第三千十四話 強がりと嘘(二)
話によれば、セツナは、半日ほど、調整器の中にいたらしい。
最初のうちはなんの変化もなかったが、しばらくしてセツナの脳が睡眠状態に移行したことで、ミドガルドは多少、安堵したという。なにが起きているのかはわからないものの、セツナが紛れもなく生きていることを確認できたからだ。
調整器でどのように脳の状態を確認しているのかは、専門家であるミドガルドにしかわからないことであり、説明を聞いたところで魔晶技術の専門的な知識を持ち合わせていないセツナには、ほとんど理解できないに違いなかった。おそらくは、魔晶人形の躯体を検査する際に用いる技術の応用なのだろうが。
とはいえ、竜王や神々の力を総動員しても、セツナの身になにが起きているのかがわからず、ミドガルドは大いに頭を悩ませたという。どうにかできないかとあらゆる方法を試し、いずれも失敗に終わったとのことだ。
そして、時間ばかりが過ぎていった。
「おぬしの目覚めを待っている間に夜が明けたぞ」
「しっかり眠れたか?」
「眠れるわけがなかろう」
ラグナが憤慨してセツナの頭皮に噛みついてきたが、それは彼女なりの愛情表現としか言い様がないだろう。小飛竜態のラグナにならば噛まれても痛くもなんともないのだ。じゃれついてきているだけに過ぎない。が、彼女のいいたいこともわかる。
セツナの無事が確認できなければ、眠れるはずがない、ということだ。それだけ彼女が想ってくれているということであり、セツナは、素直に感謝した。
「ありがとう」
「な、なんじゃ、突然」
「嬉しいよ、ラグナ」
「む、むう……」
ラグナは、なにやら感じ入ったらしく、噛みつき攻撃を止めると、頭の上で丸くなった。
「しかし……感覚の断絶……ですか」
ミドガルドが困り果てたような声を上げるのを聞いて、セツナは、彼を見た。ちなみに、セツナは、ミドガルドたちに説明し、あるいは説明を受けるときに調整器の中から抜け出している。イルとエルが用意してくれた椅子に腰を落ち着けて、皆と話し合っていたのだ。
身体的にはなんの異常も見受けられないにも関わらず、感覚だけが断絶されている、という感覚。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚――ありとあらゆる感覚が失われていくことの恐怖は、いまもはっきりと覚えている。世界が遠ざかり、無縁のものとなった瞬間、絶望的な暗闇が意識を包み込んだ。もう二度と元に戻れないのではないか。もう二度と、皆の声を聞くことも、皆と触れ合うことも、皆と分かち合うこともできないのではないか。
それは、絶望以外のなにものでもない。
「それが呪いなのだ。神の」
マユリ神は、秀麗な顔に眉根を寄せ、真剣そのものといった表情だった。
「既にその兆候はあったが、しかし、まさか、それほどまでに深刻なものだったとはな」
「アシュトラの呪いだったか」
「まさかあいつが人間を呪うとはな!」
「考え得る限り最悪最低の行いでございます」
マユリ神に続き、アシュトラに対する限りない嫌悪を向けた発言をしたのは、ミドガルドの同志たちだ。三柱の神々は、アシュトラとともに合一し、至高神ヴァシュタラとなったことのある神々でもあるのだ。アシュトラの性質については、セツナ以上に詳しいはずだ。
「いやいや」
セツナは、手をひらひらさせて、皆にいった。
「深刻に捉えすぎですって。なんたってこうして元に戻ったんですし」
そう、自分に言い聞かせる。
マユリ神の評価が、胸に突き刺さっている。深刻なもの。深刻。いわれずとも、わかりきっていることだ。全感覚が失われ、身動きひとつ取れなくなっていたのだ。今回は、運良く、敵のいない場所で起きたからいいが、それがもし、戦っている最中に起きたらどうなっていたのか。
もし、エベルとの戦いの真っ只中で起きていたら。
そう考えると、背筋が凍り、肝が冷える。
為す術もなく殺されるだけだ。
敵がセツナに遠慮してくれるはずもない。
だからこそ、こうして軽く捉え、意識の外に放り出そうとしているのだ。
「軽く考えられることではないし、考えるべきではないぞ、セツナよ」
(わかってるさ、そんなこと)
「おまえの存在にこの世界の未来がかかっているといっても、過言ではないのだ」
(でも、だったら、どうしたらいい?)
