第三百二十五話 狗と魔女(前)
雨上がりの空の下、ぬかるんだ地面は単純に歩きにくかった。
頭上にあるのは相も変わらぬ曇天であり、雨が止んで一時間は経過するというのに晴れ間さえ見えない。すぐにでも降りだしそうで、外出は控えるのが懸命なのだろうが。
右肩の違和感に眉を寄せながら、それでも彼は歩くのを止めなかった。ぬかるみを踏みしめる。バハンダールの湿原に比べればましだ。比較する意味もないが。
彼の脳裏にバハンダールの湿原が浮かんだのは、つい先日、バハンダールを攻略した部隊との合流を果たしたからだ。
彼の属した北進軍は、ファブルネイア砦に出現したドラゴンとの接触により、多大な損害を出したのだ。北進軍を指揮する左眼将軍デイオンは、ドラゴンの撃破、及び五方防護陣の突破を諦め、中央軍との合流による戦力の集中を優先した。
北進軍が中央軍と合流したとき、西進軍が既に合流しており、黒き矛擁する彼らですら単独での突破が不可能だったということがわかった。
ドラゴン。
ザルワーンの首都龍府を守護するに相応しい存在は、五方防護陣の各砦を飲み込んで出現したらしい。ファブルネイア、ヴリディア、ビューネルがそうだった。リバイエン、ライバーンも同様にドラゴンが出現していたとしても不思議ではない。
いや、あのドラゴンに五方防護陣の役割を担わせるというのなら、すべての砦がドラゴンと化しているはずだ。オリアンならばそれくらいのことはやってのけそうだった。
あれはいったいなんなのか、と彼は、彼を支配する魔女に詰問されたものの、彼にも答えようのないものがあるということが彼女にも理解できただけだ。
彼は、ザルワーンに生まれ育った。五竜氏族に名を連ねるビューネル家の次男として生を受け、ゆくゆくは長男エルアベルの補佐となるべく育てられた。だが、祖父母、両親の思惑は、先の国主マーシアスの目論見によって露と消える。
彼は、魔龍窟で武装召喚師としての英才教育を受けた。直接の師は、オリアン=リバイエンということになる。苛烈を極める訓練は、やがて、血と泥にまみれ、死臭が皮膚に染み込んでいった。
壊れたのは、必然だったのかもしれない。
(まるで他人事だな)
カイン=ヴィーヴルは、妙に冷静に過去を分析する自分がおかしくてたまらなかった。それもこれも、自分ではない自分を認識しているからだろう。
魔女の支配は、彼の中にもうひとりの彼を作り上げたのだ。そうでもしなければ、あのひとの形をした怪物を抑えることなどできなかったに違いない。
「ひとりで笑って……気持ち悪いわよ」
隣から飛んできた矢のような言葉に、カインは口の端を歪めた。
「他人と感情を共有するよりはましさ」
「……そうかもね」
妙に素直な返事は、彼女の心境に変化があったからなのかどうか。
ウルは、こちらを見てはいない。それどころか、彼女の視線は兵士たちの足跡でぐちゃぐちゃになった地面に向けられている。
「しおらしいところもあるじゃないか」
「なにが……!」
「ロック=フォックスのことを考えているんだろう」
「まさか」
ウルがこちらに向けた顔には、張り付けたような笑みが浮かんでいた。彼女が本心を隠すときに用いる常套手段は、確かに表情から感情を読み取れなくはした。しかし、心を読まれたくないという彼女の意思はわかるのだ。
もっとも、カインに他人の心情を探るような趣味はない。ウルがいまなにを考え、なにを思っていようとどうでもいいことだ。
たとえ、彼女のために死んだロック=フォックスのことを悼んでいようと、嘲笑っていようと、彼には関係がない。
彼は、ドラゴンに焼かれ死んでいったものたちを哀れむ気にもなれなかった。己の失態こそ腹立たしく、他人の生き死にに関わっている暇はないのだ。
