第三百二十話 雨が上がるころ
「セツナ……!」
ファリア=ベルファリアは、天幕内に飛び込んでくるなり、悲鳴のような声を上げた。嬉しさだけではない、様々な感情が複雑に入り混じった声だった。
そのとき、セツナの間近にいたミリュウの思考が停止したのは、彼女の叫び声に込められた想いの深さのせいかもしれない。
意識を射抜かれた。
だから、ずかずかと駆け寄ってきたファリアが、セツナに貼り付くようにしていた彼女を引き剥がすという一連の暴挙に反抗すらできなかったのだ。地に投げ飛ばされ、潰れた蛙のような声を上げながら、それでもファリアを睨むこともできない。
なぜかは理解している。
だからこそ、敷物に頬を貼り付けたまましばらく動かなかったのだ。ひんやりとした感触に痛みも忘れた。
「良かった……本当に……」
「ごめん、ファリア。いろいろ無茶をさせたみたいで……」
「それはいいのよ。いつものことだもの」
ふたりの会話。
ふたりだけに通じるやりとり。
ふたりだけの世界。
(ああっ、もうっ……!)
ミリュウは、敷物から顔を引き剥がすように立ち上がると、ふたりの会話を耳に入れないようにしながら天幕の外に向かった。
幸い、ふたりの会話は聞こえなかった。どちらも、会話を切り出せずにいるのかもしれない。ミリュウの見たところ、セツナもファリアも、互いに気を使いすぎるきらいがある。気を使い合って、言葉を選び抜いている最中なのかもしれない。
くすりとしたものの、彼女はすぐに憮然とした顔になった。ミリュウとしては愉快なはずもない。そして、ふたりを包み込む空気感を不愉快に感じる自分にこそ苛立ちを覚えるのだ。
胸の内で渦巻く感情の名は、嫉妬というのだろう。
(嫉妬……ねえ)
馬鹿げている、と笑い飛ばせたら、どれほど気が楽になのか。
ミリュウは天幕の外に出て、小さく息を吐いた。どうして、自分がふたりに気遣わなければならないのか。
(いつもの傍若無人なミリュウ=リバイエンはどこにいったのよ)
自問するが、答えは出ない。
いや、出ている。わかりきっている。身を以って理解しているからこそ、答えにならないのだ。
空は相変わらずの鉛色だ。何層にも覆い被さる暗い雲が、現在の時刻をわからないものにしている。しかし、雨はほとんど止んでいた。
じきに上がるだろう。
雨が上がれば、野営地内を歩き回ってみるのも面白いかもしれない。
地面は水浸しで、出歩く軍人の姿も見当たらなかった。当然だ。ついさっきまで土砂降りの大雨だったのだ。天幕の中がよく浸水しなかったものだと感心したほどだ。もっとも、《獅子の尾》の宿所だ。設営にも気を使ったに違いない。特にセツナの身に万が一のことがあったら、設営担当者の首が飛ぶ程度では済まない。
ガンディア王レオンガンド・レイ=ガンディアは、セツナをとても大切にしているのだ。セツナがガンディアの最高戦力だからというのもあるが、それ以上に大事に想っているようなのだ。
ミリュウは、レオンガンドと対面したときにそれを悟った。
ミリュウがレオンガンドと対面したのは、西進軍が中央軍との合流を果たしてからだ。捕虜でありながらある程度の自由を与えられていたミリュウだったが、レオンガンドが直々に彼女の尋問をすると知ったときは、ついにこのときが来たのかと思ったものだ。
潮時だ、と。
同時に、レオンガンドがザルワーン侵攻の陣頭指揮を取っていたことを知り、驚きもした。ガンディア軍の総大将は大将軍アルガザード・バロル=バルガザールだと聞いていたからだ。
もっとも、レオンガンドが指揮を取っていたというのはミリュウの勘違いであり、それは後に知った。レオンガンドはアルガザードに指揮を任せているということだった。
そして、レオンガンドと対面したときのことは忘れもしない。
それは、彼女がファリアとともにセツナの容態を見守っているときのことだった。天幕の外がにわかに騒がしくなったと思ったら、レオンガンドそのひとが入ってきたのだ。
そのときは、レオンガンドはセツナの無事を確認しにきただけだったのだが、ミリュウは、セツナの記憶の中に見た彼の顔を思い出して、泣きそうになってしまった。
ミリュウは、それがセツナの記憶に触れた後遺症だと断定していた。セツナの記憶の中で、彼に係る多くのひとびとを見た。ファリア、ルウファ、レオンガンド――数多の顔、無数の名。
いくつもの感情があふれて、ミリュウの心に染みこんでしまったようだった。
だから、なのだろう。
ミリュウは、敵国の王でありながら、レオンガンドを敵として見ることもできなくなっていた。むしろ、セツナの拠り所である彼に感謝さえしているところがある。
レオンガンドがセツナに居場所を与えてくれたおかげで、ミリュウは彼と出逢うことができたのだ。もし、レオンガンドがセツナに手を差し伸べなければ、こうはならなかったのだ。
その可能性を考えるだけで、心が寒くなるのはなぜだろう。
それは、いまの自分が以前の自分と別の生き物に変わってしまったことを示しているのではないか。
