第三千十二話 世界の命運を握るもの
中段に至れば、六眷属の視線が集中した。
いずれも、好意的な視線だったように想うのだが、それもまた勝手な勘違いかもしれないし、気のせいかもしれない。だが、メイルオブドーターがいまにも飛びついてきそうなほどの反応を見せていたのは、間違いなく事実であり、セツナは、彼女の興奮ぶりに多少、気勢を削がれかけた。
が、そんなことで目的を見失うわけにはいかない。
中段を越え、さらに階段を昇っていく。
「まだ、求めるか」
「ああ。もっと、もっとだ」
「おまえほど欲深いものは、そうはいないだろう」
「百万世界一だって、褒められたよ」
「あれを褒め言葉と受け取るとはな」
魔王が苦笑を禁じ得ないとでもいわんばかりにいってきたが、セツナは構わなかった。魔王がどう想おうが、眷属たちがなにを感じようが知ったことではない。
セツナにいまできることはひとつしかないのだ。
魔王と交渉するということ。
魔王が黒き矛、カオスブリンガーだというのであれば、それ以外に道はない。彼と話し合い、彼に認めさせ、彼の力をさらに引き出せるようになることだけが、いま、セツナに求められることだろう。
それだけで手っ取り早く強くなれるとは考えてもいないが、少なくとも、いままで以上の結果を出せるようにはなるのではないか。
長い長い階段を一段一段、確実に昇っていく。
「おまえは暢気だな。楽観的で、希望に満ち溢れている」
「そうかな」
「そうだよ」
魔王が厳かに肯定する。魔王の一言一言は、強力無比な魔法そのものといってよく、セツナは、むしろ自分がなぜ耐えられているのか不思議でならないほどだった。ただの常人が耳にすれば、その魔力の前に為す術もないはずだ。たとえその言葉になんの意味も与えてなかったとしても、だ。
最初のように雷に撃たれたかのような衝撃の中で、平伏すしかないのではないか。
だが、セツナは、そうならなかった。魔王の言葉が持つ強大な力をしっかりと把握しながら、しかし、階段を上る足を止めないのだ。
「この絶望に満ちた地獄では、おまえのような存在はあまりにも眩しく、目に痛い」
「だったら、さっさと諦めて俺に力を貸してくれよ。そうしたら、まあ、なんとかしてこの地獄を出て行くからさ」
「我に諦めろ、と」
「ああ。俺が諦めない以上、あんたが折れるしかないからな」
「まったく……おまえという奴は」
魔王が呆れ果てたようにいった。
「我をだれと心得る」
「カオスブリンガーだろ」
セツナが即答すると、さすがの魔王も嘆息するほかなかったようだ。その表情には、セツナに対する呆れがたっぷりと刻みつけられている。依然、威厳に満ちた様子ではあるのだが、どうにもセツナには、その威厳と圧迫感が通用しないらしい。
「それはおまえがつけた名だ」
「だが、あんた自身が名乗った」
セツナが告げれば、魔王は、虚を突かれたような顔をした。その表情に親近感を抱くのは、不遜だろうか。
「確かに、そうだよねえ」
「まったくだ」
「こいつぁ、一本取られましたな」
眷属たちが口々に笑いながら囃し立てると、さすがの魔王もバツが悪くなったようだった。
「だからなんだというのだ」
「カオスブリンガーは、俺と契約してくれたんだろ? だから、俺の召喚に応じ、力を貸してくれた。そうだよな」
「そうだ。我は我を呼ぶおまえの声に応じ、おまえとの魂の契約書に署名した。そのときより、我とおまえは、魂の結びつきを得たのだ」
「魂の結びつき……」
セツナは、彼のその言葉を反芻しながら、胸に手を当てた。心臓に魂が宿っているというわけでもないだろうが、つい、そうしてしまう。そして、鼓動を聞き、顔を上げる。
魔王は、元の威厳に満ちた表情に戻っていた。
「おまえは、疾うに力を振るう資格を得ていた、ということだよ」
「……じゃあ、俺がここに堕ちてきた意味はなかった、ってことか?」
