第三千百四十話 時が動く(五)
その日、龍府は、朝から異様な空気に包まれていた。
龍府は、“大破壊”以来、臨時的な統治機構として、仮政府を置いていた。仮政府は、ガンディア王家の人間と龍府を元々取り仕切っていた司政官およびガンディアの役人たちによって運営されており、龍府に住むひとびとにとっては、特に問題なく受け入れられていた。
それは、仮政府が龍府市民のために尽くしてきたからでもあるし、権威を振り翳すことがなかったから、というのもあるはずだ。
龍府は、ガンディアの領土ザルワーン最大の都市であり、ガンディアの領有する土地でもあるのだが、同時に、ガンディアの英雄セツナ=カミヤの領地でもあった。
セツナが領伯として、龍府を収めた期間というのはわずか数年ばかりだが、その数年は、龍府市民にとって幸福な期間だったのだろう。セツナの人気というのは、かなりのものがあった。為政者としてなにか特別なことをした、という話は聞かないが、だからこそ、龍府市民に受け入れられている、という話らしかった。
そういう話を聞けば、グレイシアたちも気を遣うものだ。
特に、英雄セツナを神聖視するかのようにしてレオナを教育してきた立場のものからすれば、セツナの人気に泥を塗るような行いだけは絶対にしたくなかった。
そういうこともあり、仮政府を立ち上げてからも、グレイシアは、自分が特別な存在であるという風に振る舞うことはなかった。
そのおかげか、龍府のひとびともグレイシアたちを受け入れてくれたようであり、グレイシアたちとともに仮政府を盛り上げていこうという気運が高まったりもしたのだろう。
“大破壊”以来暗い空気に包まれがちな世界にあって、龍府が幸運に恵まれていたのは、そういうところにもある。
もうひとつ、最大の幸運は、シーラが身を挺して龍府を護り続けてくれていたことだが。
そんな日々ももはや遠い過去のものとなり、仮政府がネア・ガンディアと合流したことは、龍府に大きな変化をもたらしていた。
龍府は、ネア・ガンディアの領有となったのだ。
龍府だけではない。
このザルワーン島の全土が、ネア・ガンディアの支配地となった。
龍府全体の警備と哨戒に当たっていた龍宮衛侍は、天輪宮の警備隊という本来の役職に戻された上で規模を縮小され、ネア・ガンディアの聖軍が龍府全体の防衛に着いた。
聖軍とは、旧ヴァシュタリア軍の生存者からなる人間のみの軍隊であり、ネア・ガンディアが保有する軍隊の中では、人間社会に溶け込みやすいという理由から、各都市の防衛には聖軍が宛がわれているようだった。
ザルワーン島の各都市にも、聖軍が駐屯し、元々存在していた軍隊は、大半がネア・ガンディアに吸収され、残ったものたちも、活動を維持できなくなっていった。
聖軍の将兵というのは、同じ人間でありながら、異様な雰囲気に包まれた連中ばかりであり、通常ひとを感覚だけで判断することのないグレイシアでさえ嫌悪感を抱かざるを得なかった。
別段、なにが悪い、というわけではない。
聖軍の駐屯部隊を指揮する聖将ミズラ=ハーシーは、グレイシアに対して極めて慇懃かつ礼節を弁えた人物であったし、教養もあり、話のわかる男だった。グレイシアの要望も多く聞き入れてくれた上、龍府の統治に関しても、グレイシアの意向を汲んでくれるほどだ。
無論、それにはグレイシアがレオンガンドの母親であり、ガンディア時代においては太后と呼ばれた人間だから、というのもあるのだろうが、それにしても、出来た人間だと想うのだ。
グレイシアは、ミズラ=ハーシーや聖軍将兵と話し合ううちに、彼らがやはりただの人間だということは理解していったものの、それでも違和感を拭いきれなかった。
なにかが、不自然だ。
グレイシアが覚える違和感の正体がわからないまま月日が流れた。
