第三千百八話 海神マウアウ
セツナたちが海神の領域を訪れたのは、ミヴューラ神のためベノア島を尋ねたついでだった。
当初の予定では、しばらく魔晶城に滞在し、魔晶船に戦力となる魔晶兵器を積み込んでからつぎの行動に移るつもりだったのだが、フェイルリングの正体を知ったセツナが驚きのあまりベノア島へ大急ぎで旅立ったため、予定を変更することになったのだ。
とはいえ、元々、マウアウ神との交渉に臨むことは予定していたことであるため、順番が入れ替わっただけのことに過ぎない。
それに、魔晶城で魔晶兵器の整備が完了するまでただ待ち続けるよりは、その時間を別のことに費やすほうが合理的かつ効率的だと考えることもできる。
そういう意味では、あのとき魔晶城を飛び出したのは正解なのではないか。
「ものは言い様だな」
マユリ神の呆れ果てたような一言に憮然としながらも、セツナは、そのように考えることにした。
そして、魔晶船を琥珀海の海上すれすれの高度に落とすと、甲板に出た。
すると、海面が大きく隆起するようにして、海神マウアウがその異形の姿を白日の下に曝した。美しい人間の女性そのもののような上半身と、巨大な海洋生物の集合体ともいうべき異形の下半身を持つ女神は、魔晶船を触手で包囲したものの、甲板上のセツナを発見すると、目を細めた。
「だれかと思えば、セツナではないか」
無数の触手による包囲を解いた女神だったが、触手をひとつ、セツナに向けて伸ばしてきた。セツナの目の前にまで至った触手を目の当たりにして、セツナは、マウアウ神がなにを考えているのかを察した。セツナがラグナをウルクに預けてその触手に近寄れば、触手はセツナの体に絡みつき、一気にマウアウ神の元へと引き寄せられた。
女神の上半身は、相変わらず眩むように美しく、艶めいている。醜悪な怪物にしか見えない下半身とは異なり、上半身は、一目見た人間を一瞬にして虜にしてしまうような魅力があった。しかし、セツナ自身、最初に逢ったときには、魅了されそうになった記憶がある。
「ナリアとの戦い以来よな」
「はい。マウアウ様におかれましては、御無事でなによりです」
「それは我が言よ、セツナ」
腹に絡みついた触手が、セツナをさらにマウアウ神に近づける。すると、マウアウ神が両手でもってセツナの顔を包み込むようにした。冷ややかな手の感触は、ついさっきまで海中にいたからなのか、それとも、女神の体温が元々低いのか。いずれにせよ、不思議な感覚だった。
女神は、柔らかに微笑んでいる。
「そなたが今日も生きていることは、喜ばしいことぞ」
「まさか、そのようにいって戴けるとは」
「ふふ……そなたは、魔王の杖の護持者なれど、神である我と話し合うことを選択した。それは実に賢しく、実に善きこと。そう想わぬか?」
「その通りかと」
セツナは、内心どきどきしながら、マウアウ神に撫でられていた。マウアウ神がそこまでセツナに好感を持ってくれているという事実に驚きながら、その表現方法にも、驚かざるを得ない。同時に、ここにミリュウやレムがいなくてよかった、と、心底思うのだ。
彼女たちは、たとえ相手が女神であったとしても、怒り狂うに違いない。
女神は、セツナを撫でていた手を止めると、改めて、こちらを見た。金色に輝く両目が、まっすぐにセツナを見つめてくる。
「さて、セツナよ。そなたがなんの目的もなく我が神域を訪れる理由はないな」
「はい。このたびは、マウアウ様にお願いがあって、参りました」
「願い、とな?」
「はい。マウアウ様におかれましては、我々に是非ともご協力願いたく」
「ふむ……詳しく聞かせてもらおう」
そういうと、マウアウ神は、いくつもの触手をセツナの足下に展開し、セツナのための足場を作り出した。さすがに触手で縛り上げたような状態でする話ではない、と、判断したのだろう。
セツナは、触手の足場に足を乗せると、腹に巻き付いていた触手が名残惜しそうに離れていくのを見届け、それから、女神に向き直った。
セツナは、マウアウ神にネア・ガンディアと獅子神皇に関する事情を説明をした。
マウアウ神は、じっと、身動ぎひとつせず、セツナの話に耳を傾けていたが、セツナが説明を終えると、鷹揚に頷いた。
「つまり、そなたは我に戦列に加われ、というのだな?」
「加わって頂けるというのであれば、それが最善です。ネア・ガンディアを打倒するための戦力は、いくらあっても足りないのですから」
「勝てる見込みはあるのか」
「あろうがなかろうが、戦い、打ち勝つ以外に道はありません」
「負けるかもしれなくとも、か」
「はい」
セツナは、女神の目をまっすぐに見つめながら、馬鹿正直に告げた。
獅子神皇の力は、未知数だ。が、少なくとも、この世界を容易く破壊するだけの力を持っていることは明らかであり、それほどの力を持つものとの戦いとなれば、過剰なまでの戦力をもって臨むべきだ、と、考えていた。それだけの戦力をもって臨んでも、確実に勝てるとは言い切れない。
なにせ、敵は獅子神皇だけではないのだ。
ネア・ガンディアに属する数多の神々がそのまま敵に回る。
膨大な数の神人、神獣、神鳥、神魔を含むネア・ガンディアの大軍勢を相手にしなければならない。もちろん、すべての敵を斃す必要はないが、敵がこちらの意を汲んでくれるわけもない。敵はすべて、全力で敵対者を滅ぼすべく動くだろう。
どうしたところで大戦争となる。
精鋭で獅子神皇だけを討つ、という手は使えないのだ。
「もちろん、負けるつもりはありませんし、必ずや勝利を掴み取るつもりですが」
「かのナリアを討ち斃したそなたのことだ。獅子神皇なるものも、討ち果たしてくれような」
「はい」
「ならば、我が力を貸すのもやぶさかではない」
艶やかなる海神は、視線をセツナから周囲の大海原へと向けた。琥珀の柱が乱立する海域は、海神マウアウの神域であり、そこにはただひたすらに穏やかな海流があった。
「我は、この世界の海が気に入っている。最善は、元の海に還ることだが……それがかなわぬのであれば、この海をたゆたい続けよう。故に、この海の平穏と安寧を破らんとするものには、相応の態度で臨まねばならぬ」
そうして、セツナたちは、マウアウ神と協力関係を結ぶことに成功した。
マウアウ神は見返りを求めなかったが、それは、先のミヴューラ神も同じことだ。
このイルス・ヴァレの平穏を乱す大敵を討つ。それが最大の見返りであり、報酬といっても過言ではないのだろう。
マウアウ神にとっても、ミヴューラ神にとっても、獅子神皇の存在ほど厄介なものはないのだ。
それを討つための勢力に参加することそのものは、神々にとっては大きな問題ではないのかもしれない。
マウアウ神との交渉を終えると、海神は、サグマウが現在、統一ザイオン帝国に赴いていることを話してくれた。
元々帝国の将軍だったサグマウにとって、帝国の情勢は気になることなのだろう。たびたび、帝国の状況を確認するために琥珀海より遙か遠い南ザイオン大陸に赴き、ときには帝国のために尽力しているのだという。
「まったく、我が使徒ながら身勝手なものよな」
そうぼやくマウアウ神だったが、サグマウを処罰していないところを見ると、サグマウのそういう部分も気に入っているようだった。
また、サグマウを通じて、帝国にも話を通してくれる、とのことであり、セツナは、マウアウ神に心より感謝した。




