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第三百十五話 幾度かの死

 逆流があった。

 膨大な量の情報が、全身を逆流するように押し寄せ、意識へと雪崩れ込んできた。怒涛のような情報量は、クルード=ファブルネイアという人間の意識に壊滅的な被害をもたらすに至る。莫大な言葉、想念、怨嗟、呪詛、憤怒、悲哀、数多の感情が、彼自身の感情とない交ぜになって混乱を加速させる。

 混乱があり、混沌があった。

 彼は意識が混濁する感覚の中で、無数の生と死を経験した。

 ファブルネイア、ビューネル、ヴィーヴル、リバイエン、そしてライバーン。

 龍府を守護するために作られた五つの砦。通称・五方防護陣と呼ばれる砦の中で、騒ぎ立てるひとびとの姿が見えた。

 暗闇の中、浮かび上がる緑色の光があった。砦の壁や床を伝う緑色の光は、複雑な紋様を描き、呪文を虚空に浮かべていった。呪文は、武装召喚師にとって馴染み深い古代言語の文字列であり、そのまま口ずさむだけでなんらかの召喚武装を呼び寄せることもできそうだった。

 いや、できたに違いない。それらの呪文は、クルードにとって極めて身近な構成だった。魔龍窟の武装召喚師は、その術式を覚えなければならなかったのだ。竜の名を冠するいくつもの召喚武装が彼の脳裏を過ったものの、彼が召喚の呪文を口にすることはなかった。

 それよりも、網膜の裏に飛び込んでくる情景のほうが気になったのだ。

 ひとびとは、その光に曝されて、照らされていた。軍人が多い。武器を手にするもの、鎧を身につけようとするもの、談笑していたもの――だれもが、この光の乱舞に驚き、恐れ、混乱していた。

 精鋭たる龍牙軍の兵士たちでさえ、予想だにしない怪現象を目の当たりにすれば取り乱すということがわかったが、だからどうということはなかった。

 彼は、なぜ自分がそんな情景を見ているのかがわからなかった。そもそも、クルードは自分がなにをしているのかさえ、把握しきれてはいない。

 オリアン=リバイエンとの取引に従い、彼の言う通りにことを運んだだけだ。彼の代わりに武装召喚術を使う、ただそれだけのことだったが、オリアン曰く、死ぬほど苦しいことだということだった。

 クルードは一度死んだ身であり、死の苦しさというものは身を持って知っている。それでも、彼との取引に応じざるを得なかったのは、ミリュウを取り戻したあとのことを考えたからだ。ミリュウはオリアンの娘だ。彼女と結ばれる一番の近道は、オリアンの力添えを得ることだ。オリアンの命令ならばミリュウは従うだろう。

 短絡的な考えに疑問も抱かなかった。彼女の感情など、関係なかった。ミリュウを幸福にできるのは自分しかいないのだ。自分だけが、彼女を絶望的な闇の底から救い上げることができる。勝手な思い込みかもしれないが、そうでなければならなかった。

 そうでなければ、自分が生き返った意味がない。

 彼女の無事を祈って死に、蘇ったのには、意味があるはずなのだ。理由があるはずなのだ。

 だから、彼はオリアンの取引に乗った。

 それは、龍府の守護だという。

 真の意味で、龍府の守護者になるのだと。

 それを果たした先にこそ、ミリュウの奪還がある。龍府に攻め寄せるガンディア軍を蹴散らし、捕縛されたミリュウを取り戻すのだ。

 その血も肉も、身も心も、すべて手に入れる。

 そのためにも、彼は為すべきことを為さねばならなかった。それこそ、龍府の守護であり、ガンディア軍の撃退であるのだが、詳細を聞いてもよくは理解できないものだった。オリアン曰く、五方防護陣の再構築だという。

