第三千十六話 強がりと嘘(四)
またしても、セツナの腹が鳴った。さすがに三度目ともなると、神々も慣れた様子を見せたものの、セツナ当人は、というと、どこか気恥ずかしそうにしていた。それだけでなく、全身から活力が失われている様子が、その表情からも窺い知れる。
生気がない、とは、このようなことをいうのだろう。
そういった人間は、何度となく目にしてきている。
「このままだと飢え死にしそうなんだが」
「飲まず食わずで生き延びた人間がいるという話を聞いたこともあるがのう」
「そりゃあ、数日ならなんとかなるだろうが」
セツナがラグナの茶々入れを非難するように口先を尖らせると、それまで調整器の端末を操作していたミドガルドが、突如として口を挟んだ。
「では、食堂まで案内しましょうか」
「え? 食堂? 食堂があるんですか? ここに?」
「ええ、もちろん」
ミドガルドが当然のようにうなずく。魔晶人形の躯体から発せられるミドガルドの声というのは、未だにしっくりこないのだが、こればかりは時間をかけて慣れていくしかないのだろう。
彼がミドガルド本人ではないのだとしても、だ。
ウルクは、静かにふたりの会話を聞いていた。最愛の主と、創造主の人格を宿した魔晶人形。
ミドガルドは、死んだ。
黒陽神エベルによって、殺されたのだ。
それが、厳然たる事実だ。だが、同時に、現実として、ミドガルドの人格を移植された魔晶人形が存在し、その魔晶人形は、ミドガルドそのもののように振る舞っている。そこに違和感はなく、不快感もない。それどころか、順応している自分がいることにウルクは気づいている。彼がミドガルドであると認識し、それによって精神的脆弱性を補おうとしているのではないか。
ミドガルドが死んだという事実を、魔晶人形ミドガルドという現実によって覆い隠そうとしているのだ。
「この魔晶城は、わたしの人間時代にできあがったものですから」
「ああ、だから、食堂だってある……と。でも、食堂、ですか」
「いつかここには数多くの魔晶技師が溢れかえる――そんな夢を見て……いえ、違いますね」
「はあ」
「おそらくは、彼らへの弔いでしょう」
「弔い……」
「かつてここは研究施設でした。魔晶技術研究所という名の、研究所と兵器工場が一体化した複合施設。神聖ディール王国が国内の治安を完璧なものにし、また、国を発展させるため、という謳い文句で立ち上げられた当該施設は、聖王国における魔晶技術の中核といっても過言ではありませんでした」
ミドガルドの語りを聞くウルクの脳裏には、魔晶研究所での日常とでもいうべき光景が浮かんでいた。
そして想い出すのは、ウルクの起動実験が成功したあの日のことだ。
後に研究所職員たちによって奇跡の日と呼ばれることになった、大陸暦五百二年五月五日。
それがセツナの誕生日であるということは奇縁でもなんでもなく、セツナの誕生日だったからこそ起こった奇跡だということは、後々に知った。
アズマリア=アルテマックスがセツナの誕生日に対する贈り物として差し向けたのが飛竜としてのラグナであり、セツナは、飛竜を討伐するために黒き矛の力を解き放ったという。そしてそれによって世界中に拡散したセツナの波光が、ウルクを目覚めさせたのだ。
その瞬間のことは、もっとも鮮明に覚えている。
突如、光が満ちた。
そして、自分という存在が誕生し、それをミドガルドを始めとする多くの研究員、技師、職員たちが盛大に祝福してくれた。
そのときは、それによって自分の中に起こった変調については、なにも理解できなかった。
知識がなかったからだ。
いまならば、わかる。
嬉しかったのだ。
この上なく嬉しくて、喜びで満ち溢れたのだ。
だれもが満面の笑みで迎え入れてくれた、その瞬間、その光景。
それもいまやすべて失われた。失われて死また。
