第三百三十二話 力無き者(一)
まず、闇があった。
おそらく、夢を見ているのだ。あれ以来、ずっと同じ夢を見ている。夢を見せられている。
(だれに?)
そんなことは、彼にはわかりきっていた。だから、やりきれない。そして、そのやりきれなさは、夢の始まりとともに忘れてしまうのだ。
闇の後、視界を埋め尽くすのは純白だ。
純粋な白の輝き。目に痛いほどあざやかで、網膜を焦がすかのように烈しい光が、熱を発しながら拡散する。その光熱が撒き散らす爆煙の中で、とてつもなく巨大なものがのたうち、狂ったように咆哮を上げていた。
夢と現実の境界が崩れ、なにもかもが現実感を持って彼の意識を包んでいく。
雷鳴のような轟音は、その人智を超えた怪物の絶叫だったのだ。耳を塞いでいても鼓膜が潰されるのではないかと案ずるほどの大音響は、さながら衝撃波となって木々を震わせ、草花を吹き飛ばす。
巨体が震えるたびに大地が震撼し、彼も彼の配下の傭兵たちも、地面に倒されないように踏ん張るのに必至だった。
ウォルド=マスティアだけは、例外だった。筋骨逞しい彼の足は、大樹の幹のように地に刺さり、激しい振動にも耐え抜いていた。両腕を覆う漆黒の篭手が、彼が戦闘態勢であることを示している。しかし、ブラックファントムの能力が効果的な相手とも思えなかった。そして、戦いは既に終局に至ろうとしている。
爆発の光と音が消え、怪物の絶叫も途絶えた。
「やったか……?」
「手応えはありましたけれど……」
自信なさげに答えたのは、マナ=エリクシアだ。彼女もウォルドと同じく軽装だ。《白き盾》の制服を身につけ、その上から灰色の外套を羽織っている。そして、手には召喚武装スターダストが握られていた。
モーニングスターを思わせる召喚武装は、もちろん、ただの鉄槌ではない。鉄槌の先端に生えた無数の棘は、小型爆弾そのものであり、スターダストが起爆信号を送ることで大爆発を起こす。とてつもない威力を誇る武器なのだが、自分や仲間を爆発に巻き込みかねないというところがある。
マナがスターダストを気楽に振り回せるのは、《白き盾》に属しているからにほかならないのだ。クオンのシールドオブメサイアは彼女と仲間を、スターダストの爆発から守り抜く。
いまも、《白き盾》の団員や《蒼き風》の傭兵たちはシールドオブメサイアの庇護下にあった。だからこそ、クオンたちはドラゴンに直接的な攻撃が仕掛けられるほどの至近距離にまで近づき、あらゆる手段を用いて攻撃を試みたのだ。
だが、《蒼き風》の傭兵たちによる怒涛の連続攻撃も、《白き盾》団員たちによる攻撃も、ドラゴンの首の表面を軽く傷つけることしかできなかった。ルクス=ヴェインのグレイブストーンは表皮を切り裂くに至ったようだが、それ以上の成果は望むべくもなく、ブラックファントムの打撃も通用したとは言い難い。もちろん、イリスの斬撃もほとんど意味をなさなかった。
一方、ドラゴンが繰り出す攻撃も、シールドオブメサイアの前では無力だった。ドラゴンが吼え、嵐が巻き起ころうとも、クオンを始め、白き盾の守護下にあるものは微動だにしなかった。傷付けられることもなければ、吹き飛ばされることなどありえない。嵐が起こったことすら認識できないものもいたかもしれない。大地が抉れ、土や岩が高く舞い上げられるのを目撃して、はじめてドラゴンの力に慄いたものもいただろう。
シールドオブメサイアの守護は、ほぼ完全に機能していた。絶対的な防御障壁が、彼の認識する味方ひとりひとりに対して発動し、あらゆる衝撃から彼らの身を守った。ドラゴンの偵察に出向いた人数の少なさが幸いしたといえる。これが中央軍総出だったらこうはいかなかっただろう。
