第三十話 聲が聞こえる
聲が聞こえる。
忘れがたくも懐かしい少年の声が、聞こえる。
叫んでいる。
彼の魂が。
「クオン様!」
「――!」
瞼を開けるなり、彼の視界に飛び込んできたのは、マナ=エリクシアの心配そうな表情であり、そのいつも穏やかさを湛えた美しい瞳に涙すら浮かんでいることに、クオンは驚きを禁じえなかった。
呼吸さえも忘れる。
自分の身の置かれている状況が理解できなかった。その上、いまのいままでなにをしていたのかすら判然としないのだ。現状を把握するために体を動かそうにも、力が入らなかった。
熱に浮かされたような、そんな感覚だけがある。
「マナ……どうしたんだい?」
クオンは、静かに尋ねながら、右手を伸ばし、指先で彼女の涙を拭った。彼女の泣き顔も絵にはなるのだが、それ以上に、笑顔のマナのほうが素敵だと彼は思っていた。実際、その通りに違いない。文句を言うようなものもいないだろう。
「良かった……! 気がつかれたのですね……!」
マナの表情が一瞬にして笑顔に変わるのを認めて、クオンは、微笑を浮かべた。やはり、ひとの笑顔というものは素晴らしいものだと再認識する。見つめているだけで、活力や希望が湧いてくるのだ。
「うん。どうやら気を失っていたみたいだね」
マナの言葉から察するに、そういうことなのだろう。気絶した理由は思い出せないし、その前後のこともまったく記憶になかった。そもそも、自分が何故、こんなところにいるのかも皆目見当がつかない。
微風がクオンの頬を撫で、こちらを見下ろすマナの髪をわずかに揺らした。家屋の中ではないことは確かだった。空気の匂いそのものが違う。
「はい。突然のことだったので、わたくしも皆さんも、大変だったんですよ?」
マナの返答に、クオンは苦笑を隠さなかった。その光景が脳裏に浮かんだのだ。彼らにとっては所属する傭兵団の団長であるクオンが、突然倒れてしまったのだから、慌てふためくのも無理はない。とはいえ、その場にスウィール=エルガウディでもいれば、話は別だったのだろうが。
そこで、ふと、クオンの頭の中に疑問が過ぎった。
「あれ?」
「どうされました?」
「スウィールさんってお留守番だっけ?」
クオンの脳裏に浮かび上がったのは、いかにも質実剛健といった老人の風貌である。スウィール=ラナガウディ。クオンが率いる《白き盾》の実質的なナンバー2であり、《白き盾》が軽快になんの憂いもなく行動できるのは、すべてスウィールの力があったればこそ。
とはいえ、前線に出て戦うような血気盛んな老人ではないし、そもそも剣を握ったことすらないような人物である。《白き盾》の結成当初こそクオンの傍にいたものだが、ここ最近は拠点に篭もることが多くなっていた。
「じーさん、今回は遠慮するって言ってたじゃないですか。忘れたんですか?」
ぶっきらぼうに口を挟んできたのは、ウォルド=マスティアだった。クオンからは見えないが、近くにいることは間違いない。透かさず続けてくる。
「それと、いつまで俺の指定席で寝てるんです? さっさと退かないと、俺のブラックファントムが火を噴きますぜ?」
彼の言うブラックファントムとは、彼の愛用する召喚武装なのだが、現状、すぐさま振り回せるような状態なのだろうか。だとすればそれは、現在なにかしらの戦闘中か、あるいは戦闘が終わった直後だと示していることに他ならない。
召喚武装が武器である以上、主な使用目的は戦闘に限られてくるからだ。それに武装召喚師は、基本的に、戦闘や特定の状況以外での武装召喚を好まない。大陸召喚師協会の規約にもあるが、それ以前の道徳的な問題なのかもしれない。
暗黙の了解とも言うだろう。無論、例外はあるし、武装召喚術を行使することを己の存在意義とするものには、この一般的な論理は通用しない。
