第三百十話 光について(一)
ぽつりと頬に落ちた雨粒が、皮膚を伝って顎から滴り落ちる。
枝葉の傘を潜り抜けたわずかばかりが肌を流れ落ちるたび、ファリアの意識は、より鋭敏に研ぎ澄まされていくかのようだった。
ヴリディア砦南方の森の中。ガンディア軍が築いた野営地は、即席ながらも実戦に耐えうる程度の防御能力を有した小さな砦となっているのだが、彼女はいま、その砦の外にいた。
たったひとり、森の中で佇んでいる。
雨脚が激しさを増す中にあっても、ファリアはほとんど雨に打たれていなかった。無数の木々から伸びた枝葉が互いに干渉し合い、まるで天蓋となって頭上を覆っているからだ。わずかな隙間を縫うことができた雨粒だけが、ファリアの体に触れた。
そして、そのたびに彼女の研ぎ澄まされた意識は、より鋭く、細く、しなやかになっていく。
ファリアはいま、召喚武装を構えていた。翼を広げた怪鳥のような形状をした弓は、彼女によってオーロラストームと名付けられている。一対の翼を構築する無数の結晶体が淡い光を帯び、ファリアが射撃準備に入っていることを周囲に知らせているのだが、回りにはだれもいない。
ただひとりだ。
無論、居場所は伝えてある。勝手な行動を取っているわけではないし、仕事の合間の長い休憩時間を利用しているだけにすぎない。
中央軍との合流以来、王立親衛隊《獅子の尾》隊長補佐として働いてはいた。しかし、謀殺されるほどの量の仕事があるわけでもない。これまでの戦闘経過や結果については既に文章にまとめてあったし、とっくに提出してもいた。そうなると、やることなどほとんどないのが実情だった。
《獅子の尾》の使命は、戦場において猛威を振るうことだ。召喚武装を用い、敵をなぎ倒すことにこそ、その存在理由がある。戦場以外で召喚武装を用いることは少ない。ガンディア軍の野営地の建設に武装召喚師が駆り出されたものの、それだって、適切な召喚武装が使えないのならば手持ち無沙汰にならざるを得ない。
この本陣の建設においては、《白き盾》のウォルド=マスティアが大いに役立っていたようだが。
《獅子の尾》に与えられた宿所で、意識を失ったままのセツナを見守り続けるという選択肢もないではなかった。
ドラゴンとの戦闘で負傷した《獅子の尾》隊長が気を失って三日。ファリアは当初、気が気でなかったものの、命に別条はないということがわかってからは、冷静さを取り戻すことができていた。いつものことだ、と思う気持ちもある。
いつものように無茶をして、いつものように気を失い、いつものように眠り続けている。
あれほど無理をするなといったのに、と考えないではないが、セツナ・ゼノン=カミヤとはそういう少年なのだと諦めざるを得ないのかもしれない。
彼は、全身全霊でいまを生きている。死を恐れてもいないように思えるぐらい、ただただ走り続けている。ただ闇雲に。ただがむしゃらに。一歩でも前に、一瞬でも早く。
ファリアにはその後姿すら眩しく見えるときがあるのだが、それは、彼への憧憬に近い。我が身を省みず、ドラゴンに立ち向かった少年の姿は、間違いなく光を放っていた。
(あのとき……)
オーロラストームの射線と目線のずれを確認しながら、呼吸を整える。目標は、立ち並ぶ木々の間隙、その遥か彼方。召喚武装によって強化された感覚で捉え得る限界ぎりぎりに突っ立つ木立に、ファリアは目標を定めている。影に支配された森の中だ。狙いをつけるだけでも苦労するものなのだが、いまのファリアには問題ですらなかった。
(あのとき、わたしはなにをした?)
