第三千四十六話 ミドガルドのこと(五)
「わたしはね、セツナ殿」
アレグラスは、アナスタシア王妃によく似た碧い瞳でまっすぐに見つめてきていた。多分に自嘲が含まれたまなざしには、様々な感情が複雑に入り交じっているように感じられる。
「むしろ、不貞の結果、生まれた穢れた子であることを喜んでさえいるのだよ」
そう告げられて、なんと答えればいいものか、セツナにはまったくわからない。
アレグラスが、王妃とミドガルドの不義密通の結果生まれた子供であるという衝撃的な告白を平然としてきたことに対して、なにかいうべきことなど、セツナにはなにひとつないのだ。そもそも、ミドガルド=ウェハラムという人物について、深く知っているわけではない。
ミドガルドのことで知っていることといえば、神聖ディール王国魔晶技術研究所の所長であり、魔晶技師であり、魔晶人形ウルクの生みの親であり、娘のためならばなんだってするありふれた父親像を持った人間である、ということくらいだ。
ミドガルドがまさか聖王国王妃と複雑な関係を持っていたなど、知る由もない。
そして、そんな話を聞かされて、どうすればいいというのか。
「国王陛下は……ルベレスは――あれは、人間ではなかった」
アレグラスが苦い表情で続ける。
「人外の……化け物が人間の皮を被っているに過ぎなかった。だから、あれが死んだことに対して、深い哀しみや怒りも湧かなかった。王子である以上、そう取り繕う必要はあったがな……」
いまや唾棄するかのように告げるアレグラスの様子からは、彼がルベレスを長年嫌悪していたことが窺い知れた。それはつまり、彼が何年も前からルベレスの正体に多少なりとも感づいていたという事実であり、エベルが実のところ、正体を隠し切れていなかったということでもあった。
エベルは、自己主張の激しい神でもあった。
この聖王宮にしたって、エベルの主張がそこかしこに現れているように感じられる。
もっとも身近にいる家族の前では、不意にエベルの側面を覗かせるようなことがあったのかもしれない。
それにしたって、迂闊にもほどがあるが。
(いや、そんなことはどうだってよかったんだ……)
セツナは、胸中で頭を振って、考えを訂正した。
エベルにとって、王子とは、次代の依り代に過ぎず、つぎに乗り移る予定の肉体、器に過ぎなかったのだ。故に王子が自分に対しどのような疑念を抱こうとも構わず、王子の前だけでは、エベルとしての側面をわざと見せていた可能性すらあるのではないか。
「だからこそ、信じられないという気持ちもないではないのだ。あれは、本当に死んだのか?」
「ええ。間違いなく」
「そうか……」
彼は、天を仰ぐようにして、頭上を見上げた。天井には豪奢な魔晶灯がつり下げられていて、そこから降り注ぐ青白い光は、いつにも増して冷ややかに感じられた。
「死んだ、か」
多少なりとも感傷的な声音に感じられたのは、気のせいではあるまい。
いくら嫌悪していたところで、父親への情がまったくなかったわけではないのだろう。
「あれは、確かに化け物だったが、王を演じることに関しては、なにひとつ問題はなかった。小国家群への侵攻以外は、なにひとつ、な。そしてそのひとつこそ、最大の汚点であり、わたしがあれを否定する根拠なのだよ」
(最終戦争のことか)
「小国家群への――国外への侵攻は、国是が禁じている。初代聖王がお決めになられたことを、化け物が破り捨てることなど、あってはならないことだ。だが、あれの暴走を止める手立ては、わたしにも、母上にもなかった。だれもがあれのいいなりであり、あれの操り人形だったからだ」
アレグラスの話を聞く限りでは、彼がルベレスの正体についてわかっていることというのは、ほんのわずかばかりのことに過ぎないようだった。たとえば、エベルの依り代になっているということや、そのエベルこそがディール建国を働きかけた神であり、また、ディールという大勢力を築き上げた根幹であるという事実を知っている様子はなかった。
知っているならば、国是を破ったことを非難しはすまい。
国是そのものが、エベルの悲願のために作られたものなのだ。
エベルは、聖皇復活の“約束の地”をだれよりも先に見つけるべく、聖王国を大勢力に仕立て上げた。それから数百年に渡って丹念に領土内を探し回り続けたのだろうし、その間、勝手な行動を起こされては困るから、国是として国外への侵攻を禁じたのだろう。
帝国にも似たような法があったが、あれもナリアが“約束の地”をどの神よりも早く手に入れるための方策に過ぎない。
三大勢力による均衡とは、神々の利害の一致によって築かれていたものなのだ。
「わたしと母上だけが、あれの支配を免れていた。母上はミドガルドを拠り所としていたのだろうし、わたしも、ミドガルドと母上の不貞の子という汚点が、拠り所となっていたのだ」
皮肉げな表情は、その汚点こそが彼を彼たらしめていたからなのだろうが。
「わたしがもし、あれと母上の本当の子供ならば、どうだっただろうな。わたしも化け物と成り果てていたのかな」
「変わらないでしょう」
「ふむ……?」
「殿下は変わらず、殿下のままで在らせられたはずです」
「なぜ、そう言い切れる」
「そう信じておくほうが気楽だから、ですよ」
セツナが言い切ると、アレグラスは、一瞬、虚を突かれたような顔をした。そして、あきれたようにいってくる。
「貴殿は……楽観的だな」
「そうありたいと想っています」
実際にはそうではないが、そうありたかったし、そうあるべきだと常々感じていることだった。慎重なのはいいが、慎重すぎて悲観的になるのは良くないことだったし、なにより、状況が状況だ。世界が追い詰められ、終わりと滅びが目前に迫っているといっても過言ではない。そのような状況下でも楽観的でありさえすれば、多少は気も紛れるものだろうし、明るくもなれるのではないか。
暗くなりがちな状況では、そうあることが勝利への近道なのではないか、と、セツナは考えるのだ。
「わたしも、そうあれればよいのだが」
「殿下ならば、できますよ」
「簡単にいってくれるものだ」
背もたれに上体を預け、彼は、憮然と嘆息した。
しばらく、そのまま沈黙が続いたが、決して気分の悪いものではなかった。むしろ、心地よささえあったのは、なぜだろう。アレグラスが、多少なりとも気を許してくれているからなのかもしれない。
「それで……だが、ミドガルドの、我が実の父の死に様について、話す気になってくれたか?」
「ええ……まあ」
言いよどんだのは、どう話せばいいのか考えあぐねていたからだし、ウルクが迂闊なことを言い出さないか気がかりだったからだ。
ウルクは、先程から沈黙を貫き通している。膝の上にラグナの入った荷袋を置き、主にセツナに注目しているようだったが、それはいつものことだ。彼女は、大抵の場合、セツナに意識を向けている。その視線の力強さは、肆號躯体になってからというもの、より圧力が増している気がするが、気のせいではあるまい。
肆號躯体は、より人間に近くなっている。
そのことが、視線の圧力に作用しているのではないか。
胸中で頭を振って、余計な考えを振り払う。
「ミドガルドさんは、ですね……」
本当のことは、いうわけにはいかなかった。
だから嘘をついたのだが、それが少しばかり心苦しかったのは、多少なりともアレグラスのひととなりに触れてしまったからだろう。