第三百二十一話 役割(一)
テントの中に飛び込んできたファリアの第一声の鋭さに驚いたのも束の間、セツナは、彼女に抱き竦められてはっとなった。雨と彼女の匂いが混ざり合った匂いが、鼻腔を満たした。
地に投げ捨てられたミリュウに声をかけることすらできなかった。意識が宙を舞ったかのような感覚の中で、彼女の体温を感じる。腕や背中が痛みを訴えてくるのだが、黙殺するよりほかなかった。ミリュウのときと同じだ。
視線が定まらず、虚空をさまよわせる。布団の上、上体を起こしたまま硬直せざるを得ない。動けば、ファリアに悪い。そんな気がする。
ファリアの体が震えていた。泣いているわけではないようだが、だからこそ、セツナは言葉を発することもままならない。
ふと見ると、ミリュウの姿がなかった。
テントを叩く雨音は小さく、外に出ても問題はなさそうではあるのだが、彼女は自由行動が許されているのだろうか。ここに留まっていなくても大丈夫なのだろうか。そんなことが気になったのも一瞬のことだ。
ファリアが、腕の中からセツナを解放し、少しだけ距離を取った。手近にあった椅子を引き寄せ、腰を下ろす彼女をやや茫然と見やる。
ファリアは少しばかり雨に濡れてはいたものの、風邪を引く心配はなさそうに思える。ミリュウがいうには、彼女は元気に働いていたようだが、無傷というわけではない。
クルード=ファブルネイアとの戦いは彼女に消し難い傷を残したし、先の戦闘では、ファリアも相当な無茶をしたようなのだ。
セツナ同様、全身に包帯を巻いていても不思議ではないのだが、軍服の上からではよくわからなかった。セツナ自身は、寝間着同然の格好で、両肩や両腕に包帯が巻きつけられているのが感覚で理解できた。
オーロラストームを模倣したかのようなドラゴンの雷撃によって、肩や腕は軽く火傷を負っていた。火傷自体の痛みはほとんどないのだが、ミリュウとファリアのふたりに立て続けに抱きしめられたせいで疼き始めていた。
とはいえ、ふたりの行動は悪意故のものではないということはわかりきっているので、なにもいいようがないのだが。
「セツナって、無茶しかしないのね」
ファリアがあきれたように笑ったので、セツナも釣られて笑った。笑うしかなかった。反論のしようもない。小さく同意するだけだ。
「あれだけ釘をさされたのにね」
あの夜交わした言葉をいまになって思い出している。
《獅子の尾》隊舎の夜。ふたりだけの夜。彼女の身の上話を聞いたのだ。彼女がどこから来て、なにを目的としているのかもその夜に知った。
一月前だというのに、ずっと遠い昔のことのように思えてならない。それほどまでに激動の日々を過ごしてきたということなのだろう。頭の中の記憶領域が新たな情報で埋められていく。しかも、加速度的な速さで情報が積み重なっていくから、なにもかもがあっという間に昔の出来事になってしまうのだ。
マイラムを出発して以来、戦いの連続だった。ナグラシア、バハンダール、そしてミリュウたち、そしてドラゴン。
もちろん、休息がなかったわけではない。しかし、黒き矛に体力を奪われるセツナにとって、休息などあってないようなものだった。
戦いが終われば、意識を失ったように爆睡するのが恒例となっていた。カオスブリンガーを使いこなせていないことの証明だと、いまさらのように実感するのだが即座に解決できる問題でもない。
たった一ヶ月前の出来事さえ、遠い昔の思い出となってしまう。
それは、この戦争の激しさを物語っているのだろうか。確かに、戦いは苛烈だ。いつだって命がけで戦場を駆け回っている。黒き矛を担いでいるからといって、安心してはならないと強く思う。召喚武装の能力によっては、黒き矛の力そのものが脅威になるということがわかった。
ミリュウとの戦いは、記憶に新しい。
もちろん、ファリアとの思い出が古ぼけてしまったというわけではないが。
「ほんとよ。あれだけ無茶はしないでねっていったのに」
彼女はひとしきり笑うと、ゆっくりと息を吐いた。ようやく落ち着きを取り戻したのかもしれない。彼女がテントに飛び込んできたとき、肩で息をしていた。セツナが意識を取り戻したと聞いて、急いできてくれたのだろう。そう思うと、つい頬が緩んだ。