 その意味を理解したのは、すべてが終わってからだった。彼は、オリアンにいわれるままに呪文を唱え、術式を完成させたに過ぎない。

 それは、極めて武装召喚術に似ていた。

 オリアンから学んだ技術のすべてを使って、それを実現した。古代言語の詠唱による術式の構築と力の発散。異世界への干渉と契約物の召喚。呪文は、武装召喚術の構成とは異なる部分が多々あり、解霊句、武形句、聖約句以外の呪文を唱える必要があった。それがなにを意味するのか、オリアンに問いかけたところで、答えは返ってこなかった。

 オリアンが命じたことを黙って遂行すればいい、ということなのだろう。

 クルードは、オリアンの思惑通りにそれを実行した。

 そして、異変は起きた。

 彼は五つの砦のすべてを認識し、膨大な量の情報を受信した。雪崩れ込んでくる情報の莫大さは、彼の自我をも破壊しかねないほどの圧力を伴っていたが、それに耐えることができたのは、クルードという人間が半ば死んでいたからかもしれない。

 苦痛はなく、反動もなかった。

 意識を圧倒する情報の奔流の中で、彼はただ、五方防護陣が光に飲まれていくさまを見ていたのだ。緑色の光がひとびとを貫く。ザルワーンの兵士たち。部隊長、副将、軍団長。見知らぬ顔も多いが、知った顔もいくつかあった。名前までは思い出せなかったが、クルードが優しくすればすぐに心を開いたような男だ。忘却するのも無理はなかった。

 光があふれた。呪文が乱舞し、膨大な輝きが視界を埋め尽くす。なにもかもが光に食い尽くされ、分解され、ただの情報の粒子となって虚空に踊る。そして、召喚が起こる。大量の人間を犠牲にすることで起動する召喚術なのだと、そのときになってやっと理解した。

 それは間違いなく武装召喚術ではない。もっと別のなにかだ。

 遥か昔、聖皇ミエンディアが行使したという召喚魔法と呼ばれるものなのかもしれない。意識を塗り潰す圧倒的な光の中で、彼が考えられたのは、その程度のことだった。

 気がついたときには、彼は、大地を睥睨していた。


 眼下に広がる森を見渡していた。

 暗雲に包まれた空の下、横たわるのは重い闇だ。その闇の下、風に揺られ、ざわめく木々がある。無数の木々によって築き上げられた森が、龍府の周囲を覆う樹海だということに気づいたのは、森を貫く街道の形が、脳裏に刻まれた地図と一致したからだ。

 クルードは、自分がどうなってしまったのかわからなかったものの、眼前に迫る敵軍に対しては応じなければならないことは理解していた。自分が成すべきは龍府の守護なのだ。迫り来る敵軍を打ち払うのは、守護として当然の役割だった。

(そうか)

 と、彼は、森の中の空隙を満たす敵勢を見下ろしながら納得した。

(俺は守護になったのか)

 満ち溢れる力が敵を卑小なものに見せた。際限なく肥大する感覚は、召喚武装を手にしたときよりも強烈であり、自分を見失いそうになるのも仕方のないことだった。天の果てから地の果てまで見渡せるような気がしたが、それは思い違いにほかならない。とはいえ、龍府周辺の状況は手に取るようにわかったのだが。

 それほどまでに拡大し、尖鋭化した五感が敵集団を捕捉している。敵は、ザルワーンに反旗を翻し、この国に致命的な楔を打ち込んだ猛将グレイ=バルゼルグの軍勢だった。彼らがザルワーンに降り、その尖兵として猛威を振るっていたのは、クルードたちが魔龍窟の闇の底にいたころであり、直接の面識はなかった。だが、それがグレイ=バルゼルグの軍勢だと一目でわかった。わかってしまった。頭の中に飛び込んでくる莫大な量の情報が、彼らの正体を特定させるのだ。

 グレイ=バルゼルグとその麾下三千人の精兵。ザルワーン最強の部隊だったという。その名を聞くだけで近隣諸国の将兵は震え上がったらしいが、クルードには関係のないことだった。