カインは、ファブルネイアのドラゴンにより、右腕を失った。右肩から先を吹き飛ばされたのだ。
普通なら、その痛みで死んだかもしれないし、出血量での死は免れなかった。だが、ドラゴンの息吹きに焼かれた傷痕は、奇妙に塞がれていた。血は流れず、おかげで彼は生き延びたのだが。
右肩の違和感はそのせいだった。ついこの間まで存在していたものが、綺麗さっぱりなくなってしまったのだ。すぐには慣れないだろう。
「男って身勝手な生き物よね。女の望みなんて聴いてもくれないくせに、女の幸せを願って命を投げ捨てるんだもの。冗談じゃないわ」
ウルの独り言を聞きながら、カインは、ロック=フォックスの死に様を思い浮かべた。カインによるドラゴンの偵察に同行を申し出た軍団長は、配下の五百人共々、光の中に消えた。
ロックは、ウルを庇うために身を擲ち、兵士たちはなす術もなく死んだ。ウルは、ロックのおかげで助かり、カインは右腕を失うだけで済んだ。偵察部隊は壊滅し、その報告によって、デイオンは合流を決意した。
ロック配下だった兵士たちがウルのことを悪魔の如く忌み嫌うのも、無理はない。彼らが敬愛した軍団長を失った悲しみを晴らすには、どこかに怒りをぶつけるしかない。本来ならば、敵軍にぶつけるべきだったし、そうしたいはずだ。だが、敵軍の姿はなく、巨大なドラゴンには手も足も出ない。軍団長をたぶらかした悪女に、彼らの敵意の矛先が向かうのも自然な成り行きだったろう。
マルウェール以来、ロックがウルに執心だったのは、彼の部下には周知の事実だったに違いない。また、ウルがロックのみならず、レノ=ギルバースとも懇意にしているのも、知っていたかもしれない。本心をどこかに置き忘れてきた魔女にとってはただの暇つぶしに過ぎなくとも、周りはそうは見ない。
ロックの部下がウルに悪意の目を向けたとしても、だれが責められるのか。もちろん、面と向かって罵声を浴びせるようなものはいない。そんなことをすれば、自分たちの立場が危うくなることを知っている。ウルが王のお気に入りだという話を知らないものなどいないのだ。
軍団長への敬慕よりも自分の立場、自分の人生のほうが大事なのも当然ではある。いささか打算的に過ぎると思わないではないが、人間とは概ねそのようなものだ。もっとも、中には理性で感情を抑えきれないものもいて、酒に酔っては魔女への陰口を吐き捨てるものもいるようだが、そういった連中がどうなったのかまではカインも知らない。
ウルが悪態をつくのも、仕方のないことだ。ロックの死など、恐らく彼女は望みもしていない。そもそも、彼女はロックとレノには魔女の力を使ってもいないのだ。ふたりをたぶらかせたのは、魔女の才能によるところが大きいのかもしれず、ふたりの軍団長が女に免疫がなかったからかもしれない。
ウルとしては、偵察に同行してくれただけでも十分だっただろう。たかが偵察とはいえ、カインだけでは戦力的に不安がある。相手はドラゴンだ。なにが起こるかわかったものではなかった。
ロックの同行申請に彼女が子供のように喜んだのは、あれだけの戦力があれば、不測の事態にも対応できると考えたからだろう。
彼女は、ガンディア人がどうなろうと知ったことではないと想っている。それはそうだろう。人生をめちゃくちゃにされたのだ。憎悪を抱いていても、なにもおかしくはない。ランカインも似たようなものだが、彼とは違う。彼ほど壊れてはいないのだ。恐らく。
理性が働いている。
だから、ウルはレオンガンドらガンディア王家を憎しみながらも、彼らのために力を尽くしている。その気になれば国を内部から破壊することも容易だというのにも関わらずだ。
(理性だけではない、か)
人間とは複雑な生き物だ。感情だけでも、理性だけでも、生きていけない。冷静な思考に熱情が絡み合って、いびつな怪物を育んでいくのだ。