第三百四話 守護龍(一)
「なんだよあれ!」
ウォルドが悲鳴とも罵声ともつかないような声を発したのは、ある意味では必然だったのかもしれない。
ヴリディア砦に向かって進軍中だった中央軍が、足を止めたのもそれが原因だった。砦の在る位置に突如として光の柱が聳え立ったかと思うと、光の中から巨大な龍が出現したのだ。全長数百メートルはあろうかという龍の首は、遠目からでもはっきりとわかるほどに巨大だった。光沢のある緑色の鱗で覆われた蛇や鰐によく似た頭部は、まさにドラゴンというに相応しい異様を備えている。輝く双眸、鋭い牙、巨大な角、どれをとってもただの蛇や鰐ではない。
ドラゴンの首が現れたのはヴリディア砦だけではないらしい。ファブルネイアやビューネルにもヴリディアと同様の光の柱が聳え立ち、消失しているのだ。同じようにドラゴンの首が出現していると考えられる。
そして、ファブルネイアとビューネルが同じならば、ライバーンやリバイエンにもドラゴンが出現しているのではないかという憶測が飛ぶのも無理はない。
「龍の首、ですわね」
「そんなことはわかってる」
ウォルドが苛立たしげに言い返したのは、そのドラゴンの正体がわからないからだろう。少なくとも皇魔ではないし、召喚武装でもなかった。しかし、武装召喚術に似たなにかを感じるのも確かだ。マナたちによると、光の柱には古代言語が浮かんでいたといい、遠方からも認識できるほどに巨大な術式が構築されていたというのだ。
武装召喚術に似て非なるものであり、あのドラゴンもまた召喚武装に似て非なるものだということかもしれないのだが、確証はない。
「あんなもの、どうするんだ? 倒すのか?」
「そもそも倒せるものなのでしょうか?」
イリスとマナが疑問の声を上げるのだが、クオンには答えようがない。
ドラゴンは、上空から大地を睥睨しており、倒すべき敵を探しているようにも見えた。中央軍はヴリディア砦の周囲の森の中に散開しているため、そうおいそれとは発見されないだろうが、油断できない状況にあるのは間違いない。
問題は、あのドラゴンが一体何なのか、ということだ。ザルワーンの用意した秘密兵器とでもいうべき代物なのか、それとも、ザルワーンとは無関係に発生したものなのだろうか。
(後者はない、か)
クオンは胸中で自分の考えを否定すると、仲間たちの様子を窺った。ドラゴンの姿に騒然とする団員たちがいる一方、幹部連中は堂々としたものだ。ウォルドは、知識にない化け物の存在になぜか怒りさえ覚えているようだが、イリスとマナは静かにドラゴンを観察しているようだった。
そこへ、グラハムが駆け寄ってきた。
「上は大慌てで対策を練っているようですな」
「だろうね」
彼は、光の柱が出現した直後、伝令ともども本隊に向かっていたのだ。《白き盾》は中央軍の隊列において、先頭集団に所属している。それは、クオンの召喚武装シールドオブメサイアの性能を当てにしたものではあるが、無敵の傭兵団と呼ばれる《白き盾》を戦闘に配置するのは、当たり前の判断でもあった。もっとも敵の攻撃が集中する先陣こそ、シールドオブメサイアの活躍する場だ。《白き盾》としても、クオンとしても不満はなかった。
「対策といっても、なにがあるんだ?」
「そうですわね……クオン様に頼る、とか?」
「それが妥当なところですな」
勝手な推測をする三人を横目に見て、クオンはもう一度ドラゴンを仰いだ。木々の枝葉の向こう側、暗雲を背に負うようにして巨大な龍の首が聳えている。見るからに威圧的な外見は、凶悪な力を秘めているということを宣言しているようでもある。とはいえ、ドラゴンが一体何者で、どれほどの力を内包しているのかはいまのところわかっていないのが実情だ。質量的には人間の数十倍では済まないくらいの巨大さはあるし、のしかかってこられたら、ただそれだけで数百人以上の人間が押し潰されるだろうことは疑いようがない。
それでも、シールドオブメサイアならば無力化できる。少なくとも、ドラゴンの攻撃に対してはびくともしないはずだ。ただし、いまのクオンが引き出した力では、ドラゴンの攻撃からどれだけの人数を護れるかはわからないところがある。中央軍の約三千人全員を完全無欠に守護するのは不可能に近い。極短時間ならば可能だったが、その短い時間で撃破できるような敵には見えなかった。
