第三百二十八話 龍、二匹(二)
「この男ですら従順な狗に成り果てたのよ。あなた如きにわたしの支配を解けるわけがないでしょう?」
「は……?」
なぜか張り合うように胸を張ったウルに対し、ミリュウは怪訝な表情を浮かべただけだった。それから、ウルとこちらの顔を見比べるように視線を動かし、腕を組み、首を傾げる。
「どういうこと?」
「だから、わたしがあなたを支配しているってことよ、子犬ちゃん」
「だれが子犬よ」
「あなたに決まっているでしょう」
口を尖らせて反論するミリュウと、口に手を当てて高笑いするウルを見遣りながら、
「やれやれ」
カインは、小さく肩を竦めた。どうやらウルはミリュウをからかうことで暇を潰そうとしているらしい。彼女の被支配者だ。口論が激しくなったとしても、ミリュウが彼女に手を出すことはないだろう。ウルがミリュウの支配を解けば話は別だが、もう二度と、彼女はあのような真似はしないはずだ。自分で自分の首を絞める事になる。
ウルのか弱い首を締めた感触を思い出して、苦い顔をした。柔らかい皮膚に指が食い込んでいく感覚は、ランカインにとってはこの上ない愉悦だったに違いないのだが。
「……これはなんの集まりなんだ?」
「えーと。捕虜に仮面の怪人に魔女、だっけ?」
「わたしに同意を求められても困りますよ」
野放図な話し声は左後方から聞こえてきた。泥を飛ばすような足音とともに近づいてくる気配はみっつ。わずかに振り返ると、知った顔だった。とはいえ、カインとは直接の面識があるわけではない。
ガンディア王の走狗となった彼にとって、ガンディア王国軍に関わる人間の情報を集めるのは当然のことだった。情報網など持ち得ない彼の耳には、限られた情報しか入ってこないものの、それでもガンディア軍にとって重要な人物のことくらいはわかるというものだ。
傭兵集団《蒼き風》の団長シグルド=フォリアー、副長ジン=クレール、そして突撃隊長にして“剣鬼”ルクス=ヴェインの三人が、こちらに向かって近づいてきていた。筋骨隆々の大男と涼やかな風貌の男、包帯だらけの男。男臭いが、それが《蒼き風》という傭兵団でもある。いや、《白き盾》のように女っ気のある傭兵団のほうがめずらしいのだ。
陣中である。当然、団長も副長も武装していないのだが、ルクスだけは彼の代名詞ともいえる長剣を携えていた。グレイブストーン。刀身が湖面の如く美しい長剣は、召喚武装だという。常に肌身離さず持ち歩いているのは、なにものかに盗られると困るどころの話ではないからだろう。
ルクス=ヴェインは、武装召喚師ではない。召喚武装を送還することもできなければ、再度召喚することもできないのだ。武装召喚師ならば、召喚武装が奪われたとしても即座に送還し、後日再召喚すればいいのだが、彼の場合はそうもいくまい。取り返すまで、彼は無力にならざるを得ない。
もっとも、彼は、グレイブストーンの補助がなくとも十分に強力な剣士ではあるのだが。少なくとも、ガンディア王国軍内に彼と対等に渡り合える戦闘者など、数えるほどしかいないだろう。
「捕虜……間違ってないけどさ」
「仮面の怪人か」
「魔女ねえ」
ミリュウが不満気なのは、自分の立場を理解していないからということでもないだろうが、ウルが肩を竦めたのは、悪評を吹聴する兵士の存在に辟易したからかもしれない。彼女の知らないところで、そのような妄言を吐かれていてはたまったものではないだろう。もっとも、それで懲りるようなきもの小さい人間が魔女を嘯くことなどできるはずもない。
カインはというと、仮面の怪人という評価には反論の余地もないと思っていた。右腕をまるごと失い、それでも死なずに生きているのだ。人外の化け物だと陰口を叩かれても不思議ではなかった。普通なら、その痛みだけで死んでいる。人間とはそれほどまでにか弱い生き物だ。生命力が異常だという問題でもない。痛覚が壊れているのかもしれない。
「あれ、お気に召さない感じですか?」
「面と向かって、捕虜といわれて嬉しがる人間なんているのかしら。悔しくもないけどね」
「ま、そりゃあそうだ」
