第三千三十七話 王国の後先(六)
聖王宮に入るなりまず最初に通されたのは、広い一室だった。
近衛騎士団長の執務室だということは、案内役の騎士たちから聞いていた。
そこにはもちろん、近衛騎士団長が待ち構えていて、厳つい顔の騎士は、ミドガルドの腕章を見るなり目の色を変えた。疑念に満ちたまなざしがなにを意味するのかは、そのときはわからなかった。
騎士団長は、ヴェルデン・ザン=アズトラムという。筋骨隆々の、まさに戦士の中の戦士といった大男であり、厳格な精神性が顔つきに表れているようだった。彼がいるだけでその場の空気が引き締まるに違いなく、セツナたちをこの部屋まで案内した近衛騎士たちも、部屋に入る前と後とでは、態度がまるで変わっていた。
それまでは緊張感を持ちながらも、余裕がないわけではなかったのだが、騎士団長の目の前では、一瞬たりとも気を抜くことはできない、とでもいうような様子だった。
セツナも、多少なりとも緊張を覚えた。
「魔晶技師殿が御無事だったのはなによりの朗報ですが、しかし、何故、いまになって姿をお見せになられたのです」
ヴェルデンは、どっしりした重低音でミドガルドに問うた。その声音には、多少の非難と多量の疑念が混じっていて、迂闊な返答をすれば、その瞬間、ミドガルドのみならずセツナたちの立場も危うくなるような、そんな気配があった。
室内には、執務机からこちらを見つめる騎士団長と、対峙するセツナたちのほか、案内役を務めた二名の近衛騎士だけがいる。ほかにはだれもいないというのに、何百何千の兵に囲まれているような圧迫感を覚えるのは、ヴェルデンの圧力が凄まじいからなのだろう。
(さすがは大勢力の騎士団長様……って感じだな)
数え切れない死線を乗り越えてきたセツナですら、多少なりとも感じ入るほどの圧力だ。近衛騎士たちが緊張の余り、顔面を蒼白にさせているのも道理といっていい。
もっとも、ミドガルドの後ろ姿も、彼を見るウルクの横顔も、まったくもって動揺していないのだが。
「何故、とは、近衛騎士団長閣下のお言葉とも思えませんね。聖王国に忠誠を誓う魔晶技師が、王都ディライアを訪れるのはそれほど不思議なことでしょうか?」
ミドガルドは、普段とは異なる口調を用いていた。声音も軽く、別人のようだ。
実際、別人を演じている。
なぜならば、彼のその姿は、ミドガルド=ウェハラムとはまったくの別人だからだ。ミドガルドは、魔晶技師としてだけではなく、ウェハラム家の人間としても、ルベレス王の友人としても有名であり、顔が知れ渡っている。
ミドガルド=ウェハラムといえば、五十代半ばの男であり、どれだけ高く見積もっても三十代に届きそうもない躯体の姿では、ミドガルド=ウェハラムと名乗るわけにはいかないのだ。そんなことをすれば、余計な警戒を招くだけであって、得策ではない。であれば、別人を騙る方がまだましではないか。そんな判断が、ミドガルドによって下されている。
彼は、そのために聖王宮ではほとんど顔の知られていない魔晶技師の腕章を身につけていた。腕章は、認定証でもあるという話からもわかる通り、本人の名が刻まれているのだ。ミドガルドの腕章には、ミドガルド=ウェハラムと刻まれており、いま彼が身につけている腕章には、ミナ=カンジュという名が記されていた。
ミナ=カンジュは、二十代で魔晶技師に認定された人物で、男性だ。もちろん、魔晶技術研究所時代は、ミドガルドの部下として、彼の手となり足となり働き回っていたそうだが、“大破壊”によって多くの職員とともに命を落としている。
その亡骸を葬ったのは、ほかならぬミドガルドだが、彼はいま、どのような気持ちでミナ=カンジュを演じているのだろうか。
そんなことが、少しばかり気にかかった。
「……では、質問を変えましょう。何故、いままで顔を出さなかったのです?」
「陛下の密命であれば、当然のこと」
「陛下の……密命ですと?」
ヴェンデルが息を呑み、姿勢を正した。陛下とは無論、ルベレスのことだろうが、故にセツナは、ミドガルドがなにを考えているのか想像もつかなかった。