少なくとも、ウォルド=マスティアは、戦場以外においては一般的な感性の持ち主であり、むやみやたらに己の力を誇示するような男でもない。よって、ここは戦場だと結論付けるのが打倒だろう。そして、空気の軽さが、戦っている最中ではないことを知らしめていた。
と、その軽妙な空気の中に、不穏な気配が混じる。
「どこがあなたの指定席なのか、一から説明してくださらないかしら? さもないと、わたくしのスターダストが火を噴きますよ?」
マナが、笑顔のままわなわなと拳を震わせる様は、さすがのクオンでも笑い飛ばせるようなものではなった。もちろん、本気でないことなどわかりきっている。彼女たちが、ちょっとした喧嘩ぐらいで召喚武装を用いるような常識知らずでないことは、この数ヶ月の付き合いでよくわかっていた。
規格外の実力者であることも。
「い、いや、ただの冗談だ、冗談。本気にすんなよ……」
「うふふ。こちらも冗談ですよ。冗談」
「全然冗談に聞こえねえ……おまえもそう思うだろ?」
「どっちでもいい。クオンが無事なら」
ウォルドが話を振ったのは、イリスのようだった。彼女のいつも通りの受け答えから、クオンの脳裏には記憶に刻まれたイリスの仏頂面が投影された。すべての感情を失ってしまったような少女の表情は、いつもクオンの胸を締め付けた。邂逅のあの日から、根本的にはなにも変わっていないことなど、だれの目にも明らかなのだ。
だからこそ、クオンは、常に彼女を身辺に置いた。それは彼女の実力からすれば当然の判断であり、だれも反論する余地のない選択なのだが。
「愛想ねえなあ、相変わらず」
「愛想のひとつやふたつでクオンを護れるのなら努力するが?」
「……」
ぐうの音も出ないといったウォルドの様子に、クオンは、おかしさを堪えきれなくなっていた。自然、笑みがこぼれる。
「ふふふ。まったく、面白いなあ、みんな」
クオンは、ゆっくりと上体を起こした。こちらを覗きこんでいたマナと頭をぶつけないように注意を払い、そして、起き上がると周囲の状況を確認するために視線を巡らせた。
どうやら、森の中にでもいるらしい。鬱蒼たる緑に包囲されてはいるが、頭上には、突き抜けるような青空が広がっていた。太陽は眩しく、風は穏やかだ。とても戦場といった感じはないが、地上に目を向ければ、すぐにそれが勘違いであることを知る。
森の中の少し開けた空間には、無数の皇魔の屍骸が転がっていた。すべて、青い皮に覆われた四足獣型皇魔――ブリークの死体だった。そのほとんどが、強烈な一撃によって絶命しており、マナたちの実力の一端が垣間見れるだろう。
化け物の亡骸が発するなんとも言いようのない死臭が、ようやく、クオンの意識を揺さぶった。さっきまで臭いもしなかったのは、きっと、マナの膝枕が心地よかったせいに違いない。
「そうだったね」
クオンは、その一言で、仲間たちの視線が自分に集まったことを認めた。
「皇魔の巣を探していたんだ」
その途中で、ブリークの群れと遭遇し、戦闘になったのだ。ブリークなど敵ではないし、クオンが武装召喚術を使うまでもなかった。それは油断でも慢心でもなく、余裕と呼ぶようなものでもない。作業というほうが近いのかもしれない。
とにかく、クオンは、仲間たちが皇魔を殺戮するのを、ただ座して待っていればよかったのだ。それだけが、その戦いにおけるクオンの役目だといえた。声援を送る必要すらない。それは、彼らへの侮辱なのだから。
信じ、結果を待てばよかったのだ。
そして、彼らは予定通りに皇魔を殲滅した。
だが、そのときクオンの意識は、まったく別のものを捉えてしまっていた。
(聲が聞こえたんだよ……)
クオンは、仲間たちの真摯なまなざしの中心で、みずからの胸に手を当てた。鼓動の高鳴りを感じる。予想だにしなかった事態に、興奮すらしているのかもしれない。
(君の聲が)
クオンは、ただ、空を仰いだ。
「セツナ……」