第三百三話 出現
「これが五方防護陣の正体か?」
グレイは、光の柱を見据えながら、額の汗を拭った。いつの間にか大量の汗をかいている。嫌な汗だ。理解のできない現象に遭遇したからだろうか。
「あれはいったいなんなんです?」
「わかるものか」
部下に尋ねられたところで、吐き捨てるしかない。
グレイのこれまでの人生の中で、このような現象に遭遇したことはなかった。皇魔の持つ不可思議な力とも違う。武装召喚術とも違う。もっと別のなにかだということはわかるのだが、それがいったいどういった類のものなのかは見当もつかない。
あの光に触れてはいけないということはわかる。
「光に触れるなよ。皇魔たちと同じ運命を辿りたいというのなら話は別だが」
いいながら、結局、同じことではないのか、と思わないでもなかった。結局、グレイたちの目的も死だ。光に飲まれて死ぬのも、龍府に乗り込んで、戦いの中で死ぬのも同じことではないのか。違う、とは言い切れないものがある。どこで死のうと、どのようにして死のうと、死は死だ。
(能く死ぬ……か)
胸中で苦笑する。
いくら言葉で飾り立てたところで、グレイたちのしようとしていることは集団自殺でしかない。そこに政治的な意味もなければ、ザルワーンへの意趣返しにもならない。一矢報いたところで、ザルワーンが悔い改めるだろうか。ミレルバスが、グレイへの裏切りを後悔するだろうか。彼が後悔したところでどうなるものでもないのだが。
死んだ人間は戻ってこない。失われたものは失われたままだ。そして、裏切られ続けてきたという事実は覆しようのないものとして、グレイの心に刻まれてしまった。メリスオールがいつ滅んだのか、どうやって滅ぼされたのかといった詳細はわからない。しかし、ザルワーンがメリスオールのひとびとを根絶やしにしたのは事実だ。だから彼はザルワーンを見限った。
ザルワーンから離反し、死に場所を求めた。
主君を失った。生きる意味を失ったのだ。死ぬしか無い。短絡的な結論だったが、疑問は生じなかった。では、どのように死ぬのか。それだけが彼の命題となった。
戦場で花と散るのが理想だった。
すぐにでも龍府に進軍し、戦死するのも良かったのだろう。そうすれば、少なくとももっと早く、死ぬことができた。王や息子に再会できたはずだ。いや、どうだろう。自分は地獄に落ちるのはわかりきっているものの、ニルグやクローシュは天国に逝ったかもしれない。だとすれば、彼らとの再会は叶わないが、仕方のないことだとも思う。
この手は、血に汚れすぎた。人間も皇魔も殺しに殺した。老若男女、敵とあらば構わず手にかけてきた。それが彼の役目だった。そうしなければ、メリスオールの人々の命を護れないと信じていた。いや、ひとを殺してきたのはメリスオールの時代からだ。なにもザルワーンに属してから殺した人数が急激に増えたわけではない。
ニルグも、地獄に落ちるのかもしれない。彼ほど戦争を好き好んで起こした王もいまい。そして、多くの場合、敗けた。賢王ではなかった。しかし、グレイが命を預けるに足る人物だった。ニルグは最後まで彼に生きろといった。生き抜くことが王命なのだといった。
だが、それだけはできない。ザルワーンの蛮行を許し、生き延びるなどという選択肢など存在しない。それは生き恥を晒すということにほかならないのだ。メリスオールの民を殺戮し、王の名を穢したザルワーンの存在を許すことなど、できるはずがなかった。
グレイは、王の命に始めて背くのだ。
『グレイよ』
(陛下の声……)
グレイは、突如聞こえた幻聴に顔を上げた。懐かしい声だが、いま、思い出している場合ではない。
