第三千四十七話 ミドガルドのこと(六)
アナスタシアとふたりきりの時間は、あっという間に過ぎていった。
止めどなく溢れてくる思い出話をただただ語り合うだけで、時間ばかりが過ぎていく。それを止められないし、止めようともしなかった。
あのときのまま過去が封印され、取り残されたままになったミドガルドの研究室が、その一助となったのは間違いない。がらくた同然の魔晶兵器の残骸たち。そこに刻まれた確かな研究の痕跡。ミドガルドがここにいたという証。記録。それらがミドガルドの意識を過去へと飛ばし、アナスタシアもまた、いつかの自分となって、ふたりの会話は弾んだ。
もはや取り戻すことのできない過去だからこそ、弾んだのかもしれない。
現実に舞い戻れば、あのときから変わり果てた自分たちが待ち受けている。
その事実が、耐え難いものとなって立ちはだかるものだから、過去に逃避するしかない。
過去だけが、ふたりの意識を自由にした。
そして、その仮初めの自由の中でだけ、心の底から笑い合えるのだ。
(哀れなものだ)
ミドガルドが哀れんだのは、アナスタシアではない。
自分自身をこそ、哀れに想い、茫然とした。
魔晶人形に成り果てたのは、自分の意志だ。
人間のまま生き続けるという方法も、なくはなかった。
エベルは、ミドガルドの生存を許さないだろうが、エベルがその力を思う存分に振るえるのは、おそらくこの大陸だけであり、海を渡れば、手出しはできなかったはずだ。同志たる神々も、最初は、そう提案してくれたものだ。
神を討つためにみずからを犠牲にするというのは、賢い選択肢ではない。
そんなことはわかっていた。
だが、ミドガルドには、彼には、ほかに方法がなかったのだ。
エベルを欺き、嘲笑い、出し抜き、翻弄し、打ちのめす。
そのためには、エベルを油断させる必要があり、故にこそ、みずからを殺させたのだ。
そして、彼の思惑通り、事が運んだ。
だが、いま、この瞬間、魔晶人形の身であることを多少なりとも後悔している自分の人間性に気づき、愕然としてもいるのだ。
人間の身であれば、アナスタシアを優しく抱きしめ、その心の空白をわずかでも埋めてあげることができたはずなのだ。
魔晶人形の躯体では、そうはいかない。
アナスタシアは、気にしないのだろうが、彼が気にした。
人間と魔晶人形は、違う。
肆號躯体ならば、ミドガルドの望みも叶ったのだろうが、あれはウルクのためのものであり、まさか自分用に作ろうなどとは考えたこともなかったのだ。
それは、いまも変わらない。
「あなたはいま、なにを考えているのかしら」
アナスタシアが目の奥まで覗き込むようにして、顔を近づけてきた。年齢からは考えられないほどに若々しい彼女の顔を間近に見て、ミドガルドは、すぐさま目を逸らす。過去、何度となくそれ以上に接近したこともあるが、いまは、そんなことをしている場合ではなかった。
「君のことを」
「嘘ばかり」
「嘘じゃない。本当だよ」
(そう、本当なんだよ、アナ)
ミドガルドは、椅子代わりに腰掛けたがらくたに視線を落としながら、胸中でつぶやいた。実際、彼女のことばかり、考えている。まさか、いまさら自分がアナスタシアのことを気にするなど、聖王宮を訪れる前は、想像したこともなかった。いや、聖王宮を訪れ、謁見の最中ですら、そうだったのだ。
ミドガルドにとって、アナスタシアは、もう手の届かない存在であり、手を届かせるべきではない存在として、意識の外に置いていたからだ。
それが、ふと、意識の中に舞い戻ったのは、ここがやはり過去の吹きだまりになっているからだろう。
なにもかもが過去に取り残されたまま、風化することなく滞留している。
だから、ミドガルドもアナスタシアも、あのころに戻ってしまうのだ。
それは喜ぶべきか、哀しむべきか。