そして、情勢が激変したのは、冬の日のことだった。
その夕刻、天輪宮が突如として騒然とした空気に包まれたのだ。
自室を飛び出し、天輪宮内を駆け回ると、中庭にリュウイ=リバイエンやセイン=アバードらがいて、空を仰いでいた。大騒ぎというよりは、愕然としている、といったほうが近いだろうか。
「どうしたのです……?」
グレイシアは、中庭の彼らに近づこうとして空を仰ぎ、目を見開いた。
眩むような光が、空を満たしていた。
迫り来る夕闇を押し退けるほどに強烈な光の数々。
それはさながら空を游ぐ天使の群れのようであり、グレイシアは、ただただ唖然とした。
その光景には、見覚えがあった。
かつて、ザルワーン島上空を覆い尽くした大船団。
あのとき、あの瞬間も、グレイシアは、茫然とし、自分を見失ったものだ。空を覆う光の船の数々がこれからなにを起こすのか。まさか、奇跡が起きて、自分たちを救ってくれる、などとは思えなかった。神々しい光を放ち、いまにも手を差し伸べてくれそうだというのに、だ。
どういうわけか、絶望感のほうが先に立った。
「これはいったい……」
どういうことなのか、と、だれに問うたところで答えなどでるわけもない。
少なくとも、中庭に集まっていたものたちの中には、だれひとりとして、ネア・ガンディアの動向を知るものはいなかった。
ならば、と、グレイシアは、聖将ミズラ=ハーシーを尋ねようと考えたが、ちょうどそのとき、ミズラ=ハーシーが天輪宮に現れたものだから、彼女は思わずリュウイたちと顔を見合わせた。
「グレイシア様におかれましては、今宵も美しゅうございますな。しかし残念なことに、しばしのお別れを告げねばなりません」
ミズラ=ハーシーは、岩のように頑健そうな巨躯を誇りつつも、涼やかな面差しをした男だった。
「しばしのお別れ……ですか?」
「ご覧の通り、ネア・ガンディアは現在、作戦を展開中なのです。わたくしにもつい先程、招集がかかりましてね」
彼は、空を仰いだ。
視線の先、光り輝く船の群れは、ゆっくりと前進しているように見えた。
「作戦……」
「もちろん、内容はいえませんが……」
「ええ……それは……」
当然のことだろう、と、グレイシアは思いつつも、内心では知りたいという衝動を抑えるのに必死だった。教えてくれと頼んだところで、彼が教えてくれるはずもない。だから我慢することもできたのだが、しかし、ネア・ガンディアがこれほどの戦力を持ってどのような作戦を展開するというのか、そのことについて、不安を覚えずにはいられなかった。
ネア・ガンディアの頂点には、彼女の息子が君臨している。
愛しい我が子が。
しかし、彼が本当に自分の息子なのか、グレイシアにも自信が持てなくなっていた。
レオンガンド・レイ=ガンディアではなく、レオンガンド・レイグナス=ガンディアと名乗り、また獅子神皇とみずからを語る彼の姿は、確かに彼女の息子そのものだ。
だが、様々な証言から、レオンガンドは死んでいる可能性が高く、グレイシアたちの前に現れた彼は、レオンガンドを騙る偽者であるかもしれないのだ。
妻であり妃であるナージュは、そのレオンガンドについていってしまった。
娘であり姫であるレオナは、そのレオンガンドを拒絶した。
妹であるリノンクレアは、レオンガンドの正体を探るべく、ネア・ガンディアに潜り込んだ。
母であるグレイシアは、迷っている。
いまも、答えを出せないまま、迷宮の中を彷徨している。
ネア・ガンディアを受け入れながら、完全に染まることを拒んでいるのもそのためだ。
迷い続けて、ここにいる。
光に包まれて天に昇るミズラ=ハーシーを見送りながら、彼の無事を祈りつつも、その作戦によって犠牲者が出ないことを望むという矛盾もまた、その迷い故なのだろう。




