第三百十六話 守護なる者
死の闇から浮上するとき、常に激しい苦痛を伴った。
蘇生の痛みは、死よりも苛烈であり、死んでいたほうがマシに違いないと断言できた。電熱に灼かれるよりも烈しい痛みが全身を駆け巡り、生きていることを実感させる。
生物としては大切なことなのかもしれないが、感謝する気にもなれなかった。むしろ、苛立ちさえ覚える。が、その苛立ちをぶつける相手もいないことに絶望を禁じ得ない。
いや。
(いた……)
彼は、中空に投げ出された男の姿を見ていた。軽装の甲冑を身に纏った少年。黒き矛を手にした悪魔染みた人物は、なぜか、空中に吹き飛ばされている最中だった。巨大なドラゴンたる彼からしてみれば、眼前といっていい距離だった。
倒すべき敵であり、なんとしてでも殺さなくてはならない相手だった。復活の苛立ちをぶつけるには、ちょうどいい標的といえた。
彼は、いつの間にか生えていた腕を伸ばし、それこそ巨大な手で少年を包み込んだ。ほんの少し力を入れるだけで圧殺できるだろう。手のひらの中の生命反応は既に微弱であり、掴んだ衝撃だけで殺しかけていたのかもしれない。
殺すことに迷いはなかった。それがザルワーンの守護としての正義であり、絶対的に正しい行動だった。それだけではない。
感情が、彼の抹消を望んでいた。記憶が輪郭さえ失ったいま、それは理解し難い感情なのだが、肉体はどうやら、黒き矛のことを覚えているらしく、その消滅をひたすらに望んでいた。
ザルワーンの守護龍としてではなく、クルード=ファブルネイア個人の感情として、その少年を抹消したがっている。
だが、邪魔が入った。
幾筋もの雷光は、雷霆の射手が放ったものだ。精度は申し分ない。すべて、彼女の目算通りのところに突き刺さり、爆裂したようだ。
だが、いまの彼には電熱さえ届かなかった。さっきとは違う。なにもかもが異なっている。その程度の雷撃では傷つけることさえ困難なほどに、ドラゴンの外殻が硬化していた。
いや、硬化というべきなのかどうか。
なんにせよ、ドラゴンの肉体は変質し、当初とはまったく別の存在へと成り果てていた。地の底より、首から上を覗かせていたのとはまるで違う。
首の中程から胴体が形成され、肩から腕が伸び、股関節から足が生えていた。首の後半部分は長い尾となり、背部からは翼が広がった。
クルードは、他のドラゴンの視覚情報と己の五感で、その黒き竜の全体像を把握していた。そして、漲る力の膨大さに唖然とする。
五首のドラゴンのままでも、圧倒的な力を感じていた。ガンディア軍など一蹴できるほどの力があったはずだ。だが、この漆黒のドラゴンは、その感覚さえ過去のものとしてしまうだけの力を彼にもたらしていた。
蘇生の痛みが消え去ると、怒りも消えた。苛立ちをぶつける必要はなくなった。黒き矛を殺すのはあとでいい。まずは、雷霆の射手を殺し、拭いがたい敗北感を消し去らなくてはならない。
(敗北感……?)