彼がディライアを訪れたのは、エベルという支柱を失ったディールの現状と将来が心配だったからだが、その不安を払拭する方法がなにかあるのだろうか。
「ええ。ルベレス陛下からの密命により、極秘任務に当たっていたのです。崩壊の日以来、今日までずっと。ですが……状況が変わってしまった。故に、ディライアまで急いで来たのですが、こんなところで足止めを食らってしまっている」
「少し待たれよ。足止めとはどういう了見か? なんの連絡も寄越さず聖王宮を尋ねてこられたのは、貴殿のほうでしょう。我々は、聖王宮の秩序を護るものとして、当然の振る舞いをしているだけに過ぎません」
「しかし、こと国難のときに在っては、くだらぬ問答に時間を取られたくはないものでしょう」
「国難とは、どういう……」
「それは、王妃殿下、王子殿下に直接、お伝え申し上げる」
ミドガルドは、そこまで言い切ると、それ以降はヴェンデルのどのような質問にも応えなかった。まったくもって、微塵も、頑としていうことを聞かないミドガルドに対し、ヴェンデルは、なにかを諦めたかのように嘆息した。
「魔晶技師殿がそこまで仰るのであれば、致し方あるまいな……」
ヴェンデルを突き動かしたのは、ミドガルドの頑固さだけではなく、彼が会話にちりばめた不穏な言葉の力もあるに違いない。
近衛騎士団長には知らされていなかった国王直々の密命に従事していたということ。そして、それは“大破壊”以来の数年間、秘密を保たれていたというのに、いまになって明らかになったということ。内容こそ、秘密のままではあるが、魔晶技師が密命を帯びて任務に当たっていたという事実は、近衛騎士団長には衝撃的だったのだろう。
そして、国難。
王妃と王子に直接伝えなければならない、と、ミドガルドはいった。
ヴェンデルは、険しい顔つきを殊更に険しくしながら文書をしたためると、丁寧に折り畳み、案内役のひとりに手渡した。
「これを王妃殿下と王子殿下に」
「畏まりました」
騎士は、最敬礼でもって文書を受け取ると、すぐさま部屋を後にした。
「謁見の準備が整うまで、しばらく待たれよ」
ヴェンデルのどこか疲れたような表情は、ミドガルドとの対決に根負けしたことが原因なのだろうが。
ともかく、セツナたちは、ミドガルドの要望通り、王妃、王子に謁見する運びとなった。
別の部屋で待機している最中、セツナは、ミドガルドに小声で質問した。
「あんなこといって、だいじょうぶなんです?」
「もちろん。考えていますとも」
ミドガルドの自信に満ちた発言には安心させられる。
彼は、安請け合いはしない性格だ。できないことはできないというし、できることはできるという。はっきりしているのだ。それもこれも、技術者だからだろう。故に、できないことでも、できるかどうかを調べはする。その上で可能か不可能かを判断するのだ。
彼が考えているといったからには、なにかしら考えがあるのだろう。そしてそれには、どうやらマユリ神の協力が重要らしい。
女神の力が必要な考えとはどのようなものなのか。
セツナには、想像もつかない。
そうしていると、膝の上に乗せていた荷袋が蠢いた。中を覗き込めば、袋の暗闇を翡翠色の輝きが切り裂いていた。ラグナの目だ。
(いつまでこうしておればよいのじゃ?)
(もうしばらくは我慢してくれ)
(じゃから、いつまでじゃと聞いておる)
(俺がいいというまでだ)
(むむむ……)
不満げなラグナには同情を禁じ得ないが、今回ばかりは致し方がない。
人間態にであればなんの問題もなかったのだが、ラグナは、人間態をあまり好んではいなかった。なにせ、服を着なければならない、というのが、彼女にとっては厄介なことらしい。多少なりとも慣れたとはいえ、やはり、肌の上になにかを身につけるというのは、本来なにも身につけない竜属には気持ちの悪いことなのだろう。
そんなことを考えているうちに、部屋の外から呼び声があった。
謁見の準備が整ったのだ。




