第三百二十七話 龍、二匹(一)
「ミリュウ=リバイエン……か」
ふと、その名を言葉にしたのは、単なる気まぐれだった。ウルが食いついてくるとは思いもよらなかったが。
「知り合い?」
「知っているともいえるし、知らないともいえる」
「なにそれ」
ウルが顔をしかめたのを気配だけで感じ取りながら、彼は小さく告げた。
「その程度の間柄だということだ」
懐かしい名前ではある。ザルワーンを支配する五竜氏族のひとつ、リバイエン家の令嬢だったはずだ。ランカイン=ビューネルの武装召喚術の師に当たる、オリアン=リバイエンの愛娘といったほうが、関係としてはわかりやすいかもしれない。
もっとも、彼がオリアンと私的な関わりを持ったことはないし、オリアンが娘を愛していたのかは疑問の残るところだが。
オリアンは、魔龍窟に組み入れられた娘に対し、特別扱いなどしなかった。それを愛情と見ることはできない。あの地獄のような世界に娘を投げ入れ、平然としてられるような人物に、常人と同じ感情を求めるのも酷というものか。
ミリュウとは、魔龍窟で出会った。運命に見放された彼女は、失意と絶望の底にあったのを覚えている。
それ以前の彼女について詳しくは知らないが、少なくとも五竜氏族として恥ずかしくない暮らしをしていたのは間違いない。それはランカイン=ビューネルとて同じことだ。
ビューネル家の人間として生まれ落ちた彼は、それは大切に育てられた。五竜氏族の血が流れる特別な存在なのだと教わり、それを信じた。
この世には龍に連なるものと、地に這う人間の二種に区別されるのだと。
だがそんな幻想は、魔龍窟という現実の中で砕け散った。この世にあるのは、あられもなく生に縋ろうとする醜悪な化け物だけが存在し、龍も人間も、夢想の中だけの存在なのだと知った。
血反吐を吐き、血に這いつくばりながら、それでも諦めきれなかったとき、自分もまた、生に執着する獣に過ぎないのだと理解した。
(馬鹿馬鹿しい)
嘆息とともに歩き出す。
ミリュウは、既にこちらに気づいていた。しかし、仮面を被った不審人物の接近に対し、身構える様子もない。彼女が仮面の武装召喚師(カイン=ヴィーヴル)のことを知っていたとしても不思議ではないが、それ以前に彼女はウルと面識があるはずだ。
前述の通り、ミリュウはウルに支配されている。でなければ、彼女のような物騒な人物を野放しにはできない。
ミリュウは、カインと同じ魔龍窟出身の武装召喚師だ。武装召喚師は、武器や防具を携帯していなくとも、呪文を唱えるだけで凶器を呼び出すことができる。たとえガンディア軍を全滅することはできなかったとしても、痛撃を加えることくらいは可能だろう。魔龍窟の武装召喚術が行使できるのならば、の話ではあるが。
カインは、ドラゴンの出現以来、武装召喚術が使えなくなっていた。火竜娘も地竜父も竜人も、彼の呼びかけに応えてはくれなかった。その場合、なにものかが召喚しているという可能性がもっとも高い。
もちろん、カインには想像のつかない原因があるのかもしれないのだが、想像できないことを考慮しても仕方のないことだ。そして、召喚できない召喚武装など、存在しないも同じだ。
彼は、あれからというもの、新たな術式をいくつか組み上げており、実践のときをいまかいまかと待ち構えていた。呪文に誤りがなければ、召喚は実行され、彼の思い描いた武装が現出するだろう。その点については問題はない。たとえ失敗したとしても、それまでのことだ。
「あんた、カイン=ヴィーヴル……だっけ?」
天幕に近づくと、ミリュウが少しばかり敵意を向けてきた。ぎらぎらとした視線には、幾多の死線をくぐり抜けてきた猛者独特の烈しさがある。彼女の通ってきた死線は、ランカインのそれよりももっと絶望的だということを、彼は話に聞いて知っている。
彼が地上に出てからの魔龍窟は、より劣悪な地獄へと変わり果て、多くの武装召喚師見習いが死んでいったという。
武装召喚師を育成するために数多の人材が失われるなど本末転倒極まりないと考える一方で、強力な武装召喚師をひとりでもつくり上げることができたなら、失われた人数分の戦力は見込めるのかもしれないとも思った。
