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第三百十七話 いつかの陽炎

 夏の日差しが、川面に照り返していた。

 川底が覗くのは、流れる水が透き通っているからというだけではなく、浅いからだ。だから、こうして水遊びができるのだ、と子供の頃から何度も聞かされてきたことをいつものように聞き流しながら、彼は年の離れた兄妹たちの様子を眺めていた。

 川の中ではしゃぎ回るのは、年端のいかない子どもたちだ。彼の弟と妹なのだが、同じ屋敷に起居しているわけではなく、顔を合わせることすら稀であり、こうして家族一同が揃うことでもなければ言葉を交わす機会さえなかった。

 そして、たまに顔を合わせたところで、交わす言葉も持ち合わせておらず、気まずい空気が流れるだけなのだ。

 だから、彼は兄弟たちが水遊びに興じる様を遠くから見ているだけ満足することにした。そう決めると、彼はそれも悪くないと思えた。そういう教育を受けてきた。

 次の当主となることを生まれながらにして定められている。

 みずからを厳しく律し、己を制御する術を叩きこまれながら、今日まで生きてきた。これからもそうやって生きていくのだろう。氏族の当主に求められるのは、人間性ではない。なにごとにも動じぬ強固な柱となることだ、という。

 そんな人間になれるのだろうか、と思わなくもないが、いまは深く考えないようにしていた。

 ロンギ川は、ザルワーンの中でも大きな川だ。龍府南東に聳えるロンギ山に源流を見出す川であり、遥か南方のログナー領土まで流れている。川幅は広く、川底は浅い。故に夏場になると水浴びや水遊びに興じる人々で溢れかえるのが常だった。

 彼の家族以外にも多くのひとびとが川辺に集まり、かなりの賑わいを見せている。水遊びに訪れるひとびとをあてにして商売をしているものたちもいるし、犯罪が起きないようにと監視の目を光らせる兵士の姿もあった。

 もっとも、この兵士たちは、彼とその家族の警護にこそ主眼を置いているといってもいい。彼の両親は軍に警護を依頼したわけではないが、軍としては、ライバーン家の当主とその家族を危険な目に合わせるわけにはいかないのだろう。

 もちろん、ライバーン家の当主と繋がりを持っておきたいという思惑もあるはずだ。さらにいえば、恩を売ることができるならばそれに越したことはないとでも考えているはずだ。

 ザルワーンの国主は、五竜氏族の当主で持ち回ることになっている。いずれ、ライバーン家の当主が国主となる日が来るのは間違いないのだ。この日の恩は、そのときにこそ役立つに違いない。

 もっとも、ライバーン家の当主が国主となるのは随分先の話だ。気が遠くなるくらい先といっても過言ではない。そのときまで、今日の警護に駆り出された兵士たちが現役であるかもわからなければ、彼の父が氏族の当主のままでいるわけがなかった。

「ミレルバスお兄様は、水がお嫌いなのですか?」

 不意に尋ねられて、彼は我に返った。目の前には、まだ十歳にもなっていない妹がいる。名はなんといったか。

 名前すら即座には思い出せないほどの縁の薄さに愕然とする。家族なのに、と思わずにはいられないが、仕方のないことでもある。関わりが薄いのだ。

 ミレルバスは、ライバーン家の本邸ではなく、龍府天輪宮玄龍殿りゅうふてんりんぐうげんりゅうでんで起居しているのだ。氏族の当主とはどういうものかをそこで学び、同じく五竜氏族の次期当主とされる子供たちとともに生活することを強いられている。

 いまでは彼らの方こそ家族だという感覚が強く、それはライバーン家の次期当主としてどうなのかと考えることもあった。

「水?」

「お兄様、ずっと見ているだけで、川の中に入って来られないので……」

 罪穢れを知らないような綺麗な目が、彼を見つめていた。水晶玉のような目には、きっと自分の顔が映り込んでいるのだろうと思い、彼は目を伏せた。

 彼は、自分の目が嫌いだった。世間知らずな子供のくせに小癪にも大人ぶった、そんな目をしているのだ。気に入らないと思えば思うほど、鏡に映る目は嫌味を帯びていく。いつからか、彼は鏡を恐れるようになった。

