのときよりは一回り二回り小さくなっているように見える。相変わらず数百メートル規模の巨大さではあるし、その巨躯が大地に降り立っただけで周囲の地面が震えるほどの重量もあった。
重圧もある。存在の持つ圧力とでもいうべきか。四肢を得、擬人化したドラゴンは、まるで人間そのもののように仁王立ちをして、こちらを見ているのだが、それだけで心が萎縮してしまいそうになった。
シールドオブメサイアと対峙しているときのような感覚がある。心の奥底まで見透かされ、自分が自分でいられなくなるような、そんな錯覚。きっと、思い過ごしなのだ。気のせいなのだ。それでも、あの瞬間、クオンは我を忘れてしまう。
いま、この瞬間のように。
(馬鹿馬鹿しい)
クオンは、苦笑した。やっと、自分の置かれている状況に気づいたのだ。気づくのがあまりにも遅すぎた。苛立ちと歯痒さの中で、彼はドラゴンを見やった。
破壊し尽くされた森の中に立ち尽くす一体のドラゴンは、神々しいまでの光を拡散させながら、大地を睥睨している。地に這いつくばり、ドラゴンの一挙手一投足に注目せざるを得ない矮小な生き物たちを、見渡している。神の気分でも味わっているのかもしれない。
「いつまでこんな茶番を続けるつもりだ?」
クオンが問うと、真っ先に彼の周りの連中が反応した。
「クオン、どうしたんだ? いきなり……」
「そうですよ、クオン様。こんな状況になって頭が回らないのもわからなくはないですが」
イリスとウォルドの顔を交互に見やり、クオンはまたしても笑うしかなかった。イリスの目にも、ウォルドの目にも、光がなかった。生気といってもいい。生きているものになら必ず宿る光が、ふたりの目にはなかったのだ。開かれた瞳孔の向こう側に、闇だけがたゆたっている。まるで作り物だ。いや、実際作り物に違いない。
よく出来た偽物なのだ。
イリスとウォルドだけではない。
いまや背景と化し、まったく動かなくなったマナ、シグルド、ジン、ルクスも、精巧に作られた偽物に過ぎない。
「やめろ。彼らを、ぼくの大切な仲間を汚すんじゃない」
ドラゴンが、小首を傾げた。
「なぜ、わかったのでしょう?」
声は、ドラゴンが発していた。だが、さっきのような大音声ではない。穏やかで、緩やかな女の声。気高さと神秘性を兼ね備えた美しい旋律。素直に受け止めることができれば、クオンも心安らかになれるに違いない。
そうクオンに確信させるほどの力が、その声にはあった。
しかし、クオンは声に心を委ねることはなかった。むしろ拒絶するようにドラゴンを睨みつける。もちろん、ドラゴンに効果があるはずがない。そもそも、それが人間的な感情を持っているとはとても思えなかった。
「おまえのやることだ。ぼくにわからないはずがないだろう」
クオンが告げると、世界が震えたような反応があった。