第三百十一話 光について(二)
それから三日。
セツナは未だに目を覚まず、眠り続けている。ドラゴンに受けた痛みだけが原因ではあるまい。
セツナは、ミリュウらとの戦いで疲労しきっていた。本物と偽物、二本の黒き矛を手にし、戦場で暴れ回ったのだ。半端な消耗ではなかったはずだ。たった数日で回復するわけがなかった。それなのに、ドラゴンなどというものが出現し、偵察に出なければならなくなった。
本来ならば、ビューネル砦への攻撃は、中央軍との連携を確認した上で行うものであり、しばらくは体を休めることができたのだ。その予定が、ドラゴンの出現で狂ってしまった。
セツナは体力も精神も回復しきらないまま、ドラゴンと接触し、予定にはない戦闘行動に移る羽目になった。最初ドラゴンと戦ったのは、ドルカ=フォームから預かった兵士たちを無事に逃がすためであったのだろうし、その後本格的な戦闘を開始しようとしたのは、ドラゴンを倒すことができたならそれに越したことはないからに違いない。
結果としてドラゴンを倒すことはおろか、セツナが負傷するという事態になってしまったものの、ドラゴンの脅威がわかったのは大きいのかもしれない。
それにより、西進軍はビューネル砦の突破を諦め、中央軍との合流に方針を切り替えることになったのだから。
中央軍もまた、ヴリディア砦に出現したドラゴンを突破できず、後退していた。それは北進軍も同じであり、彼らも、西進軍同様、中央軍と合流することで、事態を打開しようと試みたようだった。
黒き矛でも倒せなかったという話は、レオンガンドたちに少なからず衝撃を与えたようだ。慎重論が持ち上がるのも無理はなく、将軍や軍団長らが軍議に軍議を重ねるのも当然だった。
ガンディアの最高戦力たる黒き矛のセツナが、ただ敗北したことなど、これまでなかったのだ。いつだって彼と黒き矛は戦線をこじ開け、ガンディアに勝利と栄光をもたらしてきた。バルサー平原から始まるガンディアの栄光の歴史は、セツナの活躍の歴史でもある。
彼はいまやガンディアの隆盛を象徴する存在であり、黒き矛といえば知らぬものはいないほどだという。
それほどの人物が敗けたのだ。衝撃をうけないはずがない。
相手はドラゴン。突如として出現した怪物であり、その巨大さはただただ唖然とするしかなく、人間が太刀打ちできるようなものではない。しかし、それでも、セツナならば、黒き矛ならばなんとかしてくれるのではないか、と期待するのがガンディアの人間というものかもしれない。
それができなかったことで、意気消沈したものも少なくはない。
レオンガンドは、セツナの無事を心から喜び、敗北について言及することはなかったが。
息を吐き、ファリアは集中を切った。オーロラストームを送還する。光りに包まれ、元の世界へと還っていく相棒を見送りながら、彼女は再びため息を吐いた。
どれだけ意識を集中しても、オーロラストームの結晶体はぴくりとも動かなかった。弓から離れることも、剥がれ落ちることもなく、ただ発電し、光を強くするだけだった。
(あのときは、無我夢中だったものね)
セツナを助けたい一心だった。
どのようにしてオーロラストームを操ったのかなど、覚えてもいない。ただただがむしゃらにセツナの元へと向かっただけだ。無意識に召喚武装を使役し、無意識に能力を行使したのだ。
いままでにないオーロラストームの使い方だった。
クルードに致命傷を与えたときのように、本体から離れた結晶体を発電させるという方法で使ったことは何度かある。しかし、結晶体を飛ばし、空中に固定し、足場として利用したことなどなかったし、そのように操れるものだとは考えもしなかったのだ。
長い間愛用してきた召喚武装の隠された能力を発見して、彼女は愕然とする一方、この新たな能力がこれからの戦いの役に立つに違いないという確信もした。《獅子の尾》の戦いにも、アズマリア=アルテマックス討伐という使命にも、大いに役立つだろう。
もっとも、そのためには、自分の意志で自由自在に操れるようにならなければならない。
ファリアは、そのために、時間を見つけては陣地の外へ出て、人知れぬ訓練を行っていたのだ。
だが、無意識で行った物事の感覚を思い出すというのは極めて困難であり、彼女は途方に暮れかけていた。無論、諦めてはいない。しかし、いますぐその能力を自分のものにできるとも考えてはいなかった。
時間をかけて、思い出していくほかない。
もう二度と、彼をあのような目に合わせないようにするには、ファリアが強くなるしかないのだ。隊長補佐である彼女自身が強くなって、隊長であるセツナを援護することこそ、彼に無謀をさせずに済む唯一無二の手段だ。
将来、《獅子の尾》の規模が大きくなるまでは、ファリアが彼を支えるしかない。
ルウファに期待していないわけではないが、ルウファにはルウファの戦いがあるのだ。
(セツナを支えるのはわたし)
そうやって、ここまできた。
いつまでも続くものではない。そんなことはわかりきっている。時は流れ、ひとの関わりも変わっていく。いつまでもセツナの側に居られるとは限らない。いまはいい。いまは、だれも彼女の存在に疑問も持たず、不満も抱いていない。
しかし、いつかはそれも壊れるかもしれない。
