第三百八話 守護龍(五)
「なんなのよ、あれ」
「ぼーっとしてないっ、言われた通りに退くのよ!」
ミリュウが、呆然とするファリアを引っ張り、駆け出したのは、彼女の命綱を握るのがファリアだからだろうが。
ふたりを囲んでいた兵士たちも、ミリュウとファリアに続いて後退していったようだ。ドラゴンの射程距離、範囲ともに不明だが、ともかく、安全圏と思われるところまで全力で走るよりほかない。とはいえ、ドラゴンの視線はセツナに注がれている。オーロラストームよりも、カオスブリンガーに興味があるとでもいうのかもしれない。
(みんなが逃げるまで動けない、か)
セツナは、ドラゴンに向かって矛を構え直すと、ドラゴンの全身を覆う結晶体が燐光を帯び始めたことに気づいた。淡い光は、オーロラストームが雷撃を発射する前に見せるものと似ていた。
オーロラストームの翼を形成する結晶体は、いわば発電機のような役割を持っており、同時に発電させる数によって威力や精度を操作しているという。
(まるでミリュウの鏡みたいな……)
セツナは、ミリュウの召喚武装が生み出した黒き矛の複製を思い出した。もし、龍の全身を覆う結晶体がオーロラストームを模倣したものだとして、すべての結晶体が発電したとすれば、その威力は比較にならないだろうことは想像に難くない。
「セツナ! あれは危険だわ! あなたもさっさと退くのよ!」
「わかってる!」
なにかに感づいたかのようなミリュウの悲壮感に満ちた声に叫び返したものの、即座に反転するわけにもいかなかった。いま動けば、つぎのドラゴンの攻撃に味方を巻き込む可能性が高い。龍の首に生じた燐光は、大気に電光を走らせながら龍の口へと集まっていく。
オーロラストームと同じだ。
結晶体が生み出した電力を雷撃として吐き出すつもりなのだ。つまり、ドラゴンはオーロラストームの特性を取り込んだということに他ならないのではないか。
「まじかよ……!」
ドラゴンの巨大な口腔に雷光が集中していく様を見やりながら、セツナは吐き捨てるようにいった。ドラゴンの注意がセツナだけに向いているのは好都合ではあるが、まともにやりあうべき相手ではないということはたやすく想像できる。
頭部は地上五メートル程度の高さに浮いており、ただセツナだけを見下ろしている。偵察部隊の大半の兵士が戦場からの離脱に成功したのが、感覚でわかる。ファリアとミリュウも、セツナの感覚の外だ。これ以上、注意を引きつける必要はない。
だが、力の充填が完了したドラゴンが、セツナをみすみす見逃してくれるだろうか。
セツナは、柄を握る手に力を込めると、まっすぐに飛び出した。龍の射抜くような眼力を感じながら、矛を振りかぶる。跳ぶ。一足飛びに地上五メートル強の高度へと到達する。龍の顔が目の前にあった。人間くらい簡単に丸呑みできるだろう巨大な口の中には、眩いばかりの雷光が充満していた。吐き出される。雷光の奔流が視界を埋め尽くす。純白。音は聞こえなかった。聴覚が認識を拒絶したのかもしれない。
セツナは、絶叫とともに矛を振り下ろしている。が、やはり自分の声も聞こえなかった。純白の洪水の中で、カオスブリンガーの軌跡だけが黒き異物として存在する。雷光が真っ二つに割れた。両肩両腕両足が焼けるように熱い。電熱が駆け抜けていく。だが、致命傷は避けられた。視界が開け、ドラゴンの口内が覗く。ぎっしりと並んだ牙も、結晶体のように美しく輝いている。再び発電を始めたのを見た瞬間、セツナは切っ先を口内に向けた。吼える。
「喰らえ!」
今度は、頭の中に響いた。
黒き矛の穂先が赤く膨張したかに思われた直後、切っ先から紅蓮の炎が噴き出した。爆発的に膨れ上がる炎は塊となってドラゴンの口の中へと飛び込んでいく。ドラゴンが口を閉ざしたのは、炎のほとんどが喉の奥へと飲み込まれていった後だった。
「いくら外面が硬くても、内臓までは硬くねえだろ!」
セツナは会心の笑みを浮かべながら着地すると、ドラゴンが目を見開くのを見届けた。黒き矛ですら鉄のように硬いと感じるような外殻に覆われている相手には、内部から攻撃するのが一番だろうという判断は正しかったらしい。ドラゴンが天を仰いで口を開いた。怒号のような咆哮とともに、爆炎が立ち上る。
まるで炎の息を吐いているかのような光景だったが、そうではない。黒き矛に残留していた全火力がドラゴンの気管辺りで炸裂したのだろう。龍が怒り狂ったように騒ぎ立てるのを尻目に、セツナは背を向けた。
