第三千百五十一話 反撃(十一)
「寒くはないか?」
「はい、ご心配なく」
「いや、心配させてもらう」
ドルカが告げると、ニナは面食らったように目をぱちくりとさせた。それから少しだけ頬を紅潮させた彼女の反応に彼は大いに満足したのだった。たまには、そういうことをするのも悪くはない。
冬の夜。頭上には満天の星空が広がっていて、いまにも降ってきそうな、そんな美しさがあった。
しかし、星空に気を取られ続けるには気温は低かったし、風も冷たかった。
政府官邸を出る際、防寒対策をするようにとフレグロアからいわれており、ドルカもニナも防寒用に厚手の外套を纏っていた。人質に対しそこまで気を遣うのは、ドルカがログノール政府の代表である総統だから、だろうが。
ドルカとニナは、フレグロアの近くに立たされている。ふたりを取り囲むのは重武装の兵士たちであり、そのごてごてした装飾も派手な甲冑は、実用的とはいえない代物だった。しかし、だれひとりとしてその装備を改めないところを見ると、それが聖軍の正式装備であり、勝手に変更することが許されないのだろう。
戦いにくそうだと思わずにはいられないが、だからといって忠告したところで聞き入れられるわけもない。聖軍には聖軍のやり方があり、しきたりがあり、掟があるのだ。部外者がとやかくいうことではない。
(それにだ)
聖軍兵士たちがその武装のせいで戦いにくいのであれば、こちらにとって有利に働くだろう。
もっとも、その武具になんらかの特別な力が宿っているというのなら、話は別だし、その可能性も十分に考えられた。でなければ、儀礼用としかいいようのない武具に拘る必要がどこにあるというのか。
そんなごてごてした武具を身につけた兵士が二千人ばかり、マイラムの南門を護るように配置されている。南門とはいうが、正門だ。マイラム最大の門であり、南東より迫ってきている軍勢がこの門の突破を狙うことは、間違いなかった。
だからこそ、フレグロアは全戦力を門前に結集した。
マイラムという城塞都市を確保しながら、城塞としての機能を利用せず、野戦にて迎え撃とうというのは、決して良い戦術とはいえない。が、今回は、フレグロアに必勝の策があり、故に彼は完全なる勝利を信じ、全戦力を展開していたのだ。
その必勝の策とは、ドルカを人質にしている、ということだ。
ログノールの総統ドルカ=フォームを盾にすれば、少なくともアスタル=ラナディースやエイン=ラナディースは動けまい、と、フレグロアは考えている。そして、その考えはある点では正しい。しかし、ある点では間違いなのだ。
(そもそも、エインくんがこの状況を考えていないわけがないんだよねえ)
ドルカは、兵士たちにきびきびと指示を飛ばすフレグロアを横目に見遣った。兜を被った聖騎士の横顔は、歴戦の猛者を想起させたが、しかし、ドルカがこれまで見てきた戦士たちのほうが余程、凶悪な面構えをしており、そこには歴然の差があった。
やがて、遙か前方からなにかが接近してくるのが見えた。闇夜を切り裂く光が、その大軍勢の先頭集団を照らしており、土煙を上げるほどの勢いで迫り来る連中が鋼鉄の軍馬に跨がっているのがわかった。丘を越え、平地へ至り、加速する。
千体以上のブフマッツと、それを駆る騎士たち。その頭上には、空を進む皇魔の姿もあった。
猛然たる勢いの軍勢は、あっという間にマイラムの眼前へと辿り着き、聖軍と対峙した。
「報告を聞いたときは耳を疑ったが、本当に皇魔と手を組んでいたとはな」
フレグロアが苦い口調でつぶやくのを聞いて、ドルカは、ニナを一瞥した。彼女もこちらを見て、なんともいえない表情をした。
どうやら、フレグロアは、人間と皇魔が手を組んで行動しているという報告を受けていたようだが、その報告に疑いを持っていたらしい。
このログナー島において、人間と皇魔が共存共栄の道を模索し始めていたというのに、だ。
島の外から来た人間が、島の内情を知ろうともしなければ理解しようともしなかったのであれば、さもありなんというべきだが、それにしたって迂闊にもほどがあるのではないか。
「なにも恐れることはないぞ、諸君」
フレグロアが兵士たちに向かって、身振りも強く、宣言した。
「我ら聖軍が皇魔如きに負けるわけがないのだからな」
兵士たちが喚声を上げる中、ドルカとニナは肩を竦め合った。既にエンジュールとバッハリアが落ちている以上、フレグロアの考えは、間違っているとしか言い様がない。
聖軍二千に対し、対峙する敵軍は二千以上。ブフマッツが千体程度で、それらブフマッツには同数の乗り手がいる。そして、空中を移動してきた皇魔たちもいて、それらは本隊とは別の地点に降り立っている。
数の上では、どう見ても相手が有利だった。
聖軍の兵士ひとりひとりの実力は、常人とは比べものにならないといっていい。それは、彼らの鍛錬の様子を見れば、一目でわかるというものだった。並外れた身体能力に強靭な肉体、底知れない体力は、並の人間には持てないものだ。
しかし、相手もまた、並の人間とは比較しようのない存在だった。
皇魔たち。
紅く輝く無数の目が、こちらを睨み据えていた。
彼らが中々攻撃してこないのは、聖軍の出方を窺っているからではなく、ドルカとニナが人質に取られていることを認識したからなのだろう。そういう意味ではフレグロアの策は、効果覿面といってよかった。ただし、それがいつまでも続くという保証はない。
そんなことを考えていると、フレグロアが動いた。
軍使を敵軍に派遣したのだ。
ドルカたちの命が惜しくば投降せよ、とでもいわせるつもりなのだろう。その場合、魔王軍は、どう動くか。おとなしく降参するはずもない。このような好機はもう二度と来ないかもしれない以上、いまを逃す手はなかった。
もう動いたのだ。
動いてしまったのだ。
エンジュールとバッハリアを解放した以上、立ち止まるわけにはいかない。
(さて、どうする? エインくん)
ドルカが胸中問うた直後だった。異様な気配を背後に感じたかと思うと、なにものかに肩を触られたのだ。そして、つぎの瞬間、ドルカは重力から解放される感覚に襲われ、空中高く浮かび上がった。いや、浮かび上がった、というような話ではない。空高く跳ね飛ばされた、といったほうがより正しいだろう。
夜空へと跳ね飛ばされたのは、ドルカだけではない。ニナも一緒であり、ドルカも彼女も、思わず悲鳴を上げずにはいられなかった。全身を包み込む浮遊感は、不安を急激に増幅させるものであり、頭の中を混乱が満たした。だが、それも一瞬のことだ。
手を、握られた。
「確保完了」
聞き知った声が耳朶に飛び込んでくると、ドルカの思考が冴え渡ってきた。それまで全身を包み込んでいた不安や心配が吹き飛んだのは、不安定な状況から脱し、安定し始めていたからだ。
「えーと、ルニアさん、だったかな?」
「ああ」
言葉少なにうなずくと、ルニアは、ドルカとニナの手を握ったまま、夜空を優雅に散歩するような緩やかさで、魔王軍の陣へと向かった。
地上に降り立ったころには、聖軍陣地は大騒ぎになっていた。
それはそうだろう。
ついさっきまで確保していたはずの人質が一瞬にして消えてしまったのだ。
状況は、一変した。