前方。砦のみならず、周囲にいた皇魔の大半を飲みこんだ光の柱は、暗雲に突き刺さるほどに高く聳えている。光の柱というよりは光の塔であり、それがいったいなにを示すものなのか、彼にはまったくわからなかった。武装召喚術ではないのは確かだ。武装召喚術とは、異世界から武器を召喚するものであり、このような超常現象を引き起こすものではない。それこそ、魔法と呼ばれるものに近いように思えた。もっとも、魔法とは空想の産物であり、歴史上、行使した人間は存在しないといわれている。
ただし、五百年前、大陸を統一した聖皇ミエンディアは、魔法に近いものを駆使したとされ、異世界から神々を召喚したのも魔法によるものではないかと囁かれてはいた。その神々に引きずられるようにして魔物どもが現れたのは、聖皇としても誤算だったのだろうが。
「将軍、どうされます? このままここにいても埒が明かないのでは……」
「そうだな……」
皇魔さえも飲み込んだ光の塔の正体は気になるものの、推測する材料のようなものさえないのが現状だった。国主ミレルバスが絡んでいるのは間違いないのだが、彼が関わっているからといって、そこからなにかを特定できるわけでもない。そして、光の塔がただそこに聳え立っているだけならば、グレイたちには障害物にさえならないのだ。むしろ、砦を突破する必要がなくなったとも考えられる。
グレイたちが砦に突入した瞬間に光の柱が聳えたのなら、グレイたちの全滅という可能性もなくはなかったのだが、飲み込まれたのはブフマッツたちであり、グレイ軍の兵士は一兵たりともかけてはいなかった。ブフマッツもすべてが死んだわけではない。光の塔の膨張が収まると、その外周にいたブフマッツたちは飲み込まれずに済んだし、ほかにも千体のブフマッツを温存してもいた。突破しなければならないのはファブルネイア砦だけではないのだ。
「ここは軍を纏め、龍府を目指すべきかと」
「あんなのに構ってはいられませんよ」
「ああ、その通りだ」
グレイは厳かにうなずくと、部下たちに部隊を纏めさせた。龍府へ向かうために戦闘態勢を解くのだ。光の塔の近くで動かないブフマッツたちを集めるのに手間取るだろうが、戦闘を回避できるのだ。それ以上に時間短縮の恩恵は大きい。もっとも、ブフマッツを半数以上失ったこともあり、龍府への行軍速度は遅々たるものになるだろうが、それは最初から織り込み済みのことでもある。とにかく、ファブルネイアの迅速な突破こそが最優先だった。
部下のひとりが、光の塔を見やりながら、問いかけてきた。
「しかし、ミレルバスは我が子の命も惜しくはないってことですかね?」
「ん……?」
「あの光に飲まれたブフマッツのように、砦の中にいた連中も皆死んだんじゃ……」
彼がそう言い終わるより早く、振動がグレイたちを襲った。
グレイは、予期せぬ衝撃に驚きながら、光の塔に生じた異変を目の当たりにした。激しく明滅したかと思うと、周囲の風景が歪んで見えた。
轟音とともに光の塔を突き破るようにして現れたのは、群青の怪物だった。鋭く突き出た顎に大きな眼、複数の角が頭部を飾り、群青の鱗が全体を覆う。長大な首は人間の数十倍の大きさがあり、グレイ軍はただそれを見ただけで気圧され、後ずさった。
「龍……!」
グレイの第一印象では、そう呼ばれる存在だった。各地の伝説に謳われる、万物の霊長にして暴君。ザルワーンの建国神話も龍に彩られ、龍にまつわる名称が数多く取り入れられていることはよく知られている。五竜氏族を筆頭に、龍眼軍、龍牙軍、龍鱗軍。それに魔龍窟。ザルワーンと龍は切っても切れない関係だというのだが。
龍は、首から上だけが地上に現れている。首から下は地下に埋まっているのか、そもそも存在しないのかもしれない。首と地面の接点にはファブルネイア砦があったはずなのだが、砦は跡形もなくなっていた。残骸ひとつない。皇魔も消失しており、ゼノルート=ライバーンら第二龍牙軍の連中は愚か、ファブルネイア砦に住んでいた人々も皆、光に飲まれて死んだということだ。
(愚かなり、ミレルバス=ライバーン……!)
