第三千十三話 強がりと嘘(一)
あのとき、なんと答えたのか。
セツナは、判然としない意識の中で頭を振った。よく想い出せない。記憶の中が混沌としていて、明確な形であのときの光景を思い浮かべることができなくなっていた。魔王の言葉すら、いまや記憶の中でばらばらになってしまっている。
まるで地獄の出来事を忘れさせるような処理でも働いているかのような、そんな感覚。
(感覚……?)
ふと、気づく。
頭を振った、という感覚があった。
感覚だけではなく、実際に首が曲がり、頭が横倒しになってなにかに触れた感触が顔面を走ったのだ。同時に痛みが生じたのは、あまりに強く首を横に振ったせいでぶつかったからだ。その衝撃が頭蓋に走り、わずかばかりに脳を揺らした。目の奥で火花が散ったような気がする。
金属製のなにかに勢いよく頭をぶつけたときと同じような痛みだ。
痛み。
(痛い……!?)
セツナはその瞬間、内心狂喜乱舞した。
それはまさに痛覚が正常に機能していることの証明であり、同時に聴覚や触覚が機能していることも理解できてきた。嗅覚が捉えるのは金属製品のにおいであり、触覚が認識するのは、冷たい硬質な板のようなものだ。おそらく金属製の板の上で、仰向けに寝かされているのだろう。
そこまで感覚だけで把握できたということはつまり、意識を失い、眠りにつく前に失われていた感覚がなんらかの理由で復活したということにほかならない。
(目は? 目はどうなんだ!?)
真っ暗な視界に突如として光が差し込んできたのは、閉じたままだった瞼を勢いをつけてこじ開けたからだ。その眩しさに思わず目を閉じてしまったことに苦笑しつつ、その中に大いなる喜びを交える。視界に広がるのは見知らぬ光景ではあったが、側面から降り注ぐ冷ややかな光には親近感があったし、やけに冷たい金属製の板にも見覚えがないではなかった。
全身が喜びに沸き立っている。あらゆる感覚の復活が、鼓動の高鳴りを感じさせ、血の脈動が全身に体温の熱さを覚えさせる。燃えるようだ。まるで、体中が太陽に灼かれているような、そんな感覚さえ抱くほどの熱量が冷え切っていた体を内側から包み込んでいく。
骨を、内臓を、肉を、皮膚を、全身のありとあらゆる部分部位の存在を知覚し、実感する。
両手両脚の感覚を確かめながら、首を横に振り、仰向けになれば、視界にはさらなる光が飛び込んできた。高い天井に設置された魔晶灯の光が目一杯に飛び込んできて、視界を彩る。透かさず上体を起こして、その瞬間、なにかが額に激突した。強烈な衝撃とともに激痛が生じ、目の奥で火花が散る。
予期せぬ出来事に茫然としていると、なにかが音を立てた。すると、次第に正常化していく視界の中で、どうやら目の前にあったらしい透き通った壁のようなものが遠ざかっていった。両開きの扉が開いていくようにだ。
そこでようやく、セツナは自分がどのような状況にあるのかを察した。
おそらく、だが、あらゆる感覚が断絶したことで、セツナは身動きひとつ出来なくなっていたに違いなかった。それはなんの前触れもない突然の出来事であり、ラグナやウルクたちを驚かせ、大騒動となったことは想像に難くない。そして、セツナを元に戻すための様々な方法を試したのだろう。
そのひとつが、この魔晶人形用の調整器に違いない。
セツナは、調整器の中で目を覚ましたのだ。
「なんとも威勢のいい目覚め方じゃのう」
などと、目の前にひらひらと飛んできたのは、もちろん、小飛竜態のラグナだ。彼女は、セツナの顔を覗き込むようにして、少しばかり安堵したようだった。セツナが正常な状態に戻ったことを確認できたから、だろう。
「おかげではっきりすっきり目が覚めたよ」
「心配して損した気がするがの」
「そういうなよ。俺だって、心配させたくてこうなったわけじゃない」