ファリア・ベルファリア=アスラリアは、心底、ガンディアに忠誠を誓っているわけではないのだ。彼女の使命は、魔人アズマリア=アルテマックスの討伐であり、それ以外のことは本来ならば余事であり、ガンディア軍に所属する必要などなかったのだ。
アズマリアと関わりがあり、あの魔人が気にかけているセツナの側にいれば、いずれ戦う機会が訪れるだろうと言い聞かせるようにして、彼女はレオンガンドの申し出を受け入れた。
セツナの側に居たいだけだという本心に気づかぬふりをして。
それも、いつまでもごまかせるものではなかった。
(セツナ……)
彼のことを考えると心が痛むのはなぜだろう。
身も心も常に傷だらけで、器用に生きることのできない少年のことを想うだけで、胸が張り裂けそうになる。
初めて逢ったときから、彼は満身創痍だった。いや、それどころではない。初対面のときのセツナは死に瀕しており、ファリアがオーロラストームを使わなければ、彼は間違いなく死んでいただろう。
蘇生のために寿命を削らなければならなかったものの、セツナはそのことについて文句をいってくるようなことはなかった。むしろ、溢れんばかりに感謝してくれていた。
ファリアが困惑するほどに。
彼は、いつだって輝いていた。どんなときでも、光を帯びているのだ。世間知らずの子供としか見えないときでも、主人を前に尻尾を振る子犬に見えるときでも、戦禍の中心で黒き矛を振り回しているときでも、彼は煌めいていた。
ファリアの目には、そう見える。
光だ。
眩しい。
あざやかで、強烈で、破壊的な光。
彼女の価値観はとっくに打ち壊されてしまった。彼との日常こそが、必要不可欠なものになってしまった。彼とのくだらないやりとりが心を癒してくれる。彼の子供染みた部分も嫌いになりきれないし、隊長としての彼は頼りになった。戦場におけるセツナはまさに鬼神のようであり、危なっかしいところさえ愛おしかった。
どういうことなのだろうと、彼女は考える。
いつから、こんな感情を抱くようになったのか。
なぜ、こうまで意識してしまうのか。
それにはあの女の存在が大きく関わっているのかもしれない。
(ミリュウ……)
ミリュウ=リバイエン。ザルワーン魔龍窟の武装召喚師であり、セツナを追い詰めたほどの実力者である美女は、戦後、必要以上にセツナに固執していた。
その姿はまるで恋焦がれる乙女のようだと、ファリアは思った。
だから、かもしれない。
ファリアは、セツナを強く意識するようになっていた。
「らしくないわね」
つぶやいた言葉は、突如吹いた風の中に消えた。
雨音が、激しい。
以前から立ち込めていた暗雲が、ついに猛威を振るいだしたのだろうか。テントや地面を叩く雨水の音は、しかし、静寂を掻き乱すよりもむしろ深めていくようだった。
セツナは黙って考え事をしていたし、ミリュウもまた、口を閉ざしたまま、腕に抱いた子犬を撫でていた。
沈黙が長引いている。
セツナの意識はほとんど覚醒状態に移行しており、判然としなかった記憶も確かなものになっていく。ドラゴンとの戦いの経過もほぼ思い出せた。愚かにも龍に立ち向かい、ドラゴンの変化を目の当たりにして意識が硬直したのだ。その隙を衝かれたというところまでは、瞼の裏に浮かび上がった。次の瞬間、漆黒の闇が眼前を覆い、なにもかもが途絶えている。意識を失ったのだろう。
そして夢を見て、目を覚ました。
手のひらを見下ろす。丁寧に巻かれた包帯には、汗が滲んでいた。全身にのしかかるような疲労があり、時折、鈍い痛みが思い出したように走る。ザルワーン軍との戦闘による疲労が回復しきらないうちに無理をしたからだ。黒き矛の行使による反動が、いまも響いている。
「俺は、敗けたのか」
「ええ。完膚なきまでにね」
ミリュウのそっけない一言に、セツナは、大量の冷水を頭から被ったような感覚を抱いた。網膜の裏に闇が過る。漆黒の闇。無数の紅い眼光。黒き矛の化身。黒きドラゴン。流動する闇を纏う巨躯は、夢に見たそれとまったく同じ姿を形成したのだ。翼を広げ、長い腕が伸びた。
(そうだ)
セツナは、黒き竜の腕が伸びてくるのを目撃したのだ。一瞬の出来事だったが、漆黒の闇が視界を覆う直前、ドラゴンの腕がこちらに向かってくるのを見ている。恐らく、手で掴まれたのだ。そこで意識が途絶えたのは、竜の握力が凄まじかったからなのか、どうか。
「無茶をするのは仕方がないとは思うわ。あの状況で、どうにかしたいって思ったんでしょう? あなたはガンディアの黒き矛だものね。責任や自負があるのよね。でも……」
ミリュウは、胸に抱いていた子犬を足元に戻すと、その姿勢のまま、セツナに近づいてきた。両目に、光が揺れている。淡く、儚く。
(涙?)
「勝手に死んだら許さないから」
抱きしめられたと思ったら、視界が流転した。テントの天井に吊り下げられた魔晶灯の光が、妙に眩しく感じた。目が痛い。いや、痛いのは目だけではない。ミリュウに強く抱き竦められて、全身が悲鳴を発している。その上、寝具に押し倒されたのだ。セツナの呼吸が詰まったのも無理はなかった。
とはいえ、文句のひとつもいえるような状況にはなかった。鼻孔をくすぐる匂いと、彼女の体温、体の震えが、セツナの思考を麻痺させた。
(どうして、あんたが泣くんだよ)
セツナは、素知らぬ顔で発光する魔晶灯を見つめながら、胸中でつぶやいた。
ミリュウが漏らす嗚咽は、雨音に掻き消されることはなかった。