第三千百四十三話 反撃(三)
ログナー島は、ネア・ガンディアによって制圧されて以来、各都市、各地域に聖軍の部隊が駐屯するようになっていた。
ログノールの首都マイラムに二万もの兵を置くというのは示威目的もあったのだろうが、バッハリア、マルスールにもそれぞれ一万の兵を手配し、エンジュールのような小さな街にさえ五千の兵を配置したのには、ネア・ガンディアがいかに用心深く、かつ、反抗の芽を積むための努力を惜しまない組織であるかが窺い知れるものだった。
圧倒的な軍事力を背景に降伏を迫ってきたネア・ガンディアに対し、ログノール、エンジュールは、諸手を挙げて降参した。それによってログナー島はネア・ガンディアの支配下に組み込まれ、各勢力の武力も奪われてしまった。軍は解体もしくは縮小を余儀なくされ、武器や防具を所持することさえ許されなかったのだ。
その上で聖軍の将兵が多数派遣されたとあれば、普通は、心折れ、ネア・ガンディアに唯々諾々と従うだけの人形に成り果てたとしてもおかしくはない。
むしろ、シグルドたちのように、できるかもわからない反攻作戦のために日夜鍛錬を続けられる人間のほうが、おかしい。
いまのいままで、そのような機会が訪れる気配さえなかったのだ。
これから先、聖軍が致命的な失態を見せることがあるとは限らなかった。
それでも、シグルドたちは牙を研ぎ、爪を磨き続けた。
それもこれも、このログナー島をネア・ガンディアなる連中から奪還するためであり、ネア・ガンディアにガンディア人魂を見せつけるためにほかならない。
そんな想いを抱いて坂道を駆け下りてきたシグルドたちが、その道中、エンジュールに異常事態が起きていることを知った。
「ルニアのいった通りだな……」
「わたしが嘘をいうわけがないだろう」
「そりゃあそうだが」
ルニアの言い分ももっともだが、シグルドには、少しばかり信じられないような光景が広がっていたのだ。 エンジュールの市街地は、常に聖軍駐屯部隊の監視下にあった。いくつかの部隊が常に巡回している上、市内各所に聖軍によって建造された監視塔には、常に兵士の目が在ったのだ。そういった監視の目を掻い潜るには、ルニアの魔法が必要不可欠なのだが、いまは、もはや不要なのではないかと思えた。
というのも、エンジュール市街地に聖軍兵士の数が激減していたのだ。
五千人もの駐屯部隊だ。
監視任務に当たっているのは、そのうちの一部に過ぎず、大半が市内のそこかしこに屯していたり、温泉に我が物顔で浸かっていたりしたものなのだが、そういった姿がまったくといっていいほど見当たらなくなっていた。
ありえないほどに閑散としている。
「なにがあったんだ?」
「さあな」
「守護様に話を聞きましょう。なにか知っているかもしれません」
ジンの提案にうなずくと、シグルドは、一先ず鍛錬組を解散した。いくら聖軍兵士の数が少なくなったからといって、大勢で連れ立って歩き回れば目立つし、いつまでもルニアの魔法に頼っているのもよくないことだ。シグルドたちのような生者は、町中では堂々としていればいいのだ。
郊外で鍛錬するなどという後ろめたいことでもない限り、監視の目を逃れる必要もない。
鍛錬が後ろめたいというのも、不思議な話だが、
それから、すぐさまエンジュールの守護エレニア=ディフォンがいる建物に向かった。
道中、シグルドたちを見咎めるものもいなかった。
聖軍兵士の数が激減したというのは、ただの雰囲気や印象ではなく、事実のようだった。巡回部隊の数も少なくなり、監視塔で目を光らせている兵士も減っている。そして、町中で見られた兵士が屯する様子すらも、減っていた。
(これは……)
もしかすると、もしかするかもしれない。
そんな淡い期待を胸に抱き、シグルドたちがエレニアの屋敷に辿り着いたのは、夕闇が差し迫る頃合いだった。
空を覆っていた飛翔船の大半が既にエンジュール上空を去り、それによって夜が間近に迫っていることを認識できたのだった。それまでは、頭上から降り注ぐ膨大な光によって、真昼ような明るさがシグルドたちを包み込んでいた。
光の船の群れが去れば、夜の闇が迫り来る。
それによってむしろ安堵を覚えるのは、飛翔船に悪い記憶しかないからに違いない。
エンジュールの守護エレニア=ディフォンは、ネア・ガンディアへの降伏以来、その守護というエンジュール独特の立場から引きずり下ろされていた。
それによってエンジュール住民の反発を食らうことはネア・ガンディアとしても想定の範囲内のことであっただろうし、圧倒的軍事力を誇る駐屯部隊を派遣するだけで、そういった反発を黙らせることができるということも、わかりきっていたのだろう。実際、エンジュールのひとびとは、聖軍の駐屯部隊が派遣されてくると、文句ひとついえなくなってしまった。
エレニアは、ただ、守護の座から引きずり下ろされただけではない。エンジュールのだれよりも厳しい監視下に置かれていた。
いわば人質だ。
エレニアは元々ログナー人であり、騎士だった。エンジュールの住民の大半であるログナー人に慕われていた人物であり、そんな彼女が“大破壊”以降のエンジュール住民の心の支えとなってきたのは、ある意味当然だったのだろう。紆余曲折こそあったが、なるべくしてなった、というべきかもしれない。そして、そんな彼女だからこそ、人質たりえるのだ。
シグルドでは、こうはいかない。
シグルドを人質に取ったところで、エンジュール住民の心を折ることなどできなかったはずだ。
そういう意味では、ネア・ガンディアは上手くやった、といっていいだろう。
上手く、エンジュールを支配した。
しかし、その厳しい監視の目も、ルニアの魔法の前では無力だった。人間の目を欺く彼女の魔法を使えば、常に厳重に警備され、監視の目に曝されている屋敷に出入りすることも自由であり、シグルドたちは、そうやって度々エレニア親子の様子を窺ってきたのだ。
そしてそのたびにエレニアとその息子レインがなに不自由なく生活していることに安堵するのだった。
聖軍将兵は、エンジュールのひとびとに危害を加えるようなことはしない。法を遵守し、規範を守り、秩序の維持に全力を尽くしている。そこは、将から末端の兵に至るまで徹底していて、故にエンジュールのひとびとも次第に聖軍将兵を受け入れるようになっていた。
エレニアとレイン親子の生活が脅かされることもなければ、ふたりが不幸な目に遭うこともなかった。もっとも、もしそのようなことがあれば、ふたりの守護精霊が許しはしないだろうが。
そういう意味でも、聖軍兵士がエレニアたちを傷つけるようなことがなかったのは、不幸中の幸いだろう。もしそんなことになれば、エンジュールそのものが戦場になっていた可能性がある。
ゼフィロスは聖軍を許さず怒り狂い、聖軍は、ゼフィロスを討伐するために戦力を集中させたに違いないからだ。
そんなことを考えながらエレニア親子の軟禁されている屋敷に入り込むと、彼女は、息子とともに書斎にいた。そして、シグルドたちを見るなり、こういってきた。
「来ると思っていたが、随分と遅かったな」
予期せぬ一言にシグルドが怪訝な顔をすると、彼女は、さらに続けた。
「船を見ただろう。聖軍の大半はあれに合流したそうだ。作戦行動のため、とのことだが」