シグルドが豪快に笑うと、ミリュウはやれやれと首を振った。しかし、すぐさま表情を変える。彼女は、射抜くような目で傭兵たちを見回した。
「で、あんたたちはなにもの? ガンディアの軍人には見えないけど」
彼女の言う通り、傭兵たちにはガンディア軍人特有の華やかさはなく、また、ガンディア軍に所属するログナー人のような謹直さもなかった。端的にいえば粗野であり、ガンディア軍の正規兵に比べると野暮ったくもあった。
「《蒼き風》なんていうしがない傭兵さ」
「《蒼き風》……ねえ」
「まさか、聞いたことないとかいうんじゃないだろうな、あんた?」
「うーん……」
「そんな馬鹿な! ここ数年、ガンディアを活動拠点にしてたんだぞ……! ザルワーンの人間だからって、知らないはずは……」
シグルドが大声を上げてミリュウに詰め寄ったが、彼女は、傭兵の剣幕などどこ吹く風で腕組みをしていた。《蒼き風》団長が愕然としたのは、彼からすれば無理からぬ事だったのかもしれない。
《蒼き風》は、小国家群の各地で起こる小競り合いや戦争に顔を出しては荒稼ぎをしてきた傭兵集団だ。“剣鬼”ルクス=ヴェインの雷鳴は諸国に鳴り響いているし、シグルドやジンも無名ではない。《白き盾》が台頭する以前の小国家群では、《蒼き風》と契約を結べた国は安泰だと囁かれたほどだ。
しかし、それもここ数年の話であり、ミリュウ=リバイエンの事情を考えると、彼女が知らないのも当然の話だった。
「ここ数年? それじゃあ駄目よ。あたし、十年は地下に籠もってたし」
ミリュウの思いもよらぬ言葉に、傭兵たちは目を丸くした。
「へ?」
「十年?」
「地下に籠もっていた、というのは……」
ジンが興味を持ったことに対してだろうか、ミリュウがばつの悪そうな顔になった。きっと、深く関わりたくないのだろう。ぶんぶんと、大げさに手を振る。
「あー、あたしの身の上話はいいのよ。で、その傭兵さんたちがあたしのセツナになにか用? そこの怪人たちにも聞きたかったことだけどさ」
「あたしのセツナって……」
ウルが嘆息すると、ミリュウはそれが気に食わなかったのだろう。即座に噛み付いた。
「なによ、文句あるわけ?」
「あなた、自分の立場をわかっているの? 捕虜でしょう?」
「そうよ。あら、捕虜ならおとなしくしていなさいってことをいいたいのかしら? だったら、手足を縛って牢にでも繋いでおくべきよ。そうすれば、あたしだってしおらしくもなるかもね」
「……牢に繋げてもいい?」
ウルは半眼でこちらを見てきたが、カインは目を合わせなかった。彼の目は、困惑気味の傭兵たちに向けられている。歴戦の猛者たち。一度手合わせをしてみたいものだが、いまのところ、彼の希望が叶うことはなさそうだった。《蒼き風》は強力な傭兵団だ。レオンガンドは彼らを手放そうとは住まい。手放せば、敵に回るのは必至だし、敵に回せば強敵になるのは目に見えている。なんとしてでも契約を延長しようとするだろう。
「なぜ俺に聞く」
「なんとなく」
「だったらやめておけ。陛下に叱責されるのが落ちだ」
「あなたがね」
なぜカインが叱責される破目になるのかは皆目見当もつかなかったが、聞く気にもなれなかった。どうせくだらない理由でもでっちあげるつもりなのだろう。結局、カインを支配するのはウルなのだ。ウルがその気になれば、カインを操ることくらい容易い。自分の代わりに悪事を働かせることも、簡単なことに違いない。もっとも、ウルがそこまでしてミリュウを投獄するとも思えないが。
そもそも、牢がないのだ。監視を厳重にした馬車の中にでも閉じ込めておくのが関の山だ。そして、そんなことのために人員を割くなど馬鹿げているとレオンガンドは判断するに違いない。
それにミリュウはウルの支配下にある。彼女がガンディア軍にとって無害な存在となっているのは、ウル自身がよく知っていることだ。
カインとて同じだ。本来ならば投獄し、厳重に管理して置かなければならないような人間なのだ。それがこうして自由に振る舞うことが許されている。ウルの監視さえ必要としないほどに、彼の魂はガンディアに束縛されている。
レオンガンドへの絶対の忠誠心。
裏切ろうなどとは思いもよらず、彼のために死ぬことすら望んでいる。