第三千二十話 ルウファ、その試練(二)
シルフィードフェザーは、いった。
『君には、これから落ちてもらうんだけど、地面に激突しないようになんとかしてね。もちろん、召喚武装の力を借りずに、だよ』
彼の通告は、予想した範囲内のことではあったが、ルウファは、思わず憮然とした。なにもない高高度まで連れてこられたのだ。試練といって想像できることといえば、空から突き落とされることくらいしかない。ほかに思いついたことといえば、シルフィードフェザーの背中でなにかをする、ということだが、そんな生やさしいことが試練になるとも思えない。
試練というほどなのだ。
なにかしら、とてつもないことを要求してくるに違いないとは、想っていた。
『これは試練だ。君自身の力をぼくに示すための』
『いや、でもさ……ここから落ちて地面に激突したら、普通死ぬんだけど』
『そうしたら、それまでだよ』
シルフィードフェザーは、ルウファがぞっとするほどの冷ややかな声で、告げてきた。
『君の命も、ぼくとの契約も』
そして、ルウファは、空に投げ出された。
ルウファの心構えもなにもあったものではない。突如として巨大な圧力に背を押され、シルフィードフェザーの大きな、そして安心感のある背中から突き落とされたのだ。
足場などあろうはずもない空中へ。
一瞬にして重力の鎖がルウファの体を捉えた。いや、重力は常に働いていて、足場のない空中に放り出されたから引きずり下ろされ始めたというべきか。それも物凄まじい力と強引さで、だ。浮遊感が全身を包み込み、体中が緊張を発する。頭の中に警告が過ぎった。
眼下には、幾層もの雲が螺旋を描き、地上まで見下ろせるような空洞を開けている。その空洞こそ、シルフィードフェザーの足跡といってよく、彼は、雲海を突破する際、確かに回転していたことを想い出す。雲が螺旋を描いているのは、元々そうだったというのではなく、シルフィードフェザーの力の影響を多分に受けているに違いなかった。
その螺旋の先、遙か眼下に極彩色の森が広がっている。その彼方には海が見えた。どうやらこの世界の大陸のひとつのようであり、その大陸の大部分が七彩の森のようだ。つまり、シルフィードフェザーは、その大陸の大部分を支配下に置いているということであり、森の王として君臨する彼をことあるごとに召喚するのは、やはり、この森の鳥たちにとってよからぬことであるのは、確かなようだ。
(って、そんなこと考えている場合か!)
自分自身の暢気さに悪態をつきながら、ルウファは、凄まじい風圧と対峙していた。自由落下。為す術もなく、ただただ落ちていく。全身を包み込むのは緊張であり、風圧であり、重力であり、いずれもが彼の体の自由を奪っている。このままでは、地面に激突し、ばらばらになって砕け散るだけだ。
だが、シルフィードフェザーは、召喚武装を用いることなくなんとかしろ、という。
シルフィードフェザーがルウファの能力を過信しているわけもない。イルス・ヴァレの人間に空を飛ぶ能力がないことくらい承知のはずであり、ルウファの背中に突如として翼が生えてくるような異常事態を期待しているわけもない。空中浮遊能力を発現する奇跡が起こることもだ。
(どうしろと……)
頭上を仰ぎ、シルフィードフェザーを睨もうにも、凄まじい圧力は、体を自由に動かすことすら許さなかった。多少は動かせるが、そうしたところでなんの意味もない。
(これは、試練だ)
そして、試練には、解法があるはずだ。
解法もなく、個人の能力だけに打開策を求めるような試練であれば、ルウファは、シルフィードフェザーを恨みながら、呪いながら死ぬしかない。だが、ルウファと長年付き合いのあるシルフィードフェザーが、そんなことをするだろうか。
(そんなことはない。ありえない)
胸中、断言して、ルウファは、眼下に意識を集中した。
試練であり、召喚武装を使わずに突破しなければならないと示された以上、ルウファの能力だけでなんとかなるはずであり、解法があるはずだった。
全神経を研ぎ澄まし、眼下を見下ろしていれば、ふと、目に止まったものがある。それは、螺旋を描いて渦巻く雲海のただ中を駆け巡っているなにかであり、それこそが雲海に生まれた空洞を維持しているもののようだった。
つまり、シルフィードフェザーの置き土産なのではないか。
(あれか!?)
ルウファは、天啓を得て喜悦満面の笑みを浮かべたが、つぎの瞬間、表情を強張らせた。ルウファは、雲海の空洞、その真ん中を落下中だったのだ。空洞を維持するように螺旋を描くそれは、空洞の円周を走っていて、ルウファがどれだけ手を伸ばしても触れることすらかないそうになかったのだ。
(嘘だろ!?)
内心悲鳴を上げながら、それでもルウファは諦めない。諦めてなるものか、と、彼は奮起し、鼻息も荒く視線を巡らせる。どこかになにかがあるはずだ。この試練を突破するための解法、その一助となるものが
雲海の空洞へと落ちていくと、幾層にも積み重なった雲が描く多重螺旋がいかにも神秘的かつ幻想的であり、思わず見取れかけて、彼は頭を振った。危うくこのまま落下するところであり、肝を冷やしたが、同時に彼はそういう自分を嫌いになれなかった。
なぜならば、解法を見出したからだ。
雲海の空洞を維持し、螺旋を描いているのはシルフィードフェザーがその偉大な力によって生み出した気流であり、それは遙か眼下より雲海よりもさらなる高空に向かって上昇しているらしいことがわかったのだ。その上、気流の螺旋は、下方から情報に向かって広がっていて、つまり、地上に近づけば近づくほど螺旋の幅が狭まっているということだ。
ルウファはそこに光明を見出した。というより、ほかに解法もなにも思いつかない。
気流が遙か眼下にあることを信じて、重力に身を任せ、落ち続ける。
雲海を通過し、七彩の森が、地上が近づいてくる。
恐怖に身が竦む。全身が強張り、震えが止まらない。
当然の反応だ。シルフィードフェザーの助けも、召喚武装の助けもないのだ。このまま地上に激突すれば、その瞬間、ルウファの命は終わる。なにも為せぬまま、なにも残せぬまま、死んでしまうのだ。
脳裏に過ぎったのは、愛する妻エミルの姿であり、その瞬間、彼は奮い立った。
螺旋を描く気流の一筋が眼前に見えてきた。手を伸ばせばぎりぎり届く距離にそれはあり、彼は、思い切り腕を伸ばし、手を広げた。
気流は、まだ、遠い。
(もっと、もっとだ……!)
ルウファは、自分自身の体に強く命じた。体が裂けてもいい。骨が外れても、構わない。とにかく少しでも長く、遠く、腕を伸ばし、手を広げ、指を届かせるのだ。
そのとき、右手人差し指が落下による風圧とは異なるものを感じ取った。瞬間、歓喜の声を上げる間もなく、ルウファの全身を強大な力が包み込み、物凄まじい勢いで空中高くへと運ばれていった。雲海を貫く螺旋を描き、目まぐるしく流転する視界に、三半規管が狂うのではないかという速度での回転が全身を激しく揺さぶる。
そして、雲海を抜け、再び冷風吹き荒ぶ超高空へと投げ出されたかと思えば、シルフィードフェザーの大きな背中が眼下にあった。
その背が、ルウファを受け止めてくれたことで、ルウファは、ようやく安堵することができたものの、目が回り、なにもいえなかった。
「おめでとう。まずは、第一の試練を無事に終えることができたね」
シルフィードフェザーの声は優しくもあり、厳しくもあった。




