第三百十九話 光と闇
ザルワーン側も、ガンディアの侵攻を座して見守っていたわけではない。ナグラシアには防衛戦力が配置してあった。
ナグラシアに限った話ではない。ザルワーンの各都市には、第一から第七までの龍鱗軍と称する軍勢を駐屯させていたし、各都市間の連携は強固なものだったはずだ。
もっとも、ザルワーンの軍が万全でなかったのは事実ではあった。
ナーレス=ラグナホルンを拘束したのは、ガンディア侵攻の数日前のことだった。ナーレスはミレルバスの信任を得、軍師としてザルワーン軍の頂点に君臨していた。軍の人事も彼が握っていたのだ。
無論、最終的な決を下すのはミレルバスであり、彼の思惑を見抜けなかったのは、ミレルバスの落ち度に違いない。
ナーレス=ラグナホルンという毒が猛威を振るい、ザルワーン軍の内情をでたらめに破壊した。ミレルバスの目を欺くため、巧妙に隠されていたとはいえ、軍の実情を把握できなかったのは致命的な失態だったのだ。
ナーレスを拘束し、彼からすべての権限を奪ったものの、すべてが手遅れだった。
毒が癒え切らないうちにガンディアが攻めこんできた。ナグラシアは瞬く間に落ち、難攻不落のバハンダールさえも陥落してしまった。ゼオルにマルウェールも落とされた。
もちろん、龍鱗軍だけがザルワーンの戦力ではない。
先の戦いのために地下から解き放っていた魔物どもをガンディアにぶつけた。だが、ジナーヴィ=ライバーン、フェイ=ヴリディアはロンギ川でガンディア軍と戦い、死亡した。
ミリュウ=リバイエン、クルード=ファブルネイア、ザイン=ヴリディアは、ルベン近郊の平原でガンディア軍に敗れ、クルードとザインは戦死、ミリュウはガンディア軍に捕縛されたらしい。
オリアン=リバイエンが手塩にかけて育て上げた魔竜たちは、彼の期待に答えることはなかったのだ。彼が心血を注いで教えこんだ武装召喚術は、ガンディアの武装召喚師たちの前に敗れ去った。
十年以上の長きに渡りザルワーンの暗部に蠢いていた魔龍窟という怪人育成機関は、これにより完全に壊滅したとみていい。
ミレルバスとしては、存続させるつもりも、再建する道理もない。彼は愛する我が子をひとり、魔龍窟に囚われていた。ジナーヴィの変わり果てた様子には、彼とて衝撃を受けないわけにはいかなかった。
だが、同時に、そうやって作り上げられた化け物に頼らざるをえない現状というのも理解しているつもりでいた。だからこそ、ジナーヴィを戦線に投入したのだ。結果、彼の息子は死んだ。
死の直前、ジナーヴィ=ワイバーンと名乗り、フェイ=ヴリディアと戦場で結婚したという報告には、ミレルバスも愕然としたものだ。ジナーヴィは、ライバーンの家を呪い、血を憎んでいたのかもしれない。
魔龍窟へ落とし、救いの手を差し伸べることもなかった父に絶望していたのかもしれない。
もっとも、ミレルバスには、ミレルバスの理由がある。ジナーヴィを差し出すしかなかったマーシアスの時代、ミレルバスにはなんの力もなかった。ライバーン家の当主というだけで、空に浮いたような存在だったのだ。
マーシアスが死に、国主の座についた彼が、即座に魔龍窟を廃止しなかったのも、オリアンとの約束があった。
オリアンには借りがある。
その借りを返すには、魔龍窟の存在は必要不可欠だった。彼が魔龍窟の総帥として君臨した十年は、ザルワーンの外法の発展の歴史でもある。彼の研究によって、ザルワーンの外法はめざましく変化を遂げた。
そのひとつが、蘇生薬であろう。
ガンディア軍との戦いで死亡したはずのクルード=ファブルネイアは、オリアンが投与していた蘇生薬の効果によって蘇り、不死者となって龍府の地の底にいる。
ザイン=ヴリディアにも投薬していたというのだが、ザインの死体は原型を留めていなかった。蘇生薬はその名の通り、死者を蘇生させるものだ。損傷した肉体を復元するまでの効果はないらしい。それこそ、神の御業とでもいうべき代物になってしまうが。
(いや……)
ミレルバスは頭を振る。彼はもはや人知未踏の領域に足を踏み入れている。紅き魔人アズマリア=アルテマックスに武装召喚術を学び、マーシアス=ヴリディアに外法を叩きこまれた男は、いまやミレルバスの手に負えない存在へと成り果てている。
元から、彼の制御下にあったわけではないのだが。
「こんなところにいたのか」
