第三千十八話 ファリア、その試練(二)
呼吸を整え、心を静め、神経を研ぎ澄ます。
いつも以上の精神統一によって、ファリアの心には、堅牢にして頑強な難攻不落の城塞が組み上がり、天地に轟く雷鳴はおろか、大気の震撼とともに訪れる圧力に対しても微動だにしなくなっていた。体は、揺れる。しかし、体がどれだけ揺れても、心は揺れなかった。
難攻不落の心の城塞は、ファリアに不動の心構えを身につけさせたのだ。
そして、いつからか、祭壇の上に座っている必要すらなくなっていた。立ち上がり、目を開け、雷に彩られた世界を目の当たりにしている。
雷雲の表面を駆け巡る稲光も、雨のように降り注ぐ雷鳴も、大気を駆け抜ける圧力も、震動も、なにもかも受け止めながら、しかし、心は揺れない。震えない。揺れるのは山であり、体であり、心だけは、一切の動揺を受けなくなっていた。
なにも感じない。
人間にとっても恐怖の象徴でしかない雷鳴も、いまのファリアにとってはただの音に過ぎない。物凄く近くに聞こえているはずだというのに、心の城塞は、それを実感させなかった。遙か遠い出来事のように、彼女は感じ取っていた。
そして、それによってようやく見えてきたことがある。
(これが……世界……)
ファリアは、眼下に広がる荒涼たる大地に生命の息吹を感じ取ることできているという事実に驚きを覚えた。いまのいままでは、死せる大地のように見えていたのだ。それが、いまや絢爛たる生命に溢れ返っているようにしか見えない。
雷光が、轟音とともに降り注ぎ、大地に打ちつける。その瞬間、拡散した雷光が結晶樹や結晶岩を駆け巡り、それらに命の光を灯していく。それはあっという間に周囲一帯に広がっていき、広大な範囲に活気を漲らせる。命の光を浴びた結晶生物たちが口々に歓喜の声を上げ、その大合唱が天に向かって響くのだ。まるで、天に感謝するかのように。
雷が、この大地にとっての活力の源であり、命そのものといって過言ではない、という。
それがいま、実感として理解できた。
なぜいまのいままで理解できなかったのかも、はっきりとわかる。
簡単なことだ。
雷を恐れ、雷が荒れ狂う世界について、しっかりと観察しようとしなかったからだ。
いまや雷をものともしない難攻不落の城塞を心に築き上げたファリアだからこそ、じっくりと観察する余裕が生まれた、ということだろう。ただ、観察に注力すると、精神集中が疎かになりかねないため、それ以上の観察は諦めたが。
「もはや一切動じませんか」
不意に聞こえたのは、もちろん、オーロラストームの声だ。仰ぎ見れば、神々しいまでの結晶獣の姿が上空にあり、慈しみに満ちたまなざしをこちらに向けていた。
そのとき、空に瞬いた雷光が彼女を打ちつけたが、オーロラストームは微動だにしなかった。それどころか、雷を浴びた彼女の姿はより一層輝きを増し、より幻想的に、より美しく想えた。
「この短時間でよくぞ、というべきでしょうね。さすがはわたくしの契約者です」
オーロラストームの心からの賞賛を受けて、ファリアは、なんともいえなかった。
実際、ファリアが奉雷山の頂で試練を始めてから数時間しか経過していない。短時間といえば、短時間だろう。それもこれも、ファリアがこれまでに培ってきた経験と、積み上げてきたものがあるからだ。
武装召喚師としての修練の数々も、戦歴の数々も、決して無駄にはなっていない。
「じゃあ……」
「はい、ファリア。第一の試練は、見事合格ですよ」
オーロラストームの声音は、どこまでも優しく、柔らかい。まるで身も心も包み込まれるようであり、ともすれば、難攻不落の精神城塞すらも容易く崩壊してしまうのではないかと想えた。事実、雷鳴が先程までよりも遙かに近く聞こえて、彼女はすぐさま精神を集中し直さなければならなくなるほどだ。
オーロラストームの影響力というのは、極めて強大だ。
「合格……」
とはいえ、なにかを成し遂げたという実感が湧くようなことでもなかった。
精神の集中は、武装召喚師において基礎中の基礎といってもいい。精神を集中しなければ術式の完成はならず、武装召喚術の発動を為し得ないからだ。ただ呪文を唱えるだけで武装召喚術が発動するのであれば、だれもが武装召喚師になれるだろうし、あの世界に召喚武装は数多と溢れたことだろう。
術式を完成させ、さらに召喚武装を完璧に制御するには、精神の集中が必要不可欠だ。そして、集中した状態を維持することも、必須技能となる。精神を統一し、統一した精神を制御する。そうしなければ、召喚武装の強大な力に振り回され、ともすれば逆流現象を起こすことだってありうるのだ。
この試練は、ファリアにとってみれば通常の武装召喚師としての修練の延長のようなものだったのだ。
だからこそ、短時間で突破できたのであり、達成感も薄い。
「あなたにしてみれば、容易いことだったのでしょうが、つぎの試練を受けて戴くためにも必要不可欠なものと判断したのです」
「ええ……別に不服はないわ。おかげで精神的成長を遂げられた気がするもの」
「はい。あなたは間違いなく、この短時間で見違えるほどの成長を遂げましたよ」
オーロラストームのこの褒めちぎる言葉をそのまま素直に受け取っていいものかどうか、彼女は判断に迷った。オーロラストームがファリアに迎合する必要性は皆無だし、彼女が無理して持ち上げているつもりもないことは明らかなのだが、だからといって、ここまで賞賛されるほどのことなのか、と想わないではない。
短時間で劇的に成長することなど、ありえない、という現実的な考えもまた、ファリアの中にあったからだ。
確かに、成長はしただろう。
それまで雷鳴が響き渡るたびにびくりとし、心の鎧を打ち破られ、あるいは心の砦すらも打ち砕かれていたファリアが、いまや物凄まじい勢いで降り注ぎ、轟き渡る雷の前でも一切動揺することがなくなっているのだ。難攻不落の精神城塞を作り上げ、維持することができるようになったのは、成長というほかない。
だが、それを劇的といえるかどうかは微妙なところだ。
もちろん、オーロラストームが褒めてくれることそのものは嬉しいことだったが。
(……ああ、そういうこと)
ファリアは、自分が何故感動もせず、むしろ疑念を抱いているのかについて、ひとつの答えを自分の中に見た。
それこそ、難攻不落の城塞が、精神的動揺から心を護っているからだ。
雷鳴や衝撃といった外の世界の現象だけでなく、オーロラストームの心からの賞賛さえも、不動の心で対応してしまっているのだ。そしてそれは、当然のことでもあった。
精神的動揺とは、なにも悪いことばかりではない。心が揺さぶられるような出来事すべてを指し示すことであり、つまり、嬉しいこと、喜ばしいこともまた、それに該当するのだ。つまり、難攻不落の精神城塞は、そういった出来事からもファリアの心を護ってしまうのであり、時と場合によって使い分けなければならないということだ。
ただ、いま現在この精神城塞を解けば、雷鳴の雨の中でのたうち回ることになるため、ファリアは、オーロラストームに悪く思いつつも維持することとした。
「それで……つぎの試練は、なにかしら?」
ファリアが尋ねると、オーロラストームは、視線を大地に向けた。
その視線の先には、紅い結晶樹の森が広がっていた。
そこが、つぎの試練の場、なのだろう。