「わかっておるが」
ラグナはそういいつつ、セツナの頭の上に降り立った。そして、やにわにくつろぎ始めた様子からは、彼女がもう心配していないらしいことが窺い知れる。
「しかし、先輩の仰るとおり、心配したのは事実です」
ウルクが視界に入り込んできて、いった。肆號躯体によって豊かになった表情は、彼女自身がとてつもなく心配していたことをセツナにはっきりと伝えてくる。これまでなんとなく伝わってきていた感情が、明確にわかるようになったのだ。それはとてつもなく大きな変化といっていいだろう。
それだけに、セツナは、彼女に対して申し訳ない気持ちで一杯になった。
「ウルク……」
「セツナ。もう、だいじょうぶなのですか?」
「ああ、なんともない。だいじょうぶだ。心配をかけて、済まなかったな」
「いえ。主のことを考えるのは、下僕として当然のことです」
「そうじゃそうじゃ」
「……ああ」
ウルクとラグナの、レムから続く下僕ごっこは、こういうとき、セツナの気分を多少なりとも軽くしてくれるのがありがたかった。もちろん、本人たちは本気で下僕という立場にあるのはわかっているし、揶揄するつもりもない。
「セツナ殿が元の状態に戻られたことは喜ばしい限りですが、しかし、いったいなにが起こったのか、こちらではなにひとつわからないというのは、少々……いえ、大きな問題ですな」
そういって話しかけてきたのは、ミドガルドだ。声は、セツナのちょうど真後ろから聞こえてきたため、彼を視界に収めるためには調整器を出る必要があった。
「わからないってのは?」
「言葉通りの意味ですよ。セツナ殿に調整器の中に入って頂いたのは、調整器の機能でもってその体に起きている変調をどうにか捉えることができないものか、と考えたからです。もし、体の何処かになんらかの異常が生じているのであれば、間違いなく把握できるはずなのですが……」
「変調も異常も発見できなかった、と」
「ええ。セツナ殿の身には、確かに異常事態が起きていたというのにも関わらず、です」
ミドガルドの発言からわかったのは、セツナが全感覚を断絶されている間も身体的な機能には一切の問題がなかったということだ。心臓も呼吸器官もあらゆる内臓、あらゆる部分が正常に機能していた。だからこそ、セツナはなんの問題もなく覚醒し、体もすぐさま動いたのだ。
これがもし、感覚だけでなく、身体機能までもが損なわれるような事態であれば、死んでしまっていたのではないか。
「セツナ殿が起き上がる兆候すら確認できなかったのも、そのためですな。あらゆる機能が正常に働いていたのですから、なんの変化も確認できないのは当然のこと」
もちろん、セツナの脳が覚醒状態から睡眠状態に移行し、そこからさらに覚醒状態に移行したということは認識していたようだが、それでセツナが飛び起きるとは、ミドガルドも想定していなかったようだ。そのせいで調整器の蓋を開くのが遅れ、セツナは額をぶつけることになってしまった。
ふたつに分かれた調整器の蓋と見れば、一部分が綺麗に透き通っていることがわかる。頭の辺りだけがそうなっているのは、調整器の中に収めた対象の様子を確認するためなのだろうが、だとすると、疑問が湧く。調整器は元来魔晶人形のためのものであり、魔晶人形の顔や表情を確認する必要があるのか、ということだ。
とすれば、この調整器は、魔晶人形のためというよりは、人間のために作られたものなのではないか。
「セツナ殿は、御自分がどのような状態であられたのか、覚えておいでですか? もし、説明できるのでしたら、後学のためにもお教え願いたい」
「え、ええ。もちろんです」
セツナは、静かにうなずくと、ミドガルドだけでなく、その室内にいた全員に対し、自分の身に起きたことを説明した。
無論、夢に見た記憶のことは、除いて、だ。