たとえば、黒き矛のセツナのような武装召喚師を輩出することができれば、魔龍窟が払った犠牲も無駄ではないと言い切れるのだが。
「ああ。そういう君はミリュウ=リバイエンだな」
「よくご存知で、ランカイン=ビューネルさん」
彼女が声を潜めたのは、遠巻きにこちらを見ている軍人たちに配慮してのことだろうが。
「……知っていたか」
カインは、ミリュウのまなざしを涼しい顔で受け流しながら、それでも驚きを隠せなかった。カインの正体を知っているのは、ガンディアでもごく一部の人間だけなのだ。
レオンガンドとウルは当然として、ほかに知っているのは、レオンガンドの腹心たちと大将軍アルガザード・バロル=バルガザール、《獅子の牙》隊長ラクサス・ザナフ=バルガザール、そしてセツナくらいのものであり、左眼将軍と右眼将軍さえも彼の正体を知らなかった。それほどの機密事項なのだ。
レオンガンドや彼の腹心がミリュウに漏らすとは思えないし、それは大将軍やその息子とて同じだ。ウルが面白半分で教えたという可能性はなくはないが、彼女がそこまでするとは考えにくい。
だとすればセツナだが、彼がカインの正体を部外者に話すだろうか。彼のような王の忠犬が、王の利害に反することを率先して行うのは考えられないのだが。
「あら、素直に認めちゃってもいいのかしら。それとも、周知の事実なの?」
挑戦的な目だった。相手があのランカインだということを理解しているにも関わらず、そういう態度を取れるというのは彼女の考えが足りないのか、それとも、ランカインという人間を見誤っているのか。
いや、そもそも、そういったことに興味がないのかもしれない。どうなってもいいと思っているのかもしれない。捕虜となり、支配されている身の上だ。
自暴自棄になっていても不思議ではなかった。
もっとも、カインの場合はそうではない。自棄になることすら抑制されている。死を願おうとも、決してみずから死ぬことは許されないのだ。
それが罰だという考え方もできなくはない。大量殺人という罪への罰。死ぬまで、この身が砕け、命が尽きるまで、ガンディアのために走り回るということは、ランカイン=ビューネルにとっては屈辱以外のなにものでもないのだ。
「いや、機密事項ではあるがな……構わんさ。どうせ君は裏切ることなどできない」
「……どこにそう思える根拠があるのかしら」
ミリュウは、胡乱げな目でこちらを見てきたが、カインは相手にするつもりもなかった。元より、彼女に用事があったわけではない。彼の目的は、彼女が塞ぐ出入口の向う側にある。天幕の中にいるであろうセツナの様子を見に来たのだ。
セツナは、ビューネル砦に出現したドラゴンとの戦闘で負傷し、中央軍との合流後も意識不明のままだったそうなのだが、少し前に目を覚ましたというのだ。
いても立ってもいられなかった、というわけではない。
ドラゴンについて、セツナの口から直接聞き出したかったのだ。黒き矛でさえ撃破できなかったというのは、カインにとっても衝撃的ではあったのだ。
もちろん、彼はドラゴンの凶悪さを目の当たりにしているし、ドラゴンによって右腕を吹き飛ばされてもいる。並の武装召喚師では太刀打ち出来ない怪物だということも把握してはいたのが、まさか、黒き矛を携えたセツナでさえ敵わないとは想像もつかなかった。
とはいえ、あのドラゴンをどうにかしない限り、ガンディア軍に勝ち目がないのもまたわかりきっていることだ。ドラゴンは、少なくとも三体も存在する。
ファブルネイア、ヴリディア、ビューネル――五方防護陣の三つの砦を飲み込むように出現し、ガンディアの各軍を撃退した。ガンディアの各軍は、そのままではドラゴンの突破は不可能と判断し、合流を果たした。五方防護陣の突破が困難ならば合流するというのは、戦術通りでもある。
まさかドラゴンに阻まれるとは考えてもいなかっただろうが、最悪の事態を想定していたのは、当然ではあるものの、さすがというべきか。しかし、合流し、戦力を集中したところで、頼みの綱となるのはやはり黒き矛のセツナだった。彼の意識が戻るのを待っていたのがなによりの証左だろう。
もちろん、カインとしても、その判断に不満はないのだが。
黒き矛カオスブリンガーの力については、彼も身を以って思い知っている。