頭の中に浮かぶのは、三日前に見た光景だ。
ビューネル砦を飲み込むように出現したドラゴンは、オーロラストームの雷撃を受けて変態してみせた。まるでオーロラストームがドラゴンと化したかのような姿は、彼女の度肝を抜き、雷撃を放つドラゴンに戦慄さえ覚えた。
ファリアは、己の失態によってセツナが窮地に立たされることを恐れた。オーロラストームそのものが相手ならば、黒き矛のセツナの相手にはならないだろう。しかし、ドラゴンはドラゴンだ。オーロラストームとは違う。雷光発生装置たる結晶体に覆われたドラゴンの火力は、オーロラストームの比ではないはずなのだ。
セツナが撤退を命じたのは正しい判断だっただろう。ドラゴンが召喚武装の能力を模倣するというのならば、下手に戦っては被害が大きくなるだけだ。特に、黒き矛の能力が模倣されるようなことがあれば、目も当てられない。
そう思った矢先だった。
セツナは、なにを思ったか、ドラゴンに跳びかかり、カオスブリンガーを叩き込んだのだ。ファリアたちは呆気に取られたが、漆黒の矛が龍の眉間を貫き、ドラゴンが悲鳴を上げたまではよかっただろう。黒き矛がドラゴンにも致命傷を与えられるということがわかったのだ。セツナは恐らく、その勢いに乗ってドラゴンを倒そうとしたのかもしれない。
しかし、現実は逆だった。
ドラゴンは、闇色の流動体に覆われたかと思うと、頭部に、無数の紅い眼が開いた。そして、長い腕が雷光のように伸びて、黒く巨大な手がセツナを包み込んだ。空中に投げ出されていたセツナには、反応すらできなかったのだ。
翼が広がり、足が構築され――漆黒のドラゴンの巨躯が地上に現出するのを目の当たりにしながら、ファリアは、無意識のうちに飛び出していた。
頭の中に浮かび上がる情景に、ファリアは寒気すら覚える。すべて、無意識の行動だった。セツナの窮地を見た瞬間、脊椎反射のように地を蹴り、ドラゴンの元へと向かったのだ。黒き竜の紅い複眼がファリアを射貫いても、彼女は歩みを止めなかった。静止する声はなかった。いや、だれも声を発せるような状況にはなかったのだ。
だから、彼女が動くしかなかったのだともいえる。
オーロラストームを龍の腕に定め、連射。全弾命中。だが、流動体の表面が波打っただけで、セツナを手放しはしなかった。痛撃にはならなかったのだ。
龍の左腕がファリアの頭上に落ちてくる。ファリアは下がらない。むしろ懐に踏み込んで打撃をかわす。龍の拳が地面を砕いたのが音と風圧でわかった。猛烈な一撃。直撃を喰らえばただでは済まない。人体は容易く粉砕されるだろう。
だが、ぞっとする暇もない。
龍の咆哮が響く。ファリアを倒すべき敵と認識したかのようだ。しかし、ファリアは構わず前進する。眼前には、ドラゴンの巨大な足があった。根を張るかのように地面を踏み締めた足もまた、流動する闇そのもののように見えた。腕同様、生半可な攻撃は効かないだろう。
ならば、どうするべきか。
ファリアは、頭上を睨んだ。龍の手は、未だにセツナを包み込んでいる。圧殺するつもりなのだ。猶予はない。考えている暇も、余裕もない。
不意に、オーロラストームの本体から無数の結晶体が飛び散った。数多の結晶体は、電光の糸を引きながらファリアの頭上を目指して飛翔する。結晶体のひとつひとつは小さなものだが、複数個の結晶体が集まれば、足場にもなり得た。ファリアは即座に目の前の結晶体に飛び乗ると、つぎつぎと構築されていく足場に飛び移っていく。ドラゴンの長く太い腕が、唸りを上げながら足元を通過する。一瞬前まで足場にしていた結晶体が粉微塵に破壊されたのを認識したものの、彼女の意識は新たな足場に集中していた。迫り来るのは龍の腕だけではない。長い尾が、暴風を巻き起こすような勢いで大地を薙ぎ払い、結晶体の足場のいくつかを吹き飛ばしていった。だが、ファリアは既に上空の足場へと飛び移っている。
ドラゴンの複眼がファリアを見ていた。嗤っている。なにがおかしいというのかはわからない。だが、そのドラゴンには確実に意志があり、自我が働いているようだった。右腕はもう目前に迫っていた。最後の足場に飛び乗りながら、ファリアはオーロラストームに最大火力を命じた。オーロラストームが壊れてもいい。ファリアの体が耐えられなくてもいい。腕が吹き飛び、半身が失われたとしても構わなかった。
そうなれば、復讐は果たせない。
だが、それでもいい。
セツナを失うよりは、ずっと。
(ずっとマシよ)
ファリアは叫んでいた。なにを叫んだのか、いまになっては思い出せもしないのだが、とにかく、あらん限りの声を発していた。そして、足場を蹴り、ドラゴンの右腕に限りなく近づいた。眩いばかりの光を帯びたオーロラストームの嘴が、漆黒の流動体に突き刺さった。怪鳥が吼えた。オーロラストームの全火力が龍の腕に炸裂した。闇が爆ぜ、荒ぶる極光が彼女の視界を真っ白く塗り潰す。爆音も聞こえなかった。鼓膜が潰れたのかもしれない。
爆風がファリアを襲い、彼女の意識はそこで途絶えた。
気が付くと、目の前にミリュウの泣き顔があって、不思議な気持ちになった。森の闇の中、こちらを覗きこむ女の顔はよく見えた。
「良かった……無事で」
「どうして……?」
どうして、自分のためにミリュウが泣いているのか。
問いかけようとしたが、声が出なかった。苦痛が全身を苛んでいた。あんな無茶をして、無傷で済むはずがなかった。意識を取り戻せただけ僥倖といえる。
「あなたが死んだら、セツナが悲しむでしょ」
ミリュウは涙を拭いながら笑ってきたが、ファリアは、彼女の想いよりも、セツナも無事なのだということに気づき、安堵を覚えた。