クルードは、自分が考えたことに首を捻りながら、巨大な召喚武装を掲げる女を蹴散らすために動いた。もっとも、漆黒のドラゴンが雷霆の射手を殺しきることはできなかったが。
射手は、こちらの攻撃を回避しながら竜の腕に接近し、直接雷撃を撃ち込むことで破壊してみせたのだ。凄まじい爆発が起き、電熱の嵐がクルードの意識を焼き尽くした。声が聞こえた気がする。女の絶叫。召喚武装の咆哮。意識が闇に落ちた。
また、死んだのだ。
何度目かの蘇生は、やはり激しい苦痛を伴うものであり、彼は、当たり散らすように大地を破壊し、木々を吹き飛ばした。
五体のドラゴンが荒れ狂う様は、まさに天変地異そのものといってもよかったのかもしれない。
黒き竜の尾が木々を薙ぎ払い、足が地を踏みつけるたびに局地的な地震が起きた。翼が大気を叩けば竜巻が生じ、暗雲が渦を巻いた。
天災の化身となったような気分の中で、彼は、撤退するガンディア軍を見ていた。
追おうと思えば追えたかもしれない。
攻撃しようと思えば、攻撃できたかもしれない。
敵は主戦力を失った雑兵の群れだ。一撃の元に消し去ることもできただろう。それくらい容易くできなくては、龍府の守護などできるはずもなく、ザルワーンの守護龍などと名乗れない。
いまや彼の意識は、竜そのものとなっていた。クルード=ファブルネイアという人格は原型を留めていないのかもしれないと、冷静に考えることさえできていた。
だが、クルード=ファブルネイアの意思は間違いなくそこにあった。だからこそ、彼は黒き矛の部隊を追わなかったのだろう。でなければ説明がつかない。
彼は、黒き矛と雷霆の射手を抱えた女がこちらを一瞥した瞬間、呼吸を忘れた。
炎のように赤い髪を振り乱し、勝ち気な目でこちらを睨んでいた。常人ではないのは、その膂力を見ればわかる。
ふたりの人間を肩に担ぐなど、常人には不可能だ。普通では考えられないほどに鍛え上げられた肉体を持っているのだろう。クルードと同じように。
女の目を見ていると、なにかを思い出しそうだった。
「君は……だれだ?」
口に出してつぶやいたとき、彼の意識はドラゴンから解放された。同期が切れたのだと理解したとき、彼の肉体は床に投げ出されるように崩れ落ちた。視界が定まらない。暗く、なにもかもが遠い。
音もだ。
なにも聞こえないし、なにを見ているのかさえわからない。
死ぬわけではあるまい。
皮肉に口を歪めながら、彼は、床の冷ややかさを感じていた。
「首尾はどうだね」
オリアン=リバイエンは、室内に巡らされた召喚方陣を見つめながら、だれとはなしに問いかけた。
龍府天輪宮泰霊殿地下に作られた彼の研究施設の一角である。まさに龍府の中心に位置し、五方防護陣を支配するには打ってつけの場所だった。
もっとも、五方防護陣の砦自体は、いびつな五角形を描くように配置されているため、龍府の中心で支配する必要はまったくないのだが、気分というものがある。
気分こそオリアンの行動原理のひとつだが、凡人には理解されないことが多い。
黒い空間だ。壁も天井も床も、漆黒で塗り潰されている。魔力伝達率の高い材質を使ったためにそうなったのだが、部屋全体が黒いからといってなにか問題が有るわけでもない。むしろ意識を集中できると評判だった。
現在、この部屋は緑色の光に満たされている。室内一面に描き出された召喚方陣が脈動するかのように淡い光を発し、黒い室内の光明となっていた。
それこそ、魔力だ。人間の生命力の有り様のひとつであり、魔晶石に光を灯す力であり、武装召喚術を行使する際に消耗する力。
古代言語で描かれた召喚方陣の中心には、召喚方陣を明滅させる魔力の源泉がある。
「ガンディア軍は未だ龍府を諦めるつもりはないようだ。ヴリディア南方に陣地を築き、各地の軍勢を糾合し、膨れ上がっている。少なくとも、龍眼軍では対処しきれないな」
淡々と告げてきたのは、クルード=ファブルネイアだ。召喚方陣の中心に立ち、真の五方防護陣を司る存在となった彼には、以前の面影を見出すことはできない。
見事なまでの純白を誇った頭髪は抜け落ち、皮膚はひび割れたようになっている。目は落ち窪み、瞳だけが爛々と輝いていた。生気がなく、まるで死者のようだった。
オリアンは、クルードの変わり果てた姿を見つめながら、鼻で笑った。