ミレルバスは、突然飛び込んできた声にも別段驚きはしなかった。主天の間の扉は開け放っていたのだ。彼のように足音も立てない人間ならば、忍び寄ることもたやすいだろう。
オリアン=リバイエンが、いつもと変わらない足取りで近づいてきていた。昔からなにひとつ変わらないのが彼という男だった。表情も、仕草も、姿形も、なにひとつ。
それが異常なことなのだと気づいたのは、彼と知り合って数年後のことだった。そのときにはもう、オリアンはミレルバスにとってなくてはならない人物になっていた。
影を離すことなど、なにものにもできない。
「不用心なことだ。ガンディアが刺客でも放っていたらどうする」
「そのときはそのときだろう」
とはいったものの、本心からそう思っているわけではない。それにガンディアが刺客を放ったとして、天輪宮まで辿り着けるとはずもない。
ましてや主天の間に潜り込むには、天輪宮の至る所で輝く龍の眼を掻い潜らなければならないのだ。
そもそも、ガンディア軍は龍府の城壁に取りつくことすらできていない。暗殺の心配は無用だろう。少なくとも、ガンディアの息のかかった暗殺者がミレルバスの首を狙うことはあるまい。
反ミレルバス派が息を吹き返してきたという話も聞かない以上、龍府においては彼の身は安全だといえた。
そういうミレルバスの思考が透けて見えたのだろう――オリアンが口の端を釣り上げる。
「国主としての心構えがなっていないな」
「君に説教されるのも、これで何度目だろうな」
「さあな。数えきれないくらいは叱ったかな」
「……夢を見たよ」
ミレルバスは、静かにいった。ふたりのほかにはだれもいない空間に、彼の声が反響する。広くも寂しい部屋だ。栄華を極めんとした独裁者の夢の残骸と考えれば、当然のことかもしれない。
マーシアスの野望は道半ばで潰えた。
ミレルバスとオリアンが、幕を引いた。そうしなければならなかった。ミレルバスたちが動かなければ、ザルワーンは破滅への道を突き進んでいただろう。
滅びの道を免れ、新たな道を模索してきた。その道がまた、途絶えようとしているのかもしれない。
「はじめて君と出会った日のことを夢に見た」
夏の川辺。
森の影に立っていた幽鬼こそ、オリアン=リバイエンだった。その事実を知ったのは、彼と再会した数年後のことであり、オリアンが覚えていたのだ。
ミレルバスが忘れていたのは、状況の変化の激しさもあるが、陽炎のように消えた人物のことなどはっきりと覚えているはずもない。そして、川辺の幽鬼が彼だったからといって、特に驚くわけでもなかった。
彼がまだオリアンと名乗る前の話であり、彼がリバイエン家に婿入りしたのはそれよりずっと後のことだ。
「懐かしいな。あのとき、君はただの子供だった」
「ああ……ザルワーンこそ世界のすべてで、龍府こそ天地を支える柱だと信じて疑わなかった」
ミレルバスは目を細めた。
子供のころから少年時代に至るまで、彼はザルワーンという国がいかにも巨大なものだと信じていたし、ザルワーンに比肩するものなど存在しないとも思っていた。
ザルワーンの建国神話を無邪気に信じていたし、五竜氏族の生まれであることに誇りすら抱いていた。
少年期を脱し、青年へと成長する過程で、そういう無邪気さはどこかへ置いてきてしまったのだが。
「いまはただの老人だがね」
「……君もわたしも老いた」
「君が?」
ミレルバスは、一笑に付した。オリアンが人間らしく振る舞うなど、片腹痛いと思わざるをえない。彼の外見は、あの頃からなにひとつ変わっていないのだ。髪が薄くなりもしなければ、皮膚が垂れ落ちたりするようなこともない。相も変わらぬ皮肉げな表情は、彼の時間だけが止まっているかのようであり、人外であることの証明のように思えた。
オリアンは心外そうな表情をしたが、ミレルバスは取り合わなかった。
「あれから三十年以上が立つ。わたしたちの立場は変わり、取り巻く環境も変化した。ただの子供が国主となり、流浪の召喚師が国の闇を支配する――普通では考えられない、できすぎた話だ。すべては君のおかげだ」
「そうでもないさ。ミレルバス。君の器がくだらない、取るに足らないものだったなら、こうはならなかった。なれなかっただろう。わたしが君を見限り、君を滅びへと追いやっただろうからな」
「だが、君がいなければ、いまのわたしがいなかったのもまた事実」