偵察部隊を構成するのは、《白き盾》と《蒼き風》の傭兵たちであり、合わせても三百人に満たない程度だった。一見、戦力としては物足りないように見えるが、中央軍最大の戦力といっても過言ではない。無敵の防壁たる《白き盾》と、百戦錬磨の《蒼き風》による混成部隊なのだ。これ以上の戦闘力を有した軍勢など、そう簡単には作れないだろう。
そして、ドラゴンの偵察のためだけに繰り出した軍勢でないことは、だれの目にも明らかだ。あわよくばドラゴンを打ち倒し、龍府への道筋をつけて欲しいと、大将軍などは考えているはずだ。いや、それくらいしてもらわなければならないと思っているかもしれない。
シールドオブメサイアの庇護下にあれば、敵がどれだけ凶悪であっても問題はないはずなのだ。天を衝くほどに巨大な怪物が相手であってもその攻撃が無力ならば、クオンたちの勝利は時間の問題に過ぎない。たとえ、こちらの攻撃がほとんど意味を成さないのだとしても、蓄積するはずだった。時間はかかったとしても、撃破できればいいのだ。
ドラゴンを打ちのめし、龍府への道を開く。そうすれば、この戦争は終わりへと近づくことができる。
そんな中、ドラゴンの巨体を打ち倒したのは、スターダストの爆発だった。マナの召喚武装スターダストが発揮しうる最大の火力を叩き込んだ結果、ドラゴンは絶叫しながら、その巨体を地面に沈めたのだ。木々がなぎ倒され、大地が激しく揺れた。幸い、《白き盾》の団員も、《蒼き風》の傭兵たちも、ドラゴンの転倒に巻き込まれなかったようだ。
「ひゅー……さすがだなあ」
「これだから《白き盾》とは戦いたくないんだよな」
「攻防に一切の隙なし、ですね。うちも見習いたいものです」
沈黙したドラゴンを見遣りながら傭兵たちが発した言葉にも、クオンは表情を緩めたりはしなかった。スターダストの最大火力は確かに凄まじいものがある。度重なる攻撃にも耐え抜いたドラゴンを打ちのめすほどだ。戦場に彼女ひとり放り込めば、一騎当千の活躍を見せるのではないかと夢想することもあるのだが、実際はそういうわけにもいかない。
クオンが前方に視線を向けると、マナは肩で息をしていた。スターダストの火力を引き出すために精も根も尽き果てたのだろう。普通に棘を爆発させるだけならば、そこまで消耗することはないのだが、スターダストの力を引き出すとなると、疲労も半端ではないらしい。武装召喚師ならばわかることだし、クオンにも理解のできることだ。守護対象を増やせば増やすほど、設定を複雑にすればするほど、召喚者にかかる負担は大きくなる。
「マナ、君はもう下がっていい」
「クオン様……」
マナはこちらを振り返ってなにかを言いたげな顔をしたが、結局、なにもいってはこなかった。彼の命令に抗うことなく、こちらに向かってくる。
ウォルドとイリスは、前方に注視していた。ドラゴンは転倒したまま動かないものの、死んだわけではない。息吹が聞こえる。地響きのように聞こえていた音は、どうやらドラゴンの息吹なのだ。地は揺れておらず、視界も安定している。
ドラゴンは生きている。反撃の機会を伺っているのかどうか。
クオンは、マナが後方に下がる前に声をかけた。
「お疲れ様。君のおかげでドラゴンも倒せそうだ」
「ドラゴンさえ倒してしまえばあとは龍府を制圧するだけですもの。たまには、わたくしも頑張りませんと。《白き盾》の武装召喚師の名に泥を塗りたくはありませんし」
「だからといって無理をしすぎないようにね。ぼくはだれひとり失いたくないんだ」
「はい、クオン様」
そんなマナとの会話も吹き飛ぶような事態が起きたのは、その直後だ。