幾分軽くなったような気がする黒き矛を肩に担ぎ、全速力でその場を離れる。金切り声のような叫びが頭上から降ってくる。物凄まじい怒気と殺気に、セツナの全感覚がびりびりと震えた。黒き矛を手にしたことによる超感覚が、いつも以上に鋭敏にドラゴンの意志を感じ取っている。殺意だ。セツナだけに注がれる熱狂的な殺意。
脱兎の如く駆け出したセツナは、後方からの熱烈な殺気に辟易した。雄叫びが轟き、大地が揺れる。雷鳴が耳をつんざき、閃光が視界を焼いた。まるでドラゴンが自然災害さえ引き起こしているかのようだと思ったが、実際その通りなのだから笑うに笑えない。
猛烈な圧力に振り向くと、ドラゴンが顔面から火を吹き出しながら迫ってきていた。黒き矛の炎もそれなりに効果はあったようだが、致命的な打撃とはならなかったようだ。ドラゴンの怒りを買っただけかもしれない。
地面を抉り、土砂を吹き飛ばしながら突進してくる巨大な頭部に冷や汗を流しながら、セツナは左へ跳んだ。前方には森林地帯が広がっている。木陰に隠れさえできれば、ドラゴンの追跡を避けられるかもしれない。
戦い、打ちのめすという選択肢は、いまのところ存在しない。
カオスブリンガーの一撃で倒せる相手ではないのだ。顎を軽く砕いたに過ぎないし、そんな程度ではドラゴンは痛みさえ感じていないようだった。しかも、炎で内臓を焼かれても問題なく行動するような化け物だ。外皮を砕かれたところで、蚊に刺されたようなものなのかもしれない。
そもそも、人間やその他の生物と同様に考えてはいけないのだろう。
どうにかしよう、などとは思わないことだ。
少なくともいまは本陣に戻ることを優先するべきだ。命じられたのは偵察任務であり、ドラゴンの撃破ではない。
(倒せるか?)
という疑問もある。
龍の顎を砕いた一撃は、全身全霊を込めたものだった。ドラゴンの軌道を逸らすためだけではなく、できれば頭部を破壊したかった。前言と矛盾するが、ドラゴンを無力化できればそれに越したことはないのだ。だから、全力を叩き込んだつもりだった。
(効いちゃいなかった)
突進の軌道を逸らすことこそできたものの、ドラゴンに痛撃を与えることはできなかった。さらにいえば、オーロラストームの雷撃でさえ致命的なものにはなりえず、表皮を破壊するにも至らなかった。それだけではない。オーロラストームに似た姿に変身したドラゴンは、オーロラストームそのもののように発電し、雷撃を放ってきたのだ。
まともに戦える相手ではない。
背後から猛然と迫ってくるドラゴンの殺意に満ちたうなりは、まるで地響きのようだったが、彼は足を止めなかった。前方、閃光が生じる。セツナは咄嗟にその場に屈むと、極大の雷光が頭上を通過するのを待ってから再び駈け出した。着弾。爆音が響き、ドラゴンが咆哮する。大気が震えた。衝撃波がセツナの背中を叩く。
「くっ!」
セツナは、痛みに顔をしかめながら、それでも前進を諦めなかった。遥か前方にファリアとミリュウの姿が見えている。セツナのことが気になったのか、戦闘領域に戻ってきたらしい。オーロラストームを構えたファリアの姿は勇壮そのものだったが、いまはとにかく後ろに下がって欲しいと叫びたかった。さきの雷撃を受けても、ドラゴンの勢いは止まってはいない。むしろ怒り狂い、より悪化しているといってもいい。
(逃げなきゃ)
本陣に戻り、態勢を立て直すのだ。ドラゴンをどうするのか、判断をするのはセツナではない。戦うのか、やり過ごすのか、それを決めるのは西進軍総大将たる右眼将軍アスタル=ラナディースそのひとである。セツナは《獅子の尾》隊長として、彼女の命令に従えばいい。それが最善であり、それ以外の道はないといっていい。
ファリアがオーロラストームの嘴に集まった雷光を解き放つ。空間が歪むほどに強烈な閃光が視界を焼く。セツナは瞬時に地面に転がり、雷光の射線から逃れると、着弾の成否を待たずして駈け出している。爆音がドラゴンの叫び声に掻き消された。直撃したのは間違いない。が、ファリアの表情を見る限り、成果は期待できないようだ。
ファリアが、ミリュウに引っ張られるようにして後退を再開する。ミリュウにしても命がけでファリアのわがままに付き合ったのだろうが。
(逃げる……!)
