第三百七話 守護龍(四)
「あなた、ザルワーンの人間なら、あれについてなにか知らないわけ?」
「知らないわよ、あんなの」
「隠し事をしてもためにならないわよ」
ファリアが彼女の耳元で囁くように告げると、ミリュウは鼻で笑った。
「あたしを脅す気? それこそ意味が無いわよ。あたしにはもう失うものなんてなにもないの。なにも怖くないのよ」
「だったら、ビューネル砦について知っていることを全部話して頂戴」
「なにが「だったら」なのかは知らないけど、まあ、いいわ。ああなった以上、あなたたちに利することなんてなにもないものね」
ミリュウの嘆息を聞きながら、セツナは、偵察部隊の兵士たちがそれぞれに行動を開始するのを見ていた。ドルカから借りた兵士たちのほとんどが屈強な戦闘要員であったが、一部は偵察能力の優れた人材であり、彼らは上からの指示通り、ビューネル砦の現状についての情報をまとめ始めているようだった。
といっても、わかったのは、ビューネル砦が消し飛び、その跡地の地中から漆黒のドラゴンが首を出しているというだけだ。無論、ビューネル砦が完全に消滅したというのは、近づかない限りわからなかったことではあるが。
ほかの兵士たちは、いつドラゴンに動きがあってもいいように布陣しており、セツナが命じれば一斉に動き出すだろう。もちろん、攻撃命令を出すつもりはない。正体不明のドラゴンを相手にわけもわからず攻撃するなど、愚の骨頂だろう。手に入れた情報を本陣に持ち帰ることが重要なのだ。
ドラゴンは、セツナたちの前方五百メートル辺りの位置に聳えている。接近しすぎている嫌いもあるが、かといって離れすぎては得られる情報も少ないかもしれない。とはいっても、これだけ近づいて確認できたことなどなにもないのだが。
「ビューネル砦。御存知の通り、ザルワーンの最終防衛線、五方防護陣の一角を成す砦よ。守備についていたのは第三龍牙軍で、天将はイェン=ラビエルとかいう男だったわ。彼の部下は千人はいたけれど、そのうち五百人はあたしたちの部下になり、あなたたちと戦ったわ。何人生き残ったのかしらね」
ミリュウの冷ややかな一言に、セツナはあの戦場を思い出しかけた。頭を振る。いまは目の前のドラゴンに集中するべきだ。
「もしかしたら、ビューネル砦に残っているよりはましだったのかもしれないわね」
「そうね」
「どうだか」
ミリュウがいったのはビューネル砦に残っていれば、光の柱に飲み込まれ消滅するさだめだったということだろうが、そもそも、ビューネル砦に人員が残っていたのかどうかはわからないのだ。それは、セツナや中央軍と戦い、殺されるよりもましな運命だといえるのだろうか。
「セツナ様! 龍に動きが!」
兵士の声に顔をあげると、龍の長い首を覆う漆黒の鱗に光が走っていた。光は地の底に埋まっている部分から頭部へ向かって登っていくようであり、セツナが見ている間にも輝きを増していく。異様な光だった。見ているものの不安感を煽るような、冷たい光。
「なんだ?」
「ね? 十年間地下に籠もってたあたしの情報なんてあてにならないのよ」
「なにが、ね、なのよ。それどころじゃないでしょ!」
ふたりのやり取りを聞き流しながら、セツナは、龍の双眸が異様に大きく開かれているのを見た。光を発する瞳が、偵察部隊を睨み据えているのがわかる。圧力がある。敵意だ。そのときには、セツナは叫んでいる。
「武装召喚!」
周囲の人間が驚くのもお構いなしに地を蹴り、前方に向かって駆け出しながら全身が発光する感覚に身震いする。爆発的な光は呪文を紡ぎ、術式となり、異世界の門を開く。そんな錯覚とともに、猛烈な光がセツナの右手のうちに収斂する。光の中から出現するのは漆黒の矛。カオスブリンガー。手にした瞬間、セツナは凄まじいまでの五感の冴えを認識した。
「セツナ!」
「部隊を纏めて後退しろ!」
