第三千二百六十一話 魔軍(二)
その男は、全身にどす黒い血を浴びたかのような出で立ちをしていた。荒れ狂う神威に揺れる黒く紅い衣が、まさに血のようなのだ。
それも見ようによっては、炎に見えなくもないのだ。ただし、普通の炎ではない。
赤黒い炎。
地獄の業火。
現世に舞い戻った亡者が身に纏うに相応しい衣なのかもしれない、などという考えが混乱した意識の中に浮かんでは消えた。
混乱するのも当然だった。予期せぬことが起きたのだ。それも、ただ想定外のことではない。神たるニヴェルカインにすら予測できなかった事態。神々の想像力をも凌駕した事象。
亡者の現出。
地獄の業火のように白波を裂き、天をも焦がすばかりの勢いで増殖する亡者の群れ、それ自体想像だにしない出来事だったのだが、それ以上に驚くべきことが起きていた。
父の声を発する亡者が、頭上に現れたのだ。
「いや、ニーウェハイン皇帝陛下と呼ぶべきか」
赤黒い衣を纏う亡者。しかし、その血のように紅く、炎のように赤い頭巾の下には、亡者と呼ぶにはあまりにも輝かしく懐かしい顔があった。威厳に満ちた顔立ちは、王者という言葉こそが相応しく、衣の隙間から覗く黒金の甲冑が、その男の素性を主張していた。
ザイオン帝国先代皇帝シウェルハイン・レイグナス=ザイオン。
「父上……?」
ニーウェハインは、もはや正体を隠そうともしない亡者の姿をはっきりと見て、ただただ衝撃を受けていた。
死んだはずの、死に別れたはずの父が、どういうわけか目の前に現れたのだ。
もちろん、生き返ったわけではないことは、ニヴェルカインの力によってはっきりとわかっている。彼は死者であり、亡者なのだ。だからこそ、混乱する。死者が現世に現れることなど、ありうるというのか。
「……まだ、わたしのことを父と呼んでくれるのか」
シウェルハインが目を細めた。
「おまえを利用し、あまつさえすべてを犠牲にしてまでナリアに尽くそうとしたこのわたしを、父と呼んでくれるというのか」
「当たり前じゃないですかっ!」
ニーウェハインは、叫ぶようにいって、父の元へと近寄った。神々の猛攻の真っ只中だが、関係がなかった。吹き荒ぶ神威の嵐の中で、まるで涼風に吹かれるようにして佇む父の姿を見れば、立ち止まってなどいられるはずもなかったのだ。
「父上は、ザイオン帝国皇帝としてやるべきことをまっとうしようとしていただけのことではないですか!」
数百年前に建国されたザイオン帝国は、ナリアにいわせれば、その建国のときから、ナリアのための国であり、歴代皇帝はすべてナリアの依り代だったという。すべてはナリアが来たるべき決戦のとき、“約束の地”争奪の戦いに打ち勝つための力を得るための手段に過ぎず、国も民もすべて、ナリアに利用されるためだけに存在していたのだ。
ニーウェハインがその事実を知ることができたのは、シウェルハインのおかげだったのだし、真実を知ることができなければ、ナリアに尽くし続けたことだろう。
たとえば、最終戦争当時の皇帝がニーウェハインだったとすれば、ニーウェハインも、シウェルハインと同様に、ナリアに忠誠を誓い、ナリアの指示するままに軍勢を率い、“約束の地”を目指したに違いないのだ。
いや、シウェルハインと同じようにはできなかったかもしれない。
シウェルハインは、彼の父は、“大破壊”の直前になって自分を取り戻し、ナリアの力を利用して、帝国将兵のほとんど全員をザイオン帝国領土へと帰還させるという離れ業をやってのけたのだ。
大いなる女神ナリアの呪縛を断ち切るなど、簡単なことではない。
ニーウェハインには、真似の出来なかったことだ。ニーウェハインが女神の支配から脱却し、自分を取り戻すことができたのは、ニーナを始めとする皆の力添えがあったからこそであり、国民の声があったからだ。
ひとりでナリアに対抗し、出し抜いたシウェルハインは、やはり凄まじいとしかいいようがない。
そして、同時にニーウェハインは、そのとき、シウェルハインの愛を感じ取っていた。
父親なのだ、と、想った。
だから、もっと言葉を交わしたかった。
だからもっと、語り合いたかった。
だから――。
「そういってくれるか……」
「わたしだけじゃない、姉上も、だれもかれもがそう想っています。父上のことを、己が誇りとしているのです」
ニーウェハインは、亡者の衣を纏う父の目の前へ至ると、その顔が明らかになる光景を目の当たりにした。吹き荒れる神威が、頭巾の中の顔を曝け出させたのだ。威厳に満ちた父の顔は、死別の直前となんら変わらなかった。
「ですから、こうして戦える」
ニーウェハインは、感動の余り涙ぐみながら、断言した。心の底より、力がわき上がってくるのがわかる。いまのいままでも全力で戦っていたのだが、それまで以上に力が増したのだ。
すると、周囲から嘲笑う声が聞こえてきた。
「戦える?」
「亡者ひとり増えたところで、戦況に変化はないぞ」
「そもそも、亡者など……足手まといが増えただけのこと!」
神々の嘲笑とともに繰り出される攻撃の数々は、ニーウェハインが防御障壁を構築することで防ぎきった。
「そう結論を急くな、神々よ」
シウェルハインが、嘆息混じりに告げる。その余裕に満ちた態度は、大いなる女神の依り代だった経験からだろうか。
「我はシウェルハイン・レイグナス=ザイオン。先の皇帝にして、魔王の先触れなり」
「魔王の……」
「先触れ……だと!?」
神々に衝撃と動揺が走る様を見て、ニーウェハインは、疑問を持った。
「どういうことですか? 父上」
「魔王の軍門に降ったのだよ、わたしはね」
「魔王の軍門に……?」
反芻するようにつぶやいて、衝撃を受ける。
「わたしは死後、地獄に堕ちた」
当然のように語る父の姿は、とても亡者には見えなかった。生者に見紛うほどの気品があり、威厳があるからだろう。
「本来ならわたしの魂は消滅するはずだった。ナリアを欺き、出し抜いたのだ。ナリアが激怒するのは当然よな。その怒りがわたしの魂を焼き尽くし、粉々に打ち砕いた。となれば、天国は当然のこととして、地獄に堕ちることもかなわぬ。そのまま消滅し、虚無に還るはずだったのだ」
「しかし、地獄に堕ちた……と?」
シウェルハインが地獄に堕ちることには、なんの疑問も持たなかった。
シウェルハインは、皇帝として帝国に君臨し、善政を敷いたものの、まったく問題がなかったわけではなかった。ニーウェハイン自身、シウェルハインのやり方の被害者であり、ニーナともどもに父を恨み、帝国を憎んでいた。
ニーウェハインとニーナだけの問題でもない。
それもこれもシウェルハイン個人の意志というよりは、ナリアの願望を実現するために過ぎなかったにしても、天国に昇れるような、清浄な魂にはなり得ないだろう。
「魔王の手引きによって、な」
「魔王の手引き……」
「魔王がわたしのばらばらになった魂を地獄に引き入れてくれた。おかげで、わたしは地獄に堕ちることができた」
それがさも喜ばしいことであるかのように語る父の表情に、ニーウェハインはなんと返せばいいのかわからなかった。
「故に、わたしは魔王の軍門に降った。地獄の主催者たる魔王の尖兵となったのだよ」