「そういうことではない」
彼は頭を振った。そして、問うてくる。
「おまえは、この地獄での時間が無駄だったと想うか?」
「……そうは想わないな」
地獄での試練は、すべてに意味があったと胸を張っていえる。
ランカイン、ウェイン、ルクスの試練も、鍵の試練も、すべて、セツナの血となり、肉となっている。肉体的にはなんの鍛錬にもならなかったかもしれないが、精神的には、大いに鍛え上げられたはずだ。それこそ、鋼のような精神になったのではないか。
何度となく殺され、幾度となく死んだ。
数え切れないほどの生と死の振幅は、結局のところ、本当のことではない。この夢想のような地獄における仮初めの生と死だ。しかし、確かに実感があり、極めて現実的なもののように想えたし、そこで培った経験は、なかったことになっていないのだ。
たとえこの地獄の夢から醒めたとしても、記憶に刻みつけられた経験が消え去ることはあるまい。
「そもそも、おまえがここに堕ちてくることは、さだめられていたことなのだよ」
「え……?」
「おまえが我を呼び、我を手にしたその瞬間、おまえの運命は決まった。決まってしまった」
魔王は、告げる。冷ややかに。凍てつくほどの声音で。
セツナは、階段を上る足を止めて、聞き入るしかなかった。
「おまえは魔王の杖の護持者となった。魔王の使い魔と成り果て、百万世界の混沌の種となってしまった。もはや時は戻せぬ。もはや、やり直すことはかなわぬ。おまえは、災厄の申し子となり、血塗られた道を歩むさだめを背負ったのだ」
「……さだめ……」
「おまえの進む先にはあらゆる困難が待ち受けているだろう。だが、おまえはそれを打ち砕き、破壊し、滅ぼしてでも前に進む。おまえの後に残るのは絶望の荒野であり、厄災の爪痕だけだ。すべてのものがおまえを恨み、憎み、妬み、呪うのだ。闇だけがおまえを受け入れる。闇だけが、おまえを包み込む。おまえの未来に希望などはなく、無窮の闇が口を開けているだけだ」
魔王は、ただ、淡々と続けた。それはセツナを脅しているわけでもなんでもなく、ただ事実を述べているからだろう。
「魔王の杖を手に取るとは、つまり、そういうことなのだ」
「俺は……」
「おまえは、我を使いこなすことが出来れば、それですべてが解決すると想っている。だが、現実はそう簡単にはいかない。おまえが我が力のすべてを解き放てば、そのとき、彼の世界は終焉を迎えると心得よ」
唐突に突きつけられたのは、予想だにしない言葉だった。
魔王の表情にも声音にも嘘はなく、故に真実であると受け入れられる。いや、受け入れるしかなくなる。
黒き矛には、世界に終焉をもたらすほどの力が秘められているという真実だ。
「なにをいって……」
思わず声を上擦らせたものの、セツナに理解できないことでもなかった。
カオスブリンガーの力の強大さについては、イルス・ヴァレにいるころから常々、空恐ろしく思っていたものだった。望めば望むほど、求めれば求めるほど、黒き矛は力を発揮し、セツナが思い描く以上に力を発揮した。神々が魔王の杖と恐れ、敵視するほどだということが明らかになると、さらにその力が大きいことがわかった。
圧倒的な力を秘めている。
しかしそれは、セツナにとってはむしろありがたいことだったし、ガンディアの躍進に大いに役立ったのだ。
だから、カオスブリンガーが大いなる力を秘めていることそのものになんの疑問も抱かなかったし、たとえさらに強大な力を秘めているのだとしても、世界を滅ぼすほどのものである、などとは想像しようもなかった。
それはそうだろう。
たかが異世界の武器が世界を滅ぼすほどの力を持っているなど、考えつくはずもない。
「それでもなお、おまえは我を求め、我を望み、我を願うか?」
魔王は、問うてきた。
「世界を滅ぼしかねない力を制御してみせると、いうか?」
それは、世界の命運をかけた質問だったのかもしれない。