ファリアに叫び返したとき、セツナは龍の咆哮を聞いた。聴覚を麻痺させるほどの大音声にほかの感覚までも狂ってしまう。ふらつき、前のめりにこけかけるが、なんとか持ち直してドラゴンを仰ぐ。凶悪な龍の顔は、頭上にあった。頭だけで十メートル以上はありそうな巨大さには、セツナも唖然とする。
「避けて!」
ミリュウの叫び声に我に返ったセツナは、ドラゴンの顔面が猛然と突っ込んできていることをようやく認識した。あまりの巨大さに距離感が掴めなかったのだ。ドラゴンの勢いに轟然と大気がうなりを上げる。
セツナは、舌打ちした。
「っ!」
ドラゴンの頭部は、既に眼前に迫ってきていた。避けきれない。咄嗟に黒き矛を振り上げる。轟音とともに火花が散った。鉄の塊を殴りつけたような手応えが衝撃となって両手に走る。腕が痺れた。だが、ドラゴンの頭の軌道を捻じ曲げることには成功したようだった。
ドラゴンが喚きながら、左にそれていく。
「あのドラゴンの巨体をいとも簡単に……」
「さすがセツナ様だ!」
「いえ、まだよ」
ファリアの冷徹な言葉が兵士たちの歓声を妨げる。
セツナもファリアの判断に胸中で同意しながら、ドラゴンの頭部が持ち上がっていくのを見ていた。地面に激突することもない。
(矛の一撃を食らっても問題ないか……さすがは化け物だな)
セツナは悪態をつきながら、両手の痺れが気になった。ドラゴンの顎を殴りつけた反動は、すぐにはなくならない。戦闘に支障が出ると見て間違いないだろう。が、元よりこのドラゴンを倒すつもりで攻撃したわけではない。ドラゴンが動いたから反応しただけのことだ。
鎌首をもたげるようにしたドラゴンは、セツナを敵と認識したようだ。こちらを捕捉した目が爛々と輝いている。龍の顎に傷痕があるところを見ると、さっきの攻撃は必ずしも無駄ではなかったようだが。
セツナは、ドラゴンの動きに注意を払いながら、後方を一瞥した。偵察部隊のほとんどは、セツナの命令通りドラゴンの周囲から退避している。
ただ、ファリアとミリュウだけはさっきと同じ位置に立っていて、数十人の屈強な戦士がふたりを護るように布陣していた。ドルカ軍団の兵士としての誇りが、女ふたりを残して後退することを許さなかったのかもしれない。が、オーロラストームを召喚したファリアにはいい迷惑だっただろう。逞しい戦士たちの壁は、彼女の射線を塞ぎかねない。
前方に視線を戻したとき、背後からファリアがいってきた。
「わたしが援護するわ。セツナも後退して」
「了解!」
セツナは、黒き矛の切っ先をドラゴンに向け、わざとらしく敵意を見せつけながらファリアの援護を待った。その間も、ドラゴンの首を伝う光が頭部へと集中してく。緩慢な速度だが、光は、いまや後頭部や顎の辺りにまで届いている。その光の意味するものがなにかはセツナにはわからないが、嫌な予感しかしないのも事実だった。
不意に、分厚い雷光の帯がドラゴンの顎に突き刺さった。轟音とともに爆ぜ、雷光が撒き散らされる中、龍の悲鳴のようなものが響く。オーロラストームによる正確無比かつ高威力の射撃は、ドラゴンにも効果的だったようだ。さらに二度、三度と叩き込まれる雷撃の威力を確かめもせず、セツナはドラゴンに背を向けた。駆け出すのと同時に叫んでいる。
「一旦退くぞっ!」
セツナはファリアに声をかけたが、彼女は目を見開き、ドラゴンを見ていた。
「嘘っ!?」
ファリアの愕然とした声に背後を振り返ったセツナは、彼女と同じような表情を浮かべたことを自覚した。
「なんだありゃ!?」
セツナが振り返ったときには、龍に大きな変化が生じていた。首や頭部を覆っていた漆黒の鱗が剥がれ落ち、水晶のような結晶体が、生え変わるようにしてドラゴンの全身を包み込んでいる。顎も頭部も、角も、透明な結晶体で構築され、一瞬前とは別の存在へと生まれ変わったかのようだった。
まるで、オーロラストームの翼を形成する結晶体のようにも見えた。