第三千百三十五話 この手
船は、北を目指す。
夕闇が迫る頃合いに碧樹の丘を飛び立った魔晶船は、夜の空、“竜の庭”を見下ろしながら悠然と飛翔した。
晴れ渡る空には雲ひとつなく、満天の星々がまるでこの世界が安寧と平穏に満ちているものであるかのように欺瞞し、偽装していた。無数に輝く星々は、“大破壊”以前となんら変わりがない。
いや、夜空が透き通り、星の光がくっきりと見えているという時点で大きく変わっているのだが、セツナが感じているのは、そういうことではない。
星空は、星空のままだ。
夜の闇が横たわり、その彼方に無限の宇宙が広がっている。そこに散らばる無数の星々は、おそらく、太古の昔から変わらぬ光を放っているのだ。
セツナの世界の宇宙と同じように。
この天地に起きている出来事など知る由もなく、知らぬ顔で、変わらぬ様子で、輝き続けている。
無論、宇宙のどこかで変化は起きていて、それがこの世界からわからないだけなのだということはわかっているが。
(それにしても……)
夜空は、穏やかだ。
まるで、この世界となんの関わりもないかのように、平然と、日常を続けている。
いまのいままで気にしなかったことがこの期に及んで気になるのは、きっと、胸の奥がざわついているからだ。
セツナはいま、魔晶船の甲板にいた。
天蓋を展開した甲板の頭上に瞬く無数の星々を眺めながら、船が目的地に辿り着くときを待っていたのだ。
目的地は、銀衣の霊帝ラングウィン=シルフェ・ドラースの待つ、霊帝の座。とはいえ、霊帝の座というのは不変のものではなく、常に変動し続けていた。“竜の庭”を拡大するためには、ラングウィン自身が南下しなければならないからだ。
“竜の庭”は、ラングウィンの強大な魔力によって構築される結界そのものといっても過言ではない。常に温暖な気候と活気に溢れた領域は、すべて、偉大なる竜王の力、その影響なのだ。そして、ラングウィンの結界は、ラングウィンを中心とする真円であり、ラングウィンが移動すれば、“竜の庭”もまた、移動するのだ。
ただし、それだけでは“竜の庭”を拡大し、この大陸全土を“竜の庭”にするというラングウィンの計画は達成しえない。
“竜の庭”という結界そのものを拡大しなければならず、ラングウィンは、まず、結界の拡大に力を注いだ。そうして十分過ぎるくらいの領域を確保したのち、ゆっくりと南下を始めたのだ。無論、ただ南下するだけでなく、結界の拡大もし続けている。
その目的とは、この大陸に生きとし生けるものを庇護下に置くことであり、ラングウィンがいかに慈悲深い竜王であるかは、その一事でわかるだろう。
ラムレスもラムレシアもラグナも、同じ竜王とはいえ、ラングウィンと同じような真似をする気配さえなかった。
いずれも、己が欲望のままに生きている、といっても過言ではない。
「む? いま、わしのことを馬鹿にせなんだか?」
「いいや」
「そうか。ならばよいのじゃ」
あっさりと納得すると、ラグナは、セツナの腕の中で丸くなった。
事実、セツナは、ラグナたちを馬鹿にしているわけではなかった。ただの素直な感想に過ぎない。
ラングウィンが分け隔てのない慈悲心の持ち主であるからといって、ラグナやラムレシアよりも上に位置する、ということはないのだ。
立場や考え方の違いだ。
ラグナは、元より自由気ままな存在だったそうだが、そのおかげで、いまはセツナたちの大事な仲間であり、重要な戦力としても役立ってくれている。
ラムレシアは、ラムレスの後継者として相応しく振る舞いつつも、ファリアとの友情、親愛のために力を尽くしてくれている。
それぞれ、異なる方法で現状と向き合い、戦っているのだ。
セツナも、そうだ。
己が欲望のままに生きて、ここにいる。
(それで、いいんだよな)
胸中、自問する。いや、自分に言い聞かせている。
わかりきったことだ。
そうやって今日まで生きてきた。いまさらその生き方を変えることなんてできるわけがない。
