第三千四十四話 ミドガルドのこと(三)
「物騒なのは、この部屋に限った話ではないけれど……」
アナスタシアは、いまとなってはがらくたばかりが置かれているといっても過言ではない室内を歩き回りながら、いった。
ミドガルドの研究室は、彼が魔晶技術研究所の職員として王宮を離れることになったときのままだった。まるで数十年前の過去が氷漬けにされて発見されたような、そんな感覚がミドガルドの中に生まれている。
なぜ、とは思わない。
普通ならば、ミドガルドの許可を取らずとも、これらがらくたを撤去し、処分することも可能だったし、そうするべきことだ。聖王宮は元来、王家の人間のものであり、王家とは古くより血縁関係にあるとはいえ、ウェハラム家の、それも跡継ぎですらない人間が我が物顔で使っていい場所ではない。
ではなぜ、ミドガルドが王宮内に自称研究室を持つことが許されたのかといえば、ルベレスが与えてくれたからだ。
彼が出て行ったときのまま保存された部屋にいると、見ないようにしていたはずの過去の記憶があっさりと蘇ってくれるものだから、彼は、憮然とするほかない。
ミドガルドとしては、二度と想い出すまいと封印してきた記憶の数々が、おそらくアナスタシアの意向によって保存されたままの部屋によって、急速に解き放たれていくのだ。それはまず間違いなく、魔晶人形に人間性までも転写することに拘った結果だ。
ただ人格と記憶を移植するだけに留めていれば、このような感覚に囚われることはなく、アナスタシアに対しても他人を演じ続けることができたはずだ。
ミナ=カンジュで在り続けることができただろうし、その場合、アナスタシアも、彼をミドガルドとは認識しなかったのではないか。
「どうして……わかったのです?」
ミドガルドは、ようやく、問うた。それが精一杯の質問だった。どうして、自分がミドガルドであるとわかったのか。それは最大にして究極の疑問でもあった。
現在、ミドガルドは、高く見積もっても二十代の青年にしか見えない姿と成り果てている。自分だけでなく、数多くの魔晶技師や研究者、開発者が携わった魔晶人形の躯体を自分自身に似せるのには抵抗があり、老人ではなく、青年の躯体を作り上げたのだ。
つまり、老人の躯体を作ることも不可能ではなかったということではあるが。
「わかるわよ。だって、わたしの愛したただひとりのひとだもの」
アナスタシアは、こちらをまっすぐに見つめて、断言した。
ミドガルドは、なにも言い返せなかった。ただ、見つめ返しながら、鼓動が高鳴るようにして反応する心核の様子に気づき、茫然とする。人間性に拘ったことによる弱点が、いまや浮き彫りになっている。
「あなたが無理して他人を演じているのは、すぐにわかったわ。わかったけれど、いえなかった。いえるわけがないわよね。変わり果てたあなたがミドガルドだなんていったところで、だれが信じてくれるというの」
アナスタシアは、どこかあきれるように笑う。たとえ彼女が王妃であり、いまやこの国に於ける最大の権力者となったとはいえ、彼女のそのような発言をだれも信じないだろう。いまのこの姿は、よく知られたミドガルド=ウェハラムとはかけ離れている。
ミドガルドは五十代の老人なのだ。
「わたしだけにしか、わからないことだわ」
その言葉には、ある種の自負があるように思えた。
「女の勘……ですか」
「そうじゃなくて」
少しばかりむきになりながら、彼女は近づいてくる。がらくたばかりが散乱する室内を歩きながら、その挙措動作は、王妃のそれというより、若いころの彼女そのものようだ。悠然としているのではなく、凜然と、なにもかもが軽やかだった。
ミドガルドだけでなく、彼女までもがこの過去が封印された部屋に当てられて、当時の自分に舞い戻ってしまったのではないか。
そんな気がして、ならない。
そしてそれは、必ずしも良いことではない。
当時――つまりいまから三十年ほどの昔。彼女がまだ、ハスタロン家出身の騎士に過ぎなかった時代。ミドガルドは、親友でもあった王子ルベレスの許可を得て、聖王宮内に設けた研究室に引きこもり、研究に没頭していた。そんな研究室に現れてはからかい、ちょっかいを出してくるのがアナスタシアの日課のようなものであったことを覚えている。
「わたしはいまもあなただけが好きだということよ」
「殿下……」
「やめてよ。ふたりきりなのに」
アナスタシアは、相も変わらず、気安い口調でいってくる。
「陛下が亡くなられたばかりだというのに、そのようなことを仰られるのは……」
「十年後だったら、二十年後だったら、許される? そんなわけがないわよね。何年後であろうとも、王妃ともあろうものが不貞を働くなど、到底許されることではないわ」
「それがわかっておられるのでしたらなおのこと」
「姿形が変わっても、心は、昔のままなのね、ミド」
彼女は、どこか安心したとでもいいたげに、しかし、残念でもあるといわんばかりの表情でいってくる。複雑な心中は、察して余りあるものがあった。
ミドガルドも同様なのだ。アナスタシアが昔のままだということに喜ぶ一方、苦しんでもいる。いっそのこと、王妃としての人格が主導権を握ってくれていれば、彼女への想いを封印し続けることができたというのに。
「……だから、困っている」
「困る? なにを」
「いまも君のことを愛おしく想っているという事実に対して、だよ」
「……ミド」
アナスタシアは、驚きに満ちた顔をした。
「わたしは、君が好きだった。たぶん、最初からだろう。最初からずっと、好きだったんだ。ハスタロン家のお嬢さんだからではなくて、ただ、君だから、好きだった」
物心ついたときには、ふたりは側にいた。
ウェハラム家も、ハスタロン家に並ぶ聖王国の武門の名家だ。いずれも、代々騎士を輩出しているだけでなく、将軍を務めることが許される四大名家に数えられてもいる。
ハスタロン家の令嬢として生まれたアナスタシアは、しかし、お嬢様として育てられることに強く拒否反応を示した。尚武の家系に生まれたがため、その血を色濃く受け継いだからだ、と、周囲の人間はいった。勝ち気で、喧嘩っ早く、口よりも先に手が出る類の人間だった彼女は、周囲の反対を押し切り、騎士になるべく修練を励んだ。
一方、ミドガルドは、同じ武門の家系であるウェハラム家に生まれながら、魔晶技術の魅力に取り憑かれていた。子供の頃から、魔晶兵器の模型を作ったり、魔晶兵器を妄想したり、父や母が呆れ果て、諦めるくらいには魔晶技術にどっぷりだった。
そんなふたりが幼少期からつかず離れずの関係だったのは、ふたりの家が隣り合っていたから、というのが一番大きいのだろう。
もし、互いの生家が遠く離れた場所にあったならば、ミドガルドがアナスタシアに憧れることも、アナスタシアがミドガルドに気安く振る舞うようなこともなかったのではないか。
物心つく前から一緒にいたことが、ふたりの関係を気安いものにした。
聖王国ではめずらしい女性騎士を目指すアナスタシアを応援したのは、ミドガルドくらいだったが、魔晶技師を目指すミドガルドを応援するのも、アナスタシアくらいだった。互いに取って、唯一の理解者といっても過言ではなかったのだ。
聖王宮に研究室を用意してくれたルベレスは、ミドガルドの理解者とはいえなかった。むしろ、ミドガルドに夢を諦めさせようとしていた節さえある。
ルベレスは現実主義者であり、ミドガルドに現実を見せつけることで、本来の役回りに専念させようとしていたのだろう。