「それは否定しないさ。しかしだ。わたしがいてもいなくても、君は国主となり、辣腕を振るっただろう。そういう仕組がこの国を動かしている以上、避けられぬ運命だったともいえる」
「辣腕を振るったところで、わたしの意を汲んでくれるものがどれほどいたか」
「君の意を汲んだのはわたしと、一部の人間と、敵国の工作員……か。素晴らしいじゃないか」
「そうだな……そうかもしれない」
オリアンの皮肉を、ミレルバスは否定しなかった。
ザルワーンを根本から変えることが夢だった。
龍の伝説に彩られ、五竜氏族という血統主義者たちによって支配される国。小国家群の中ではそこそこの大きさを誇る国土と周辺諸国を圧する軍事力は、血統主義者たちを増長させ、その思考を次第に壊死させていった。腐敗し、滅びを待つだけの国。
そんな国でも、生まれ育った国なのだ。愛していたし、憎んでもいた。できるならば救いたいと思うのが人情であろう。
そのために彼はできることをしてきたつもりだった。暴虐の限りを尽くす国主を諌め、それが無駄だと知ると、オリアンに協力を仰いだ。あらゆる手段を用い、様々な方法を使った。たとえこの手が血に染まり、悪逆の誹りを受けようとも構いはしなかった。
すべては理想のため、この国の将来のための行動だと信じた。
そうやってここまできたのだ。
いまさら後戻りはできない。後悔などできるはずもない。それでは、彼の独善的な理想のために散っていったものたちに申し訳が立たないのだ。
(そうだ。多くのものが死んだ。わたしのために。わたしの理想のために。この国の将来のために)
理想を抱いて死ねたものはまだいい。真なる五方防護陣を構築するための贄として捧げられたものたちは、なにが起こったのかもわからないまま死んでいったのだ。
彼らの多くは、犠牲になることを了解していたわけではない。だれもが迫り来る敵軍に怯えながら、朝が来ることを信じていたはずだ。
その想いを踏みにじり、裏切ったといってもいい。
彼のもうひとりの息子も、犠牲になった。守護竜を構成する要素となった。召喚するための力となったのだ。当然、ミレルバスは我が子に説明してもいない。
ゼノルートは、ミレルバスの長男であり、将来、ライバーン家の当主となるはずの人物だった。ミレルバスや周囲の期待を一身に背負い、その想いに応えるだけの才能と実力はあった。
だからこそ、ミレルバスは彼を天将に据えた。天将として経験を積めば、将来、ザルワーンの体制が大きく変わったあとでも生き延びることができるだろうと、ミレルバスは考えたのだ。親心であり、オリアンがミレルバスを嘲笑うのもわからなくはなかった。
ガンディア侵攻前後からの一連の行動は、その家族への甘さを捨て去るという意味があったのかもしれない。
ナーレスの拘束に伴うメリルの軟禁。ジナーヴィの最前線への投入。そして、ゼノルートを犠牲とした。
この国のために。
この国の将来のために。
「そうまでして勝ちたいのだろう? 勝たねばならないのだろう?」
オリアンが目を細めた。まるで、こちらの胸中を見透かしているかのような言葉に、ミレルバスは息を止めた。
「そうだ」
肯定する。
でなければ、ザルワーンという国が滅びてしまう。この地上から消えてしまう。イルス・ヴァレの歴史から、大陸図から、消え去ってしまう。
すべてが夢のように消えて失せる。
「だから君はわたしという鬼札を手に取った。あの日、あのとき、あの場所で、君はわたしと契約した。わたしは君の影となり、君はわたしの光となった。わたしは君で、君はわたしだ。わたしはいつだって、君の望みを叶えてきた。君のために手を汚し、血に塗れてきた。君はわたしのためにすべてを用意してくれた。研究費、研究施設、研究材料……そういう取引だ。そういう約束だ」
オリアンは、いつも以上に饒舌だった。いくつもの研究が思う通りの成果を上げていることが、彼の精神を昂揚させているのかもしれない。
彼の言葉の内容には、反論のしようがない。覆すつもりもない。その必要さえもない。当然のことをいっているだけだ。
「魔龍窟は敗れたが、真の五方防護陣がある。守護龍はガンディアの黒き矛にも打ち勝ったのだ。君の出番まで奪ってしまったのは誤算ではあるがね」
彼は皮肉に笑ったが、ミレルバスは笑わなかった。玉座から立ち上がり、オリアンの目を見据える。
「……出番ならあるさ」
前に進むには、相応の代償を払わなければならない。
それがこの戦乱の世の道理だ。