第三千百四十二話 反撃(二)
空を覆う飛翔船の群れの下、帰路を急ぐシグルドたちが違和感を覚えたのは、エンジュールの町並みを見下ろす山道に差し掛かったときだった。
エンジュールは、周囲を山に囲まれた小さな街だ。小さな、というには大いに繁盛し、街の規模から考えられないほどの利益を上げていた時代があるが、それはこの街がバッハリアに並ぶ温泉地だったからだ。そして、ガンディアの英雄セツナ=カミヤ最初の領地となったことで国の内外に知れ渡るようになったのだ。
元々ログナー人ならば知らぬもののいない温泉地ではあったのだが、それにしたってバッハリアの影に隠れがちだったという。ログナーがガンディアに併呑され、エンジュールが英雄セツナの領地になったことは、このエンジュールに多大な影響を与えた。
それは温泉客の激増であったり、人口の急増であったり、それに伴う治安の悪化など、良い面ばかりではないのだが、そういった悪い部分に関しては、当時の司政官ゴードン=フェネックらの手腕によって改善されていったそうだ。
そんなエンジュールの市街地には、ここのところ、聖軍の兵士たちが巡回していたり、監視していたりした。目も眩むような絢爛豪華な武具を身につけた兵士たちは、人間だというのに異様な雰囲気を纏っており、見ただけで常人ではない、と思わせるなにかを持っていた。
しかしながら、彼ら聖軍兵士の監視の目を盗むことそのものは、シグルドたちにとってはなにひとつ難しいことではなかった。
日々、エンジュール郊外で行われていた鍛錬が一切露見していないことが、その証左だ。
それには、ルニアという優秀な協力者が関係している。
リュウディースのルニアは、魔法を使う。
ルニアの魔法によって、シグルドたちは、監視の目を悠然と潜り抜けることができるのだ。
この手を使えばバッハリアやマイラム、新生メキドサールと行き来することも難しくはなかった。
ルニアのような魔法使いは、メキドサールには数多くいる。リュウディースにとって魔法とは、成長過程で当然のように覚えるものであり、使えないものなどひとりとしていないくらいだという。つまり、人間が手足を使って生活するように、リュウディースたちは魔法を使うのだろう。
リュウディースたちの魔法は、反攻作戦を練る上で極めて重要な立ち位置にあった。
魔法がなければ監視の目を縫うことは難しく、魔法がなければ都市間を行き来するのも困難であり、魔法がなければ、鍛錬に明け暮れることもできない。
そういう意味でも、シグルドはルニアに感謝していたし、度々、その想いを言葉にしたものだった。
そのたびにルニアはユベルの命令であるから仕方なく従っているだけだ、と言い返してくるのだが、まんざらでもない表情をするのが彼女の愛嬌のあるところだろう、と、シグルドは想っている。
話を戻す。
その日も、シグルドたちは、いつものようにルニアの魔法によって聖兵の監視を潜り抜け、エンジュール郊外で鍛錬を行った。敵が聖兵だけならばいざ知らず、神人や神獣が立ちはだかる可能性を考慮すれば、どれだけ鍛えても鍛えたりなかったし、鍛えるだけでは埋めがたい戦力差があることは明白だった。
だからといって、なにもせずに勝利が転がり込んでくるはずもない。
ただひたすらに鍛え上げ、研ぎ澄まし、戦術を練っていくしかないのだ。
時にはメキドサールの皇魔たちを交えた演習を行うこともあった。無論、聖軍の監視網に引っかからないよう、大規模な魔法壁を張り巡らせた上で、だ。
そうやって反抗軍の練度を上げ続けることで、いつの日か訪れるだろう好機に備えた。
好機が訪れないことだってあるのだが、その可能性からは目を逸らし続けるしかなかった。
ネア・ガンディアに従い続けるなどまっぴら御免だ。
どこの馬の骨とも知れない連中に新生ガンディアなどと名乗らせるなど、ガンディア人の血が許さなかった。
獅子神皇レオンガンド・レイグナス=ガンディアを名乗るものにも、思い知らさなければならない。
ガンディア人がなんたるかを、知らしめねばならない。
ただ、そのためにはいつ訪れるかもわからない好機を待ち続けなければならず、それには彼のような堪え性のない人間には極めて困難なことであり、根気の必要なことだった。彼が耐え続けることができたのは、ひとえに日々の鍛錬のおかげだろう。
鍛錬によって発散しなければ、鬱積した感情が激発し、聖軍兵士相手に大立ち回りを演じ、結果、殺されていたかもしれない。
そして、今日という日を迎えられなかったのではないか。
そんなことを、異変が起きている中で考えるのは、エンジュールを包み込む異様な空気のせいかもしれなかった。
「シグルド、なんだか街の様子が変だ」
坂道を降る途中、真っ先に警告を発したのは、ルニアだった。
人間ばかりの一行の中で、皇魔リュウディースの彼女は、だれよりも目が良かった。遠くまで見通せるだけでなく、動体視力もいいのだ。鍛錬で彼女とやり合った場合、本気で殴りかかったとしても、軽々とかわされるか、手痛い反撃を食らうのが落ちだった。
だから、シグルドは、彼女の目を疑うことはしない。ただ、問う。
「変? なにが変なんだ?」
「監視の数が異様に少ない」
「監視が少ない……?」
「今回から巡回の経路が変わったとか、そういうことではないのですか?」
ジン=クレールが眼光も鋭く、ルニアを見た。
ルニアの警告から、シグルドたちは坂道の脇の雑木林に身を隠しながら、移動するようになっていた。エンジュールに異変が起きたのだとすれば、郊外から市街地への道中、監視の目が強くなっている可能性がある。
「違うな。経路に変更はないように思える」
「……なにかあったか」
シグルドは、遠く市街地を睨みながら、つぶやいた。市街地は、一見すると、平穏そのものだった。いつも通りの恐ろしいほどの静寂に包まれており、かつて温泉地として賑わった記憶が色褪せていくのも時間の問題というような光景だ。
聖軍の兵士たちは、街のひとに危害を加えたり、乱暴を働くことはない。
むしろ、温厚そのものといってもいいくらいだ。
ネア・ガンディアの法を遵守し、規則を守り、秩序の維持に全力を注いでいるだけであり、そういう意味では、シグルドたちは、聖軍将兵に対しては、特別わだかまりや憎悪、敵意を抱くこともなかった。彼らが悪意を振り撒いてくれれば、敵として認識し、殺意をぶつけやすくもなるのだが、実際はその真逆だ。
そのことが、多少、シグルドたちを混乱させもしたが、いまや昔のことだ。
いまとなっては、そんな彼らさえ蹴散らしてでもログナー島を取り戻すべきだ、という想いのほうが強かった。
「だとすりゃ、あの船と関係があるのかもな」
シグルドは、空を睨んだ。
空を游ぐ巨大な天使の群れは、さながらこの世の支配者が主催する行進のようであり、偉大なる神の祝福のようであり、それでいて、終末の景色そのもののようだった。
(終末……か。嫌な予感がしやがるぜ)
胸中、ひとりつぶやくと、彼はジンとルニアを一瞥した。
「街の様子が気になる。急ごう」
ふたりがうなずくのを待たずして駆けだしたシグルドは、坂道を下りきり、市街地に至るころには、状況が飲み込めていた。
その際も、ルニアの目と耳の良さが遺憾なく発揮されたのだ。