「そう、ここにはわたし以外にも多くの技師がいたのです。魔晶技術の研究に携わるもの、兵器開発に携わるもの、施設の管理や運営には数多くの人員が必要でしたし、それこそ、国を挙げての施設です。国中からひとびとが集まり、研究所を中心とする都市となっていったのも、必然だったのでしょう」
「研究都市……」
「ええ、まさにそう。研究都市」
ミドガルドが感慨と感傷を込めて、いった。
「わたしがここに帰り着いたときには、すべてが失われてしまっていました。研究都市とでもいうべき施設群は崩壊し、生存者はひとりとしていなかった」
セツナたちのいう“大破壊”が、魔晶技術研究所を壊滅させてしまったのだ。そして、そこにいただろうすべてのひとびとの命を奪った。“大破壊”を生き延びたものはいたかもしれない。だが、ミドガルドがここに辿り着いたときには、だれもいなかったのだ。生き延びることはできたとしても、生き続けることは出来なかったか、ここを去ったか。
後者であることを願いたいが、エベルが、研究所職員を生かしてくれるものかどうか。
「わたしは、魔晶城に彼らの墓所を作りましたが、それだけでは心に空いた穴を埋めることはかなわなかった。故に、かつての研究所にあった施設を再現し、みずからの心を慰めようとしていたのかもしれません」
それも、エベルへの復讐心に駆られるうちに忘却の彼方に置き忘れてしまった、というが。
ミドガルドの声音には、哀惜の念が多分に含まれており、その想いは、ウルクにしっかりと伝わっていた。たとえ人形に移された心であったとしても、確かに彼は、ミドガルドなのだ、と、彼女は想った。
「……少し、感傷に浸りすぎましたな。では、案内しましょう」
「え、あ、はい……って、ラグナ?」
セツナは、ミドガルドについていきかけて、頭の上から飛び立った小飛竜を目で追いかけた。それは、ウルクにとっても驚くような出来事だった。というのも、普段ならば、どんな些細な用事であっても、ラグナはセツナについていくからだ。
ラグナはというと、小さな翼を羽撃かせながら飛び回り、ウルクの膝の上に降り立った。
「わしはここに残るぞ。おぬしのように腹を鳴かせる奇怪な生き物ではないからのう」
「よくいう。なにも食わずに生きていられるおまえのほうがよっぽど奇怪だよ」
「ふふん、ここにおる連中のうち、腹が鳴るのはおぬしだけじゃ」
「そりゃあそうだ」
セツナは、ラグナに向かって呆れ果てたように渋い顔をすると、ウルクたちと軽く言葉を交わして部屋を出て行った。
室内が先程までとは比べものにならないほどの静寂に包まれるまで、然程の時間もかからなかった。あっという間といっていい。
マユリ神だけでなく、神々はだれもが沈黙し、なにか考え事をしているようだったし、イルもエルも言語機能を持たない上、ウルク自身、積極的に喋るような性格の持ち主ではない。一番活発なラグナも話し相手がいなければ、丸くなって眠るのが普通だ。
そうなれば、自然、静寂が訪れるものだ。
そしてそれは、必ずしも心地の悪いものでもない。
そんな静寂を破ったのは、やはりというかなんというべきか、ラグナだった。
「……嘘じゃな」
「嘘、ですか?」
ウルクは、きょとんと、膝の上の小飛竜を見下ろした。翡翠色の小さな生き物は、いまや姿の見えなくなったセツナが潜り抜けていった扉の方向に、首を向けている。
「うむ。嘘じゃ」
「なにが、嘘なのでしょう?」
ラグナはなにやら確信をもっていってくるのだが、ウルクには、なにがなんだかわからない。
「わしらが愛しき主の言葉がじゃ」
「セツナの言葉が、ですか」
「そうじゃ」
ラグナのいいたいことは、やはり、ウルクには皆目見当もつかない。セツナが嘘をいうはずがない、という大前提があるから、というわけではない。嘘をつく理由がない、と、彼女は考えている。
「なにが、だいじょうぶ、なのじゃ」
ラグナのその発言に込められた複雑な感情の正体も、ウルクには理解できず、混乱は深まるばかりだった。