第三百三十話 師弟(一)
「ねえ、セツナ、聞いたわよ!」
そんな風に呆然とするセツナに、ミリュウが飛びついた。均整の取れた腕が少年の首に絡みつく。セツナは反応すらできない様子だった。
「あんなのに師事するなんてやめときなさい! なんならあたしが手取り足取り教えてあげるわよ?」
「あんなのって、あのなあ……」
まさに猫なで声といったような甘ったるい声を発する女と、彼女とは対照的に全力で困惑している少年を見比べながら、カインはなんとなく合点がいく思いがした。ミリュウ=リバイエンは、セツナに取り入ろうとしているのではないか。
人目も憚らずセツナに抱きつく彼女の背後で、ファリア=ベルファリアが眉根を寄せ、怒気をはらんだまなざしをミリュウに注いでいるのだが、ミリュウにしてみればどうでもいいことに違いない。彼女の人生がかかっているといっても過言ではない。彼女は戦いに敗れ、捕虜として囚われの身となったのだ。生き延びるには、ガンディア軍に従うしかないのだ。
その点、ミリュウは素直だったらしい。武装召喚術で抗うこともなければ、体術を振るうこともなかったそうだ。中央軍との合流まで西進軍の一員のように振舞っていたというのだから、彼女の処世術も馬鹿にしたものではない。着眼点も良かった。
捕虜として唯々諾々と従うだけではなく、セツナに取り入ることで、自分の立場を少しでも良くしようとしたのだろう。彼の身も心も虜にできれば、戦中のみならず、戦後の立場も安泰だ。捕虜の身分から脱却することは容易く、それ以上のものが得られるかもしれない。
セツナ・ゼノン=カミヤという少年は、ガンディアにおいては救国の英雄に等しい扱いを受けている。国民からの人気では国王レオンガンドのそれを上回り、彼の訓練にさえ人集りができるほどだし、彼の一挙手一投足が新聞の記事になることもめずらしくはなかった。
レオンガンドが“うつけ”の悪評を返上したのがバルサー要塞奪還戦であり、その戦いにおいて流星の如く出現したのがセツナなのだ。それも年端のいかない少年で、容姿も悪くない。人気がでるのは当然だったし、レオンガンドらガンディア王国政府はその人気をさらに押し上げようとしていた。
もっとも、その後の活躍を考えれば、レオンガンドたちが暗躍する必要はなかったといっていいのだが、ともかく、セツナのガンディア国内における人気は不動のものとなった。
そして、彼はログナー戦争での戦功により、王宮召喚師の第一号に選ばれ、王立親衛隊《獅子の尾》の隊長に任命された。国王が選出した親衛隊の隊長なのだ。
一介の武装召喚師としては、これ以上はないというほどの栄達といってもよいのではないか。権力者といっても過言ではなかったし、西進軍においても彼の立場は特別だったはずだ。右眼将軍アスタルですら持て余すほどの位置に、彼は立っている。
そんな少年を我がものとすることができたならば、ミリュウの立場は大きく変わるに違いない。実際、彼の師匠となったルクス=ヴェインの立場は、ただの傭兵とは一線を画すものといってよく、団長のシグルド=フォリアーや副長ジン=クレールはその恩恵を受けているのだ。
ルクスはただ丁重に扱われるだけでなく、レオンガンドすら彼の機嫌を損ねないように配慮している節があった。彼がセツナの師を降りれば、セツナに悪影響が出るのは間違いないからだ。それだけルクスによるセツナの育成に期待しているということでもある。
セツナは、まだ成長途上だ。
彼は、心身を鍛えていけば、もっと強くなる。
(もっとだ。もっと……)
カインは、脳裏に燃え盛る炎を見ていた。カランの街を焼き尽くした猛火の中で、彼と敵対した瞬間のことを思い出していた。彼は正義の味方と嘯き、ランカイン=ビューネルに立ち向かってきた。見たのは、黒き矛の実力の一端に過ぎない。本来の力の半分も出しきれていたのかどうか。
あの戦いを思い出すたびに、鼻の奥に焦げ付いたような臭いが漂った。渦巻く熱気の中でがむしゃらに食らいついてくる少年の姿は、無謀であり、無策であり、あまりにも青く、あまりにも幼かった。子供だと、ランカインは内心嗤ったものだ。