セツナは、マユリ神の金色の瞳を見つめながら、自問する。
(どうすれば、解決するっていうんだ?)
セツナは、呪われてしまった。その呪いの力が、セツナの感覚を断絶したというのであれば、解決するには、呪いを解く以外に方法はない。
呪いを解く一般的な方法として聞かされたのは、呪った張本人に許しを得るということだ。そうすれば、呪いは解け、元に戻るのだ、と。
しかし、セツナを呪った邪神アシュトラは、人間を呪ったが故にみずからも呪われて神の座を追われ、その上でトウヤと名乗った男たちに殺された、という。
トウヤは、さらにいった。
獅子神皇ならば、呪いを解くことができる、と。
神々のトウヤの発言に対する考えは、こうだ。呪いとは、本来ならば呪いをかけた張本人にしか解けないものだが、神々の王たる獅子神皇ならば、それも不可能ではないかもしれない、と。獅子神皇は、かつてこの世界を改変した聖皇の力の器だ。世界を改変するだけの力ならば、呪いを改変することくらい、容易いのではないか。
では、獅子神皇に会えば、簡単に呪いを解いてもらえるのか、といえば、そんなことはありえない。
なんらかの交換条件が必要となるだろうし、獅子神皇は、その場合、セツナに絶対の忠誠を求めるかもしれない。そうでなくとも、セツナにとって重大ななにかを差し出さなければならなくなるだろう。
それはできない。
それだけは、決して。
つまり、呪われたまま、生きていくしかない、ということだ。
(だったら、考えないようにするしかないだろ)
といいたいのだが、いわなかった。
いわずに、考えを巡らせる神々の言葉を上の空で聞いていた。
マユリ神はもちろんのこと、ラダナス神とミュゼ神は、セツナに同情的だったが、フォロウ神だけは、魔王の杖の護持者であるセツナを忌み嫌い、積極的に意見を述べなかった。セツナと魔王の杖のおかげでエベルが滅ぼせたことは喜ばしいことだったし、それに関しては感謝こそしているが、それはそれ、これはこれ、とでもいいたげな態度だった。
セツナにしても、どうでもいいことだ。
彼らはミドガルドの同志であって、今回は、目的が一致したから協力しただけのことであり、これから先も力を貸してくれるとは思ってもいなかった。協力関係が結べるのであればそれに越したことはない。が、強要できることでもない。
神々にとって、魔王の杖ほど忌々しいものはないのだ。
一時的とはいえ、協力関係を結んだことすら、神々にとっては好ましくないことなのではないか。
そんなことを、ぼんやりと考える。
そうやっていられるのも、こうしてすべての感覚が正常に戻ってきたからだ。もしいまも感覚が断絶されたままだったら、と、考えると、それだけで身が竦む思いだった。
もう二度と、あのような感覚は味わいたくなかった。
絶対的な孤独感。
それは永遠の暗黒の中に投げ入れられたようであり、無明の闇の中に閉じ込められたかのようであり、しかし、実際にはまるで異なるものだった。
すべての感覚がないのだ。
生きているのか、死んでいるのかもわからないまま、意識だけが存在していた。
あのまま意識を保ち続けるようなことになれば、いずれ発狂したのではないか。
「セツナ。本当にだいじょうぶですか?」
ウルクの手が肩に触れていた。その柔らかな体温は、肆號躯体ならではだ。
「ああ、だいじょうぶ」
セツナは、彼女の手に手を置いて、嘘をついた。
だいじょうぶなわけがなかった。
それでも、強がるしかない。