「まあしかし、クオン様のシールドオブメサイアさえあれば、あとは俺達がなんとでもしますが」
「頼もしいな、ウォルド」
「ええ、任せて下さい」
突然、気を取り直したように、にかっと笑顔を見せてきた大男に、クオンは愛想笑いを返した。彼には時々ついていけないことがあるが、それも彼という人間なのだと思えばどうということはなかった。
「いつにもまして張り切っていらっしゃるようですわね」
「俺はああいう常識はずれの存在を許せないのだよ」
「……武装召喚師にあるまじき発言ですこと」
「あれが武装召喚術なら、な」
ウォルドがドラゴンを睨むと、マナもそちらを見たようだった。
エメラルドグリーンに輝くドラゴンは、敵が見当たらないことに苛立っているようにも見えた。
「ザルワーンは龍の伝説に彩られた国だとは聞くが、な」
「本物のドラゴンが出てくるなんてねー」
「実物を見るのは初めてですよ」
ジンが肩を竦めたのは、ドラゴンが実在しているなどとは思っても見なかったからだろうか。シグルドがあきれたように同意する。
「俺もだよ」
「俺もー!」
適当に同調しながら、ルクスは前方に出現した化け物の観察を再開した。一言で言えば、巨大な龍だ。地面から首だけを覗かせているに過ぎないのだが、それでも天を衝くほどに巨大であり、もし地中に胴体が埋まっているとしたら、想像を絶するほどの巨体に違いなかった。
上空へと至る長大で図太い首は、緑色の鱗で覆われている。遠目に見てもはっきりとわかるのは、鱗が淡く発光しているからであり、また、龍の首自体がとてつもなく巨大だからだ。中央軍がヴィーヴル砦に接近していたから、というのもあるにはあるが、それよりもドラゴンの巨大さに原因を求めるべきだろう。
ドラゴンは、ヴィーヴル砦近辺に突如として出現した。ガンディア軍の龍府への接近を阻むために出現したと見るべきだろう。それ以外には考えにくい。まさか、ザルワーンの建国伝説に謳われる龍とやらが、護国のために降臨したということはあるまい。
「おそらくザルワーンの切り札だろうな」
「追い詰められた以上、切り札を使うのも当然でしょうね」
シグルドの推測をジンが肯定する。
(追い詰められた……か)
確かに、ガンディアの快進撃によってザルワーンは追い詰められている。ナグラシアの陥落に始まる敗戦の連続は、ザルワーン全体の戦力を低下させるにとどまらず、士気や戦意も激減させただろうことは想像に難くない。ひとつでも勝利があれば違っただろうが、ザルワーン軍は負け続けた。ナグラシア、バハンダール、ロンギ川、マルウェール。あらゆる戦いがガンディアの勝利で終わり、数多のザルワーン兵が命を散らせた。
無論、ガンディア軍とて無血の勝利を得てきたわけではない。多大な出血の中での連戦連勝ではあったが、それでも負け続けるのと勝ち続けるのとではわけが違う。ガンディア軍は乗りに乗っており、その士気、戦意たるや、天を焦がすほどに燃え上がっているといってもいい。
だが、巨大なドラゴンの存在は、そんなガンディア軍の気勢を削ぎかねないものだった。
「レオンガンド王は、あんなのと戦うつもりじゃないでしょうね」
「怖気づいたか?」
「まさか」
シグルドの冷やかすような言葉に、ルクスは目を細めた。笑いたくなったのは、自分の愚かさに直面しているからでもある。全身が酷く重い。歩くだけで、鉛を引きずっているかのような感覚に襲われるほどだ。
ジナーヴィとの戦闘で負った傷はあまりに深く、癒えきってはいないのだ。ゼオルで処方された鎮痛薬もあるにはあるが、常に服用しているわけにもいかない。
それでも無理を言って戦線に復帰したのは、嫌な予感がしたからだ。あのままゼオルで治療に専念していれば、シグルドやジンたちとともに戦い続けることができなくなるのではないかという漠然とした不安が、彼に団長命令を無視させた。シグルドの命令に背くことは、ルクスにとって腹を切るに等しい行為ではあったが、時間とともに増大する不安は、死よりも恐ろしいものだったのだ。