 クルードには、グレイたちがとてつもなくちっぽけな存在に見えていた。

 それからなにがあったのかは覚えていない。戦闘にすらならなかったはずだ。戦力の差は歴然としている。敵は、たった三千人の兵士なのだ。これがすべて武装召喚師ならば、こちらも本気を出さなければならなかっただろう。だが、そうではなかった。ただの人間を相手に全力を出す必要もない。

 クルードは、もはや自分がどういう存在なのかを理解していた。

 あふれるような超感覚が、自分の姿さえも脳裏に投影していた。

 五方防護陣の各砦を飲み込んで出現した五体のドラゴン。それがクルード=ファブルネイアの肉体そのものだった。

 いや、本当の肉体は龍府天輪宮にある。しかし、実感として、彼の肉体は五体のドラゴンであり、五体のドラゴンの視界を通して、彼は五方防護陣周辺の景色を見ていたし、迫り来るガンディア軍を認識していた。

 五体のドラゴンがそれぞれに感じたものが、膨大な量の情報となってクルードへと逆流してくる。視覚情報だけではない。ドラゴンの聴覚が捉えた木々のざわめきがクルードの頭の中で反響し、ドラゴンの巨躯を撫でる大気流はクルードの全身を包み込むかのような錯覚をもたらした。嗅覚もだ。大地の匂い、草花の香りが鼻腔を満たし、死臭がそれらを一掃するのに時間はかからなかった。

 やがて、クルードはガンディア軍の偵察部隊と思しき軍勢と対峙した。

 ひとつは、ファブルネイア砦。

 ひとつは、ヴリディア砦。

 ひとつは、ビューネル砦。

 記憶が曖昧だが、戦端が開かれたのはほぼ同時期だったはずだ。もっとも、ファブルネイアはやはり戦闘らしい戦闘も起きなかったし、ヴリディアでの戦闘も大それたものではなかった。互いに決定打を持てないまま、ガンディア軍が引いたという形だが、あのまま戦い続けていれば、クルードに勝機が訪れたであろうことは間違いない。

 だからこそ、ヴリディアのガンディア軍は戦線を引き下げたのだ。つまり、撃退に成功したということだが、安心するのはまだ早い。敵部隊を退けただけで、手傷ひとつ負わせられなかった。無敵の盾は、ドラゴンの圧倒的な力を持ってしても破れなかったということだ。

 ビューネル砦跡での戦いは、ほかふたつよりも熾烈を極めた。少なくとも、クルードは何度か死んだ。

 死ぬたびに蘇生し、即座に戦闘に戻るのだから、不死とは恐ろしいものだと他人事のように思った。

 蘇るたびに苦痛を伴い、なにかを失っていくような感覚に囚われるのだが、そんなことを気にしている場合でもなかった。ビューネルに現れた敵は、手強かった。

 敵は、黒き矛を携えていた。禍々しいばかりの漆黒の矛は、一度、見たことがあった。確か、ガンディアが誇る武装召喚師の武器であり、ガンディアの隆盛を象徴する存在だったはずだ。不明瞭な記憶を繋ぎ合わせて出した結論に不安が生まれる。だが、敵は待ってはくれない。黒き矛は強力な召喚武装であり、たった一撃でドラゴンの堅固な顎を砕いたのだ。その衝撃がクルードの脳天を貫き、彼を二度目の死に追いやったのだが、いまやどうでもいいことだ。

 撤退を図る黒き矛とその部隊。不意に、クルードの体に電熱が走る。雷霆の射手、という言葉が浮かんだが、それがなにを意味するのかはわからなかった。彼は、雷撃を放った人物に反撃するよりも、黒き矛に集中した。

 黒き矛の武装召喚師を倒さなければならない。

 そんな強迫観念が、彼を支配していた。黒き矛を破壊しなければ、黒き矛の使い手を殺さなければ、彼女は戻ってこない。女神は永遠に失われたままだ。

(彼女……? 女神……?)

 クルードは、脳裏に浮かぶいくつもの言葉に怪訝な表情になった。

 そして、黒き矛によって眉間を貫かれ、何度目かの死を経験した。

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