だが、結果として、ランカインは負けた。ただ敗れたのではない。敗けた上に生かされたのだ。挙句、生き恥を晒さざるを得ない状況になってしまった。死ぬことは許されず、この身が果てるまで戦い続けなければならなくなった。ランカインとしても望むところではあるのだが、恨んでも恨みきれないところもある。
感情とは複雑なものだ。
彼を恨み、憎しみながら、その一方で期待さえ抱いている自分がいる。
黒き矛を手にしたセツナがどこへ往くのか、その果てまで見届けたいという想いがある。彼と黒き矛ならば、カインでは辿り着けなかった高みへと至ることができるのではないか。そんなことを考えるのだが、それこそ余計なお世話だろう。
しかし、彼の戦いぶりを目の当たりにすると、その先を見たくなるのも当然のことのように思えてならないのだ。
「あのねえ、ミリュウ。あなたは捕虜なのよ、わかってるの?」
「わかってるわよ、それくらい。だからって、受け入れがたい現実ってあるじゃない?」
「受け入れがたい現実って、師匠のことかよ」
セツナはあきれたようにいうと、ミリュウの腕の中からするりと抜けだした。ミリュウはセツナを逃すまいと腕を伸ばすが、その手は空を切っただけだ。彼女の後ろでファリアが笑みをこぼす。ミリュウはファリアを睨むと、即座にセツナに視線を戻した。
「そうよー。だってあんなぼろぼろのがセツナの師匠なんて、認められないわ」
ミリュウの暴言に、ルクスが口の端を歪めた。凶暴な笑みだ。ここが戦場なのではないかと錯覚するほどに鋭い。
「あんたに認められる必要もないさ。なあ、セツナ」
「まあ、そうですね」
ミリュウから解放されたセツナは、シグルドとジンに軽く会釈すると、こちらを一瞥した。彼の紅い瞳に浮かぶのは困惑だった。まさか、カイン=ヴィ―ヴルが見舞いに来るとは想定していなかったのだろう。師匠であるルクスや、彼の団長であるシグルドたちが来ることは予想できたとしても、だ。
セツナにとって、カイン=ヴィーヴルはランカイン=ビューネルであり続けているに違いない。そして、そうであればこそ、彼はカインを受け入れようとはすまい。もちろん、カインとしても、受け入れてもらおうなどとは思ってもいないが。むしろ、敵意を向けてくれるほうが心地いいものだ。
ついで、セツナが視線を向けたのは、ルクス=ヴェインだ。ぬかるんだ地面の上で、ふたりは対峙している。なぜか、妙な緊迫感がふたりの間に生まれた。
「師匠……確かにぼろぼろっすね」
「そういう君こそ、ずたぼろじゃないか」
「師匠ほどじゃないっすよ」
セツナは笑ってルクスの反論をかわそうとしたが、表情はひきつっていた。笑おうにも笑えないのだろう。全身の負傷と、蓄積した疲労のせいで、満足に動くこともできないのかもしれない。天幕の中でおとなしく休んでいるべきだったのだ。たとえ天幕の外が騒がしがったのだとしても、ファリアに任せておけばいい。彼はそういう立場にあるはずだ。
(まあ、それがセツナか)
なんでも自分でしなければ気が済まないような性格なのだ。無茶を無茶とも思わず、無理を通せば道理が引っ込むとでも信じているようなところがある。それは黒き矛の使い手としては、ある意味では正しいのかもしれない。あれほどの力だ。少しくらい無理をしたところで問題にはならない。それどころか、彼が無茶をすることで味方の被害が抑えられるのだ。黒き矛が敵を殺せば殺すほど、ガンディア軍の勝利は近づく。
彼に求められるのはそれだ。
数多の敵を倒し、ガンディアを勝利に導く。
そのためなら、この程度の無茶など、数にも入らないといったところかもしれない。
とはいえ、セツナもルクスも満身創痍であり、どちらの主張も間違いではなかった。ふたりとも、全身に包帯を巻いているような有り様だ。ザルワーンとの決戦が控えているとはとても思えないような光景だった。戦後のようにも思えるし、敗残兵たちが慰めあっているようにも見えた。