「それが本当なら、嬉しいわ」
アナスタシアは、人形の手を取って、微笑む。その微笑に混じるわずかばかりの哀しみは、ミドガルドが人形に成り果てしまった現実に対するものなのだろう。
ミドガルドは、自分がこのような身に変わり果てたことについて、多少、嘘を交えながら伝えた。死の原因をエベルではなく、“大破壊”によるものとしたのだ。
“大破壊”の余波によって倒壊する建物に押し潰され、数多くの職員たちとともに命を落とした、ということにした。
そして、元々作っておいた魔晶人形としての自分が起動し、現在に至るのだ、と。
世界大戦時、ミドガルドが聖王国軍と行動をともにしていたことを知らないアナスタシアは、彼の説明を信じてくれたようだ。一切の澱みもなく作り話をしてしまえる自分の才能に内心では自嘲しつつ、多少、心苦しく想わないではなかったが、なにも真相がひとを幸福にするわけではないのだから、これはこれでいいはずだ。
そう、彼は考えていた。
嘘でも、それ以外のことを知らない人間にとっては、それが真実となる。
「本当だよ。本当だ」
「ふふ……だったら、そうね」
アナスタシアは、微笑の中の哀しみを消して、提案してきた。
「わたしのことを想ってくれるのなら、聖王宮に戻ってきてくれないかしら」
「ここに……? わたしが?」
「あなた以外のだれがいるのよ」
「それはそうだが……しかし」
「もちろん、ミドガルド=ウェハラムとしてではなく、ミナ=カンジュとして、だけれど」
それは当然のこととして、ミドガルドも考えてはいた。しかし、だからといって、即答できるような問題ではないことが、彼に考え込ませている。
「王都はいま、混乱の中にあるわ」
「混乱?」
「そう、大混乱よ」
アナスタシアは、微笑を消して、大真面目な顔になった。先程まで、ミドガルドの目の前にいた女騎士の面影は消え去り、王妃アナスタシアがそこにいる。
「陛下が配備を進め、王都の警備や防衛に当てられてた魔晶人形たちが突然動かなくなってしまったものだから、皆が不安がっているのよ。兵士も市民も、貴族たちも、だれもかれもね。だって、そうでしょう。こんな状況で王都が攻撃されるようなことでもあったら、どうしようもなくなるわ」
聖王国は、その主戦力を魔晶兵器に依存している。
魔晶技術の発展は、戦闘兵器の開発とともにあった。魔晶技術の戦闘兵器への転用によって誕生した魔晶兵器たち。その研究と開発の過程で、様々な魔晶技術が誕生し、進化していったのだ。魔晶技術と魔晶兵器は切っても切れない共存関係にあり、ミドガルドたちが魔晶人形を作り上げることができたのだって、戦闘兵器だったからだ。
でなければ、許可など降りようはずもない。
そのようにして発展していった魔晶技術によって作り上げられた様々な兵器は、聖王国の重要な戦力となり、治安維持や、皇魔討伐に大活躍していた。
が、ルベレスがまさか、王都に量産型魔晶人形を配備していたとは知らず、彼は、苦い心持ちになった。
ルベレスが配備したのは、彼に取り憑いた神エベルが大量生産した量産型魔晶人形だろう。それらが突如として動かなくなった理由も、そこにある。
エベルの量産型魔晶人形は、白色魔晶石を心核とする。
白色魔晶石は、黒色魔晶石同様、特定の波光に反応し、波光を放出するようになるのだが、その特定の波光というのが、エベルの神威だったのだ。
故に、動かなくなってしまった。
エベルが滅びたのだ。
特定波光の供給元が失われた以上、心核が止まるのも当然だった。
ミドガルドは、エベルの完全なる消滅をそれによって確認できたことは幸いに思ったものの、同時に、考え込まなければならなくなった。
王都は、彼の生まれ故郷だ。
生まれ故郷を混乱させたまま放置するというのは、彼としても考えられないことだったからだ。