「それは知っているよ」
五方防護陣の再建から既に三日が経過しているのだ。当然、ガンディア軍の動向に関する情報はオリアンの耳に届いているし、ミレルバスだって知っていることだ。
ガンディア軍が戦力を糾合したところで、対策を取る必要がないのもわかりきっている。
クルードがいて、彼がドラゴンの統率者として存在する限り、ガンディアは龍府に近づくことすらできないのだ。
黒き矛のセツナ・ゼノン=カミヤですら、ドラゴンを倒すことはできなかった。たとえ、絶大な力を持った召喚武装でドラゴンを傷つけたところで、手痛い反撃を食らうだけなのだ。
黒き矛のセツナを殺すことはできなかったようだが、さして問題ではない。黒き矛を退けることができたのだ。それがわかっただけで十分だった。
再び黒き矛が立ち向かってきたところで、同じように叩き潰すだろう。
真の五方防護陣たる守護龍には、ガンディアの弱兵では近寄ることすらできず、同盟国の精兵を犠牲にして接近したところで、薙ぎ払われるだけだ。
その圧倒的な力を目の当たりにしている以上、ガンディア軍も慎重に行動せざるを得ない。
とはいえ、龍府を落とそうというのならば、守護龍の防衛網を突破しなければならないのもまた事実だ。
五つの砦を贄に実体を得たドラゴンは、砦が内包していた戦力よりも広範囲に渡って防衛戦を張り巡らせているのだ。ドラゴンとドラゴンの間を擦り抜けるなど不可能であり、二体の龍の挟撃を受けて壊滅するのが落ちだった。
結局、ガンディア軍は戦力を一点集中せざるを得ない。その戦力の集中地点に選んだのが、龍府の南に位置するヴリディア砦跡なのだろう。
そして、ガンディア軍は通常戦力ではなく、武装召喚師を前面に展開するというのまで、オリアンには見えている。
しかし、だ。
守護龍は武装召喚術に対抗する術を持っている。
クルードが黒き矛を一蹴できたのは、守護龍が内包する能力によるところが大きい。無論、ドラゴンそのものの力も凄まじいのだが、それだけでは、あの化け物染みた召喚武装を退けられたかはわからない。
ともかく、守護龍が健在である限り、龍府が落ちることはない。ガンディア軍がどれだけの戦力を投入してこようと、龍府には接近することもままならないだろう。時間と人員だけを消耗していくことになる。
そして、いずれは龍府を諦めることになるのだ。
ガンディア軍が龍府に張り付いていられる時間は、そう長くはないはずだった。
ガンディアは、ザルワーン侵攻に際し、ほとんどすべての戦力を投入したようなのだ。だからこその連戦連勝だったともいえるのかもしれないし、だからこその不安要素がある。近隣の国々がガンディアの領土に軍を差し向けることは大いに考えられたし、内乱の可能性もないとは言い切れない。
オリアンの知る限り、ガンディアという国は狂っているし、腐ってもいる。
先の王の時代から今日に至るまで、ガンディアの根底にはザルワーンと同質の闇が蠢いているのだ。その闇を是正しないままに急速な膨張と変化を始めた国に、いくつものひずみが生じるのも無理からぬことだ。そのひとつが反レオンガンド勢力であろうし、ガンディア人とログナー人の軋轢であろう。
そういったひずみが大きくなれば、ガンディア軍は、五方防護陣の突破に集中していられなくなるだろう。
もっとも、そうなる前に守護龍がガンディア軍を殲滅してしまう可能性も捨てきれないのだが。
「では、なんだ?」
クルードの尊大な態度に、オリアンは目を細めた。超然とした目は、以前の彼とはまったく異なる印象を抱く。別人というより、別の生き物に成り果てたのかもしれない。
(失敗したかな)
と思わないでもない。
蘇生には成功した。それは間違いない。しかし、蘇生薬の副作用なのか、復活の反動なのか、クルードは本来の彼とはまったく別のものへと変化していた。
度重なる生と死の反復がもたらした変化なのかもしれないが、だとしても、オリアンの目指した結果とは異なるものが生まれてしまったことには違いない。
失敗と断ずるべきだろう。
とはいえ、守護龍の統率者としてはこれ以上ない存在の誕生である。それはそれで、祝福してもいいのかもしれない。
彼が存在する限り、龍府が落ちることはないのだ。