シグルドたちとの別離以上に恐ろしいことなどなにもない。
シグルドたちとともにあることができるのならば、この程度の痛みに耐えることなど容易く、また、ドラゴンと戦うことくらい簡単なことだ。その結果、死が待っていようと関係ない。死は、恐ろしくはない。
真に恐ろしいのは、シグルドたちを失うことだ。だからこそ、ドラゴンとの戦いを危惧する。あれほど巨大な化け物だ。もし戦うとなれば、その戦闘は想像を絶するものになること請け合いだ。質量だけで人間の数十倍では済まないほどに巨大なのだ。体当たりを食らうだけで何十人、いや、何百人の人間が命を落とすのではないか。
そう思わせるほどの迫力が、あのドラゴンにはあるのだ。
なればこそ、ルクスが団長命令に刃向かった甲斐があるというものだ。あの化け物を相手になんの考えもなしに戦えば、シグルドたちであっても一溜まりもないだろう。もちろん、あんなものと正面からぶつかり合うような愚かな戦法を取るようなジンではないだろうが。
「俺は、相手がドラゴンであろうとなんであろうと戦いますよ。団長の命令さえあればね」
「団長命令無視した奴のいうことかあ?」
「ぐ……」
「てめえはゼオルで養生していればよかったんだよ」
頭を軽く小突かれて、ルクスは口を尖らせた。
「そんなこと、できるわけないっしょー。《蒼き風》に俺がいなくてどうすんです」
「そこは否定しないさ。おまえのいない《蒼き風》なんて、黒き矛のいないガンディア軍みたいなもんだ」
「それって、そこそこは戦えるってことですよね」
「当たり前だ。が、最上級の褒め言葉だぞ」
「わかってますって」
ルクスは頬を緩むに任せながら、再びドラゴンに視線を注いだ。
《蒼き風》は《白き盾》ともども、中央軍の先陣を任されている。それだけ信用されているとも取れるが、正規軍及び同盟軍の損害を少なくしたいという思惑のほうが強いと考えるべきだ。特にガンディアの正規軍は、先の戦いで多大な損害を被っており、これ以上の出血は好ましくなかった。
自然、傭兵部隊を矢面に立たせることになる。
もっとも、手柄を上げることに執念を燃やす傭兵にとってもありがたい配置であり、《蒼き風》団員から不平や不満があがることはなかった。むしろ、俄然やる気を燃やし始めたものだ。敵がただの人間ならば、ヴリディア砦に篭もる龍牙軍の兵士ならば、過剰なまでの戦果を上げることができたかもしれない。
しかし、前方に聳え立つのは神話上の怪物である。接近することさえ難しいかもしれないし、遠距離からの弓射だけでは傷つけることもできないかもしれない。試してみなければなんともいえない話ではあるが、伝説上のドラゴンそのものならば、それ相応の覚悟をしなければならないのも事実だ。
「どうすんです?」
「命令があるまで待機するしかないだろ」
「そりゃそうだ」
大将軍アルガザードらガンディア軍の上層部は今頃頭を抱えていることだろう。ナグラシア制圧以来の連戦連勝の勢いは、五方防護陣など一蹴するだけのものがあったのだ。ヴリディア砦がどれだけ堅牢な要塞であろうと、問題にはならなかっただろう。
その勢いが、ドラゴンの出現によって大いに削がれた。
中央軍は足を止めざるを得なくなり、砦を目前に作戦会議を開くという状況になってしまった。
暗雲の下に聳え立つ塔の如き龍の首を見遣り、彼は小さく息を吐いた。
あれがザルワーンの切り札ならば、戦って打ち倒すしかない。そうしなければ、ザルワーンの首都を落とすことはできない。絶対的な勝利を手にすることができないのだ。
レオンガンドがマイラムで掲げた大義を全うするためには、ザルワーンに対して絶対的な勝利を得なければならない。
先王シウスクラウドの敵を討つには、現国主ミレルバスの御首を頂戴するより他ないのだ。
(どうするのかな、弟子の主は)
ルクスの脳裏を過ったのは、レオンガンドの前では犬のように従順な少年の姿だった。
彼は、命令さえされれば、どのような困難であっても立ち向かおうとするだろう。それがセツナ・ゼノン=カミヤという少年だということを、ルクスは知っている。もちろん、彼の周囲の人間に聞いた話ではあるが。
彼はいま、バハンダールからビューネル砦へと向かっている最中だ。