第三千十一話 百万世界の魔王
なにがきっかけだったのか。
無明の暗黒空間だったその領域が次第に明るくなっていったことで、魔王の座の全容が明らかなものとなっていく。光が生じたわけではない。取り巻く闇が薄く、弱くなっていったのだろう。それによって視界が広がっていったのだ。
なにもかもが闇に包み込まれ、黒く塗り潰されていた空間の本当の姿。それこそ、謁見の間と呼ぶに相応しい空間といっていいのかもしれない。
広い空間だった。床に敷き詰められているのは磨き抜かれた黒曜石のようだったが、黒曜石とは大いに異なるものだ。なぜならば床の上にいるものの姿を鏡のように反射して映し出しているからであり、セツナは、床に映り込む自分の姿をはっきりと見た。
地獄に堕ちて以来の姿のままの自分に安堵する。
天井は、遙か頭上に存在するのだろうが、いくら周囲を取り巻く闇が薄くなっても見えなかった。その天井を支える柱は、よく見える。
とてつもなく太い柱だった。一面に複雑かつ繊細で禍々しい細工が施され、螺旋を描く構造をした柱が何本も並び立ち、この部屋を支えているのだ。
柱と柱の間には黒い帳がかけられていて、それが闇をより濃くしているように思えたが、実際のところはどうなのかわからない。帳は、闇そのもののようにそこにあり、内と外をわけ隔てているようだった。
そして、魔王の玉座。
魔王の玉座は、この広い空間にあってもっとも高い場所にある。
セツナの居場所が最下段であり、最下段がこの空間で一番広く作られている。最下段から遠く離れた場所から階段状の段差が始まり、中段辺りに六眷属が立っていた。半ば闇に溶けていた彼らの姿は、いまならばよりはっきりと認識できるだけでなく、格好までも変わっているようだった。
たとえば、メイルオブドーターはその豊満かつ肉感的な肢体を思う存分見せつけられるような刺激的な衣装に変わっていたし、アックスオブアンビションは彼自身の猛々しさを象徴するかのような甲冑を身に纏っていた。
ランスオブデザイアは軽装の鎧に身を固め、ロッドオブエンヴィーはゆったりとした長衣を身につけている。
マスクオブディスペアは儀礼的な衣服を纏い、エッジオブサーストは軽装だった。
いずれにせよ、先程までの姿とはまるで異なる格好であり、セツナはそのことに気づいて、多少驚きを覚えた。だが、すぐに理解する。セツナと魔王の対面という名の儀式を終えたからこそ、彼らは本来在るべき姿に戻ったのだ。
眷属たちの常態。
それがなんとなくわかってくるのは、どういうわけなのか。
それもまた、理解できる。
六眷属たちの佇む中段からさらに上段へと視線を上げていき、最上段に至れば、魔王の玉座に辿り着く。魔王が腰を下ろす玉座もまた、先程までと姿形を変えているようだった。仰々しく、そして禍々しいとしかいいようのない玉座。この世の負なるものを一点に凝縮し、作り上げたような、そんな印象を受ける。邪悪、と、いっていいだろう。
魔王なのだ。
その座に相応しいものとなれば、そうもなろう。
魔王自身の見た目にもまた、変化があった。
黒髪に紅い目の男であることに違いはない。変化があったのは、その身につけているものたちだ。闇に溶けるような黒衣ではなく、甲冑。そして、長衣。黒く、昏く、禍々しく、重厚感たっぷりの甲冑は、それこそ、魔王に相応しい。頭上には冠を戴き、魔なる者共の王であることを主張しているかのようだった。冠だけではない。彼の全身を包み込む甲冑が、長衣が、いや、存在そのものが、百万世界の魔王であることを主張して止まない。
圧倒的な存在感があった。
いままで以上に重々しい威圧感を段上から感じるものの、セツナは、もはや気後れするようなことはなかった。
ただまっすぐ、魔王を見つめる。
魔王も、まっすぐにこちらを見つめている。