雨音は、ほとんど聞こえなくなっていた。
止んだのか、止もうとしているのか。どちらにせよ、テントの外に出ていったミリュウが、雨に打たれて風邪を引く心配はしなくて良さそうだった。もっとも、雨が降っていれば、傘でも持って出て行ったのだろうが。
「無茶かどうかなんて、わからなかった」
「ドラゴンに挑んだのが?」
「うん」
うなずいて、右手を開く。たったそれだけで、電流のように痛みが走った。手のひらにも包帯が巻きつけられており、それは手首から腕をも覆っている。まるでミイラのような状態だと思わないでもない。が、それもいつものことのように感じられるのは、毒されすぎだろうか。
「そりゃあ、そうかもしれないけど……」
ファリアも否定はしない。それはそうだろう。彼女だって、黒き矛の力を知っているのだ。
手のひらに黒き矛の重量を思い浮かべる。黒き矛。カオスブリンガーと名づけた召喚武装。禍々しい形状の矛は、圧倒的かつ絶大な力を持っている。
幾多の兵士を殺戮した漆黒の刃は、鉄の鎧すら紙くずのように切り裂く。振り回すだけで、周囲に屍山血河が生まれた。黒き矛と、それを扱うセツナの名は、瞬く間に山野を駆け巡り、周辺諸国にまで知れ渡ったという。
それだけの力を秘めた矛だ。
セツナには、それ相応の活躍が期待されているし、責任も義務もある。セツナ・ゼノン=カミヤ。王宮召喚師であり、王立親衛隊《獅子の尾》隊長。立派なものだ。
以前のように、ただ眼前の敵を倒すことだけに集中していればいいだけの存在ではなくなったのだ。
ガンディア軍の戦力として機能しなければ意味がない。
「俺は黒き矛のセツナなんだ。ドラゴンだってなんだって、倒さなきゃならない」
「それはわかるわ。君には君の使命があり、役目がある。君は……いえ、あなたは《獅子の尾》隊長で、わたしたちを導く義務がある。陛下の意思の赴くままに、敵を倒し、ガンディアの障壁となるものを破壊しなければならない。それがあなたの役割」
ファリアが嘆息した。
「そんなこと、わかりきっているのよ」
ため息の意味をはかりかねて、セツナは彼女の顔を見ていた。ファリアは目を伏せていて、睫毛の長さが印象に残る。
「敵を倒すのが使命だから。それだけが俺がここにいられる理由だから。だから、ドラゴンだって倒さなきゃならないって思った」
ミリュウに敗れた反動もあっただろう。自分の弱さ、無力さに打ちのめされたからこその衝動だというのも、否定出来ない事実ではある。
弱い自分が許せなくて、少しでも強くあろうとしたのかもしれない。あのドラゴンを倒すことができれば、強さの証明になる。偵察部隊の皆が、セツナの強さを証明してくれる。そうすれば、居場所を失わずに済む。少なくとも、しばらくはこの場所にしがみついていられる。
自分で考え、出した結論に惨めさを感じざるを得ない。が、それこそが自分なのだと理解してもいる。惨めにもなにかに縋らなければ生きていくこともできないような儚い存在なのだ。
それでも、戦っている間は、敵を蹴散らし、強者として振舞っている間は、そういう惨めさを感じずに済む。
戦いに集中するからというだけでなく、強さは弱さを隠すからだ。
だから、戦えるのかもしれない。自分の弱さを赤い血で塗り潰せば、自分は強いのだと勘違いできる。必要な存在なのだと、思い込むことができる。思い込み続ければ、それは、自分の中で真実になるのだ。
もっとも、その真実が欺瞞だったとわかったとき、絶望に打ちひしがれるのは自分自身なのだが。
実際、セツナは絶望的なまでに己の弱さを実感したものだ。契機となったのは、ミリュウとの戦闘だ。互いに同じ召喚武装を手にしたとき、勝敗を決定づけるのは、武装召喚師としての技量にほかならない。
絶対的な力量差は覆しようもなければ、戦闘経験で埋めることもできなかった。経験値もミリュウのほうが上だったのだ。
彼女は十年もの間、実戦訓練を積んできたのだ。並大抵の戦闘経験ではない。軍人ですら、彼女に敵う経験値を持つものは少ないのではないか、ミリュウとしては誇りたくもないことだろうが、
数ヶ月前までただの学生だったセツナに、勝ち目はなかったのだ。