グレイは、拳を握った。義憤というものでもないが、自国民の犠牲を省みないミレルバスのやり方には怒りを覚えないはずがなかった。砦がひとつ消滅したのだ。ミレルバスの窺い知れぬことであるはずがない。あってはならないともいえる。
ニルグは賢しい王ではなかったが、国民に犠牲を強いたことはなかったのだ。だからこそ、グレイはニルグを唯一無二の王として仰いだ。ニルグだけが彼を支配するにたる人物だったのだ。
ミレルバスは、やはり、グレイの主にはなり得ない人物だったのだ。
群青の龍の双眸が輝きを帯び、こちらの陣容を窺うように視線を巡らせる。光の柱は天を衝くほどのものだったが、龍の体積はその半分にも満たない。しかし、それであっても巨大であり、兵士たちの腰が引けるのも当然だった。
「なんなんですかあれはっ?」
「俺が知ってるわけないだろ!」
「龍だ……龍が現れたんだ……」
「見たらわかりますよそれくらい!」
歴戦の猛者であるはずの部隊長たちでさえ取り乱すような状況だった。砦を飲み込んだ謎の光だけでも理解不能だというのに、さらに龍の首が出現するという事態には、思考がついていけないというのも無理はなかったし、当然といっても過言ではない。
グレイが冷静でいられるのは、潜り抜けた死線の数が違うからだろうが。だからといって事態のすべてを飲み込めたわけではない。
砦が光に飲み込まれたのも、光の中から龍が現れたのも、理解の外の出来事だった。ただあるがままに認識するしかなかった。
《グレイ……グレイなのか……?》
突如脳裏に響いた声に、グレイは、一瞬呆けかけたが首を振って自分を取り戻した。死者の声など、幻聴に過ぎない。そう思った。
だが、それがただの幻聴ではないことは、周囲の反応で知れた。
「陛下……?」
「陛下の声……?」
「この声は……」
グレイの部下のだれもが、聞き知った王の声に驚き、顔を見合わせていた。そして、王の声の発生源が特定できると、混乱はさらに加速した。
《グレイ……わたしはなにも護れなかった。国も、民も、己の意志さえも。済まぬ……済まぬ……》
ニルグの声は、青の龍から発せられていたのだ。「なぜ謝られるのです、陛下!」
グレイは、我知らず声を上げていた。悪いのはニルグではない。国を守れなかったのは、グレイがザルワーン軍の侵攻を食い止められなかったからに他ならない。ザルワーンに敗れさえしなければ、メリスオールという国はおろか、王家臣民のだれひとりとして死なずに済んだのだ。すべては、グレイの責任だった。
ミレルバスを信用せず、常に注視していれば、あんなことにはならなかったのだ。
「陛下!」
グレイは、叫んだ。この異常事態が彼の思考をも狂わせていたのかもしれない。ニルグの声を発した龍の中に、ニルグがいるのかもしれないという発想は、狂気以外のなにものでもなかった。
しかし、龍は、反応すら見せない。届かなかったとも考えられるし、黙殺されたとしても不思議ではない。相手は龍であり、ニルグ自身ではないのだ。ではなぜ、龍からニルグの声が発せられたというのか。
正気と狂気の狭間で、グレイは冷静さを失い始めていた。
龍が吼え、その巨体が光に包まれたかと思うと、龍の口腔へと収斂した。
グレイは、動けなかった。金縛りにあったかのように、龍の首がこちらに向くのを見ていた。淡く輝く双眸がこちらを見据えるのだが、そこに殺意や敵意はない。だが、龍の口に蓄積した光がなにをもたらすのかは明白だった。
つぎの瞬間、純白の輝きが彼の視界を塗り潰した。