燃え盛る炎より赤く、血よりも紅いまなざし。
「セツナよ。我が契約者よ。我が小さき半身よ」
魔王が、口を開いた。声は、やはり雷鳴のように轟き、しかし、セツナを撃ち抜かなかった。ただ、胸に響く。わけもなく心が震えている。それが魔王の力だということは、考えるまでもない。ただ言葉を発するだけで周囲に多大な影響を与えるのだ。
でなければ、百万世界の魔王などとはいわれまい。
でなければ、百万世界の神々に敵視されまい。
「おまえは、力を欲している。大いなる力を。彼の世の理不尽をねじ伏せる、理不尽なまでの力を。そうだな」
「ああ」
肯定する。
最初は、そうではなかった。
ただ目の前の、いや、身の回りの大切なひとびとを護れるだけの力があればいい、と想った。だが、それだけではどうしようもない現実が何度となく立ちはだかり、そのたびにセツナは力を求めた。力を求め、力を望み、力を欲した。幾度となく体を鍛え、心を鍛え、己を鍛えた。そうして得た力は、そのたびに敵を斃し、敵を屠り、敵を滅ぼした。
それでも、足りない。
「そのためにここにいる」
セツナは告げ、一歩、前に進んだ。なぜだか、魔王に近づかなければならない気がした。それは気のせいかもしれないし、勝手な勘違いかもしれない。だが、だれひとりとしてセツナの行動を咎めず、止めようともしないということは、そうしていい、ということなのだろうと判断する。
「俺は力が欲しい。ただの力じゃない。あんたの力だ」
また一歩、さらに一歩と前に進む。そのたびに力が湧いた。勇気が湧いた。いまのいままで魔王の迫力に押し負けていた心が奮い立つ、そんな気がした。
「我の力……か」
「カオスブリンガー」
セツナは、そう呼んだ。みずからがつけた黒き矛の呼び名。セツナ自身、黒き矛と呼ぶことが多いものの、つけた名称は、カオスブリンガーなのだ。戦場に混沌をもたらすものに相応しい名前だと、セツナは自負しているし、気に入っている。
黒き矛の化身も、気に入ってくれてはいたはずだ。
つまり魔王自身が、気に入っている。
魔王が目を細めたのは、そのためなのかどうか。
「あんたの力がいるんだ」
階段を一段、また一段と昇っていく。
「俺はただの人間だからな。師匠から学んだ呼吸法だけじゃあ、あの世界で戦い抜けない。そりゃあ常人に比べりゃ強くはなったんだろうけどさ」
戦竜呼法によって身体能力を最大限に引き出す術を得たいま、イルス・ヴァレの人間の中でも最高水準の実力者になったのではないか。もちろん、上には上がいるし、“剣聖”トラン=カルギリウスに勝てるとは思ってもいない。
そう、上には上がいるのだ。
まず、皇魔という名の人外の怪物たちがいる。皇魔は、召喚武装の力をもってすれば容易くねじ伏せることができるものの、本来ならば人間とは比べものにならない力を持った存在なのだ。
つぎに、神の力を借りるものたちだ。救世神ミヴューラの使徒たる十三騎士は、他者を救うためとはいえ、神の力を借り、その絶大な力を振るうことに躊躇がない。特に強大な力を持つ騎士団長フェイルリングの真躯ワールドガーディアンには、現状のセツナでは手も足も出ないのではないか。
そして、神々がいる。
救世神ミヴューラはともかくとして、それ以外にも数多の神々がいるのだ。三大勢力を影から支配し、大陸全土を大戦争に巻き込んだ元凶たる神々。存在そのものがあまりにも理不尽だった。
イルス・ヴァレは、理不尽に満ちている。
「でも、だめだ。この程度じゃあ、駄目なんだ」
もっと、力を。
最高水準では駄目なのだ。
それではより強い存在に敗れ、斃されるだけだ。
魔王がいったような力がいる。
理不尽をねじ伏せるだけの、理不尽な力が必要なのだ。
でなければ、ここに堕ちてきた意味がない。