突如、ドラゴンが起き上がったのだ。ただ起き上がっただけならば驚くに値しない。スターダストの最大火力が通用しなかったことへの落胆はあっただろうが、逆にいえばそれだけで済んだはずだ。
もちろん、それだけでも偵察部隊に波及する衝撃というのは大きかったに違いないが、それ以上の衝撃が待ち受けていたのだから考えても仕方がなかった。
ドラゴンが形態を変化させたのだ。ドラゴンの全身を覆っていた外皮が剥がれ落ち、無数の棘が首や頭部に生えていった。まるで針鼠や山嵐のようだった。しかし、池中から生えた首はドラゴンのそれであり、頭部もまた、ドラゴンとしか言い様のない形状をしているのだ。
全身が棘に覆われたドラゴンは、さっき悲鳴を上げたことなど忘れたかのように、偵察部隊一同を見下ろしていた。地上数百メートルに浮かぶ頭部のことがはっきりとわかるのは、シールドオブメサイアによる感覚の強化のおかげだが。
偵察部隊が騒然となったのは、必然だった。騒然どころではない。恐れ慄くものがいてもおかしくはなかったし、それが自然の反応のように思えた。クオンですら、震えが止まらなかった。スターダストの爆撃をものともしないどころか、まったく別の姿を見せたのだ。そして、この針鼠のような姿以外の形態もあるのかもしれないと考えさせるのだ。
ただのドラゴンではない。なにかとてつもなく強大な意思を感じる。それは、クオンには想像もつかないものに違いなく、だからこそ、彼はシールドオブメサイアを抱える腕に力を込めるのだ。
(手を出すべきじゃない)
とも思うのだが、ドラゴンを越えなければ、この戦争は終わらないのだ。いや、厳密にいうならば、終われない、ということになるが。
ガンディア軍は勝利を積み重ね、ザルワーンの領土の三分の一を我がものとしている。ここで軍を引き、ザルワーンとの間で休戦協定を結ぶという手もないわけではない。ザルワーンも戦力の大半を失い、残すところは龍府の防衛戦力とこのドラゴンくらいなのだ。ガンディア側が働きかければ、応じないということはないだろう。
もっとも、その場合、ザルワーンの手に残るのはわずかばかりの領土かもしれない。龍府と、それを取り巻く五方防護陣、ルベン辺りか。ガロン砦以東の旧メリスオール領は、ジベルの手に落ちるだろうというのが、ガンディア軍上層部の見方であり、それについてはグラハムも同様の意見だった。近年、ザルワーンに敵愾心を抱いているジベルが、この領土奪取の好機をみすみす逃すとも思えないということだ。
南部はガンディアに奪われ、東部をジベルに盗られれば、残る北部だけの小さな国にならざるを得ないのだが、ザルワーンがそれを受け入れられるものだろうか。最盛期の三分の一ほどの国土も、いつかはガンディアの北進戦略によって飲み込まれるかもしれないのだ。
そう考えれば、休戦などありえない、という結論に辿り着く。
ならば、ガンディア軍はドラゴンを打倒し、龍府を制圧するしかない。
ガンディア王レオンガンドは、大義を掲げた。ザルワーンを打倒すること、それこそガンディアの悲願であり、宿願なのだと高らかに宣言したのだ。ガンディアの兵士たち、軍人たちは、レオンガンドの演説に胸打たれ、高揚感の中でマイラムを出発した。
中央軍が行った戦闘といえば、ロンギ川での夜戦だけなのだが、それでもガンディア軍は多大な損害を出して、ようやく勝利を得ている。それもこれも、レオンガンドの演説に後押しされたからこそともいえ、ここで大義を引き下げるということは、その犠牲を無駄にするということにほかならないのではないか。
レオンガンドならばそう考えそうなものだが、果たして。