 水面も、澄んだ瞳も、そこに自分の目が映り込んでいるのではないかと考えるだけで厭になった。

「そういうわけじゃないよ」

「でしたら、一緒に遊びましょう」

 彼女の表情が明るくなったのを見た瞬間、彼は手を引っ張られた。子供らしい強引さで川の中に連れて行かれたものの、ミレルバスは別段、悪い気はしなかった。濡れてもいい格好ではあったのだ。川の水の冷たさが、足から伝わってくる。

 うんざりするような夏の暑さとは対照的な冷ややかさは、意識を研ぎ澄ませるかのようだった。

 しばらくは妹に引っ張られるまま川の中を歩いていた彼だったが、ふと、足を止めた。妹も足を止め、こちらを振り返るが、ミレルバスはなにもいわずに周囲を見回した。

 前方では弟たちがはしゃぐのにも疲れたのか、ミレルバスが到着するのを待っているようだ。後方には父がいて、母がいる。母は三人いた。彼の生母は、彼の立場からもわかる通り、正妻であり、あとのふたりは妾である。

 ミレルバス家の長たるもの、家を残さなければならない。そのために複数の妻を娶るのは当然であり、必然であった。昔からの習わしでもあり、そのことにだれも非違を唱えたりはしない。家の存続こそ使命であり、繁栄こそが当主の主題なのだ。

 年の離れた弟と妹の多くは腹違いであり、それこそ、名前を覚えていない原因のひとつかもしれない。もっとも、三人の母とはそれぞれうまくやっているつもりではあったが。

 彼とその家族がいるのは、ロンギ川でもゼオル・スルーク間の街道近くである。川を上ればすぐに石橋が見えてくるだろう。川遊びに興じるひとが多いのも、街道が近いからだ。

 街道から離れれば離れるほど危険は多くなる。当然のことだ。野盗が潜んでいるかもしれないし、皇魔に遭遇する可能性もある。

 街道周辺の皇魔の巣は発見次第、軍が全力を上げて殲滅に動く。街道の安全ほど、国にとって、民にとって重要なことはない。

 無論、都市の安全も大事ではあるのだが、堅牢な城壁に囲われた都市が皇魔の集団に落とされたという話が聞かれない以上、街道の安全を優先するのは当たり前ではあるだろう。野盗如きでは、城壁を突破することなど不可能といっていい。

 ミレルバスが気になったのは、川辺のひとの多さではないし、武装した兵士たちの仰々しさでもない。ライバーン家の邪魔にならないように遠巻きに遊ぶ一般市民の様子は、至って普通の光景であり、さしてめずらしいものでもない。

 もっとも、支配階級と一般市民が至近距離で水浴びをするなど、ほかの国ではありえないことであり、めずらしい光景といっていいのかもしれないが。

 当然、ザルワーンの中にあっても普通ではない。ライバーン家だけが特別なのだ、とかつて彼の父が語っていた。

 ライバーン家の人間は、下々の民と触れ合うことで、多くの物事を学んできたのだ、と熱弁を振るう父の姿は、いまも脳裏に焼き付いている。

 が、いまの彼には関係のないことだ。天輪宮での生活は、特権階級そのものであり、民心を考えるだけの感覚を養うには程遠いものだった。

 そういった感覚を養うには、一刻も早く天輪宮での生活を抜け出し、ライバーン家に戻る必要があるのだが、それもすぐにできることではなかった。彼に選択権はない。

 生まれながらにしてライバーン家の次期当主である彼にとって、人生とは決まりきった道を歩むだけのものだ。感情など不要だと思うことも多かった。ときに自分の手に負えなくなるような曖昧で不完全なものなど、消滅してしまえばいい。

 無論、そんなことを考えていたわけではなく。

 彼は、川辺の森に幽鬼を目撃して、意識が凍りつくという感覚に苛まれていた。


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