この場にいるだれもがそうではないか。
甲板上には、セツナとラグナのほか、ウルクがいて、レムがいて、シーラがいて、エスクとネミア、エリルアルムの姿もあった。ダルクスも一緒だ。レオナは一足先に眠りについており、レイオーンはその側にいることだろう。
ラムレシアは、魔晶船と併走するようにして空を飛んでおり、眷属たちが編隊を組んで付き従っていた。
(これで……)
いいのだ、と、想う。
人生は一度切り。
そしてこれは自分の人生だ。
生きたいように生き、死にたいように死ななければ、嘘だ。
(いや……)
手を、見下ろす。
腕に抱えたラグナの寝顔は穏やかで、見ているだけで心が落ち着くようだったが、自分の手に目を向ければ、そんな心の静寂も乱れざるを得ない。
これまで奪いに奪った命の数は、五桁どころの話ではないのではないか。それこそ、初陣からして殺しすぎた。
それによって、居場所を得た。
敵を殺すことが存在意義であり、それ以外になんの価値もないものだと、想った。
戦場に赴けば、数多の敵が向かってくる。そのすべてを殺し尽くして、屍の山を積み上げ、血の河を生み出した。
命の大切さを知ったときには、なにもかもが手遅れだった。
この手は、血に汚れすぎた。
(死に方は……選べそうもないな)
それは、いい。
とうの昔に覚悟したことなのだ。
どのような死に様になろうとも、待ち受けるのは地獄だ。
そして、その地獄が、実際に体験したものと同じならば、それも悪くはない。
そんな風に想いながらも心がざわつくのは、なぜだろう。
なぜ、こうも心が震えているのだろう。
定まらないのだろう。
(怖いんだ、きっと)
セツナは、内心、苦笑するほかなかった。
(死にたくないんだ)
それもまた、わかりきっていたことだ。
死にたくないから強くなろうとしたのだし、鍛え上げ、積み上げてきたのだ。己という刃を、研ぎ澄ませてきたのだ。
そして、いままさに心が穏やかならざる時を迎えているのは、決戦を目前に控えているからだということを理解したとき、セツナは、顔を上げた。
『見えてきたぞ』
通信器から聞こえてきたマユリ神の声に気づかされるまでもなく、星空と大地の狭間に白銀の巨大竜が長い首をもたげている光景を目の当たりにしていた。
魔晶船からは遙か遠方のはずなのだが、しかし、銀衣の霊帝ラングウィン=シルフェ・ドラースの巨躯は、闇夜の中でもはっきりと見えていた。まるで銀嶺のような巨躯は、ラグナの巨竜態に比べれば小さいが、それでもほかの竜属とは比較するまでもなく巨大だ。
その圧倒的に巨大な体躯は、神秘的な輝きを放っているだけでなく、優しさすら感じ取れるようだった。
「肉眼でもはっきりと見えています」
通信器に返事をして、立ち上がる。そして、腕の中の小飛竜を見下ろせば、ラグナは安穏たる寝顔を浮かべていた。
「ラグナ、起きろ」
「なんじゃ……もう着いたのか」
「ああ、もう着く」
「むう……わしは眠っておってもよいか……」
「んなわけねえだろ、ラングウィン様直々のご指名だよ」
セツナが呆れると、ラグナは仕方がないとばかりに瞼を開いた。宝石のような目で、こちらを見上げてくる、。
「……常々気になっておったのじゃが」
「なんだよ」
「何故、ラングウィンは様をつけて呼ぶのじゃ?」
「そりゃあ、ラングウィン様にそう呼ばせる風格とか威厳があるからだろう?」
「ほほう……つまりおぬしは、わしには風格や威厳がないというのじゃな?」
ラグナが目を細め、睨み付けてくるが、やはり、いったとおりだった。威厳も風格もあったものではない。
「ねえだろ、どこにも」
「なんじゃと!」
「ってぇーな! そういうところだろうが!」
セツナは、腕に噛みついてきたラグナを投げ飛ばしそうになりながら、ラングウィンがこちらを見つめていることに気づいた。
セツナがラグナとふざけ合っている間に、船は、ラングウィンのすぐ近くに辿り着いていたのだ。