他人の記憶に触れた、ただそれだけのことで、ひとという生き物は変容するものなのだろうか。
わかっているのは、あのとき、セツナが大切に想っていた人物は、ミリュウにとって無関心な存在ではなくなったということだ。
ファリアにしても、対抗意識を抱きこそすれ、敵意には発展しなかった。敵ではない、と勝手に思い込んでしまっている。
その認識を改めるには、もう一度、元の自分に戻らなくてはならないのだろうが。
(嫌よ。そんなの……)
ミリュウは、雨粒ひとつ降らなくなった空を仰いだ。あのころの自分に戻るというのは苦痛以外のなにものでもない。
国を恨み、世界を恨み、生きとし生けるすべてのものを憎悪していた。自分の人生に絶望し、闇の底からただ光を睨んでいた。魔物のように。魔竜のように。
それが、つい数日前までの自分だ。
いまは、どうだろう。
憎悪は、いまだに胸の奥底に渦巻いている。ミリュウ=リバイエンの人生を破綻させた存在を憎み、恨んでいる。父を。国主を。この国を。それは変わらない。変わり様がなかった。
その感情こそがミリュウをミリュウたらしめているものだからだ。
しかし、一方では、そういう自分の人生も案外悪いものではなかったのかもしれない、とも考えはじめている。もちろん、過去のすべてを受け入れられるわけではない。
同族殺しを強いられ、血と死臭の立ち込める地獄のような日々は、幸せなどとは程遠いものであり、肯定できるものではなかった。
だが、それでも、魔龍窟での日々を乗り越えたからこそ、いまこうしていられるのも事実なのだ。
(……納得なんて、到底できないけど)
セツナを想い、雨上がりの空を見ていられるのは、なにものにも代えがたい幸福なのだ。
だから、彼女は、レオンガンドには感謝していた。レオンガンドのはからいのおかげで、ミリュウは気を失っていたセツナの側にいることが許されたのだ。
監視もなければ、拘束さえも解かれ、野営地の中を自由に歩くことだって許された。どういう理由で自由の身になったのかは、ミリュウにはわからない。
ミリュウは、こう見えても強力な武装召喚師なのだ。普通ならば放置していい存在ではないはずなのだが、レオンガンドはそのことについては特になにもいってこなかった。
そして、ミリュウも、レオンガンドやガンディア軍に攻撃を加えようなどとは考えもしなかった。ザルワーンに利する行動を取る気になどなれなかったし、なにより、セツナに嫌われたくないという感情が先に立った。
かつての自分ではありえないような思考回路に茫然としたものの、だからといって、その考えを改めることもできなかった。以前の自分ならば、だれかのためよりも自分のためを優先したのだろうが。
『君はいったい、セツナのなんなんだ?』
レオンガンドの問いは、ミリュウにも予想できないものだったし、答えようのないものでもあった。
数日前まで、ミリュウはセツナの敵だった。
ザルワーンの武装召喚師として彼に敵対し、彼を封殺するための秘策を用いた。召喚武装・幻竜卿は、彼の必殺の武器である黒き矛を寸分の狂いなく再現し、彼女に絶大な力をもたらした。
戦闘は彼女の優勢で進んだ。あと一息のところだった。
力に飲まれさえしなければ、殺せたはずだ。
彼を殺し、その死を以ってガンディア軍に敗北を突きつけたはずだ。
だが、現実は違う。
彼女は囚われの身となった。身はガンディア軍に囚われ、心は――。
(あなたに囚われている……)
ミリュウは、セツナが意識を失って以来、彼の寝顔をずっと見ていた。
彼は悪夢でも見ているのか、時折、その表情が歪んだ。そのたびに胸の奥に痛みが走った。だが、どうすることもできない。ミリュウには、彼を見守ることしかできなかったのだ。
飽きることはなかったが、心配だけは膨れ上がった。不安もあった。セツナはこのまま永遠に眠り続けるのではないかと考えたこともあったが、ファリアに話すと、心配し過ぎだと笑われた。
ファリアは、セツナが目覚めることを信じて疑っていなかったのだろう。これまでの経験からくるものなのか、それとも、ガンディアの軍医を信じてのことなのかは、ミリュウにはわからない。
少なくともファリアは、セツナの側にずっといるということはなかった。彼女には仕事がある。彼女自身負傷しているにも関わらず、精力的に走り回っていた。その横顔には、セツナへの全幅の信頼があった。
ミリュウには、ファリアのそういうところが羨ましいと思えるのだ。
彼女は、ミリュウの知らないセツナを知っている。もちろん、彼女がもっともセツナとの付き合いが長いのだから当然なのだが。
頭上、相変わらずの曇天に晴れ間は見えない。いつまた降り出してもおかしくない天候にため息を浮かべる。
(まるでこの空と同じね)
ミリュウは前方に視線を戻して腕を組んだ。
雨が上がったからだろう――野営地に点在する無数の天幕の中から、ガンディアの軍人たちがぞろぞろと出てくるのが見えた。
セツナが目覚め、雨が止んだ。
状況が、大きく動き出すに違いなかった。