地面を蹴り、跳ぶように駆ける。ドラゴンの攻撃範囲の外へ。戦闘領域外へ、一瞬でも早く、一歩でも遠く。疑問が生じた。
(本当に?)
地面を踏みしめる。爪先が土をえぐった。咆哮が耳朶を叩き、左肩に電流が走る。軽い雷撃。
(本当にそれでいいのか?)
前方、ファリアとミリュウがこちらを振り返った。必死なまなざしは、ドラゴンの持つ脅威的な力を目の当たりにしたからこそのものだ。セツナですら危ぶまれるほどの力。存在そのものが規格外なのだから、当然といえば当然なのだが。
(負けっぱなしじゃないか)
歯噛みしたセツナの脳裏を過ったのは、ミリュウとの戦いの情景だった。もう一振りの黒き矛。一方的な攻勢。死の間際まで追い詰められた事実が、彼の両手両足に力をみなぎらせる。
(強くなるんじゃないのかよ)
胸中で吐き捨てた瞬間、セツナは反転していた。ドラゴンの顔面が視界を埋め尽くす。結晶体に覆われた龍の頭部は雷光を帯び、いまにも爆発しそうに見えた。
(もう、負けないんだろ)
セツナは、矛を構えると、ドラゴンを睨んだ。龍の双眸に殺気が瞬く。距離は、一瞬にして埋まった。
「セツナ!」
悲鳴のような叫び声は、だれのものだったのか。
(俺は……!)
セツナは、矛を振りかぶると、目の前の地面に思い切り叩きつけた。強烈な打撃に地面が抉れ、舞い上がった土砂が莫大な量の雷光に飲み込まれる瞬間を、セツナは上空から見届けている。反動とともに飛び上がったのだ。
直後には、ドラゴンの頭部を見下ろしている。初めて制空権を取ったのだが、そんなことで悦に入っている余裕はない。落下は既に始まっている。鼻先を越えたころ、龍の眼光がセツナを捉えた。怒号のようなうなりが聞こえる。
「おせえっ!」
旋回させた矛の切っ先を下に向け、狙いを定める。燐光を帯びた結晶体群の間、龍の眉間に、落下速度と全体重を乗せた一撃を叩き込む。
セツナは、抜群の手応えに会心の笑みを浮かべた。黒き矛の切っ先がドラゴンの眉間を割り、頭蓋をも突き破る。脳髄へと達しようとした瞬間、龍が悲鳴を発しながら首を激しく振り回し、黒き矛をセツナもろとも吹き飛ばした。
上空に投げ出されたセツナは、ドラゴンと対等に戦えるという確信に満足はできなかった。油断はできない。余裕などあるはずもない。そして、龍の割れた眉間から光が噴き出した。
黒き矛が刻み付けた傷口から噴出したのは、発電の燐光とは異なる暗い光だ。血液でもなければ体液でもない。ましてや脳漿などでもなかった。昏い輝き。忌まわしく、恐ろしい光。
ドラゴンがこの世の生物ではないからかもしれない、などとはとても思えなかった。セツナの全身に緊張が走る。しかし、対応はできない。中空。身動きが取れるはずもなかった。
ドラゴンの全身を覆っていた無数の結晶体が剥がれ落ち、その剥き出しの表皮を覆ったのは漆黒。流動する闇そのものであり、それは首や頭部だけでなく、顔面をも覆い尽くしていった。あっという間だった。セツナはまだ落下してもいない。ドラゴンに投げ出され、滞空している間にその変化は起きてしまった。
セツナははっとした。見覚えのあるものが、目の前に顕現したという事実に、悪い予感しか生まれない。そして、その予感は現実のものになる。顔面に無数の紅い亀裂が走ったかと思うと、いくつもの眼が開き、セツナを見据えたのだ。
それは、セツナが夢に見るドラゴンそのものだった。