第三百話 魔王語り(前)
もはやもぬけの殻と化したガロン砦には、夜明け前の闇よりも深く重い静寂が横たわっていた。
夏の終わり。虫の鳴き声こそ響いてはいるものの、静寂を掻き乱すようなものではない。吹き抜ける風の音に運ばれる虫の声、草木がざわめき、自然の旋律が奏でられている。静寂はむしろ歌うようにそこにあるのだ。
ガロン砦にひとがいないのは、グレイ=バルゼルグに付き従い、彼とともにガロン砦を占拠していた三千人の人間たちが、死に場所を目指して龍府へと向かっていったからだ。それに伴い、彼らの世話をしていた人々も、グレイの名の下に集った人々も、本来の居場所へと戻っていった。彼らの本来の馬もこの場にはいない。三千頭もの馬を引き取ったのはジベルであり、彼らが猛将グレイの愛馬たちをどうするのかは魔王にもわからない。
グレイは当初、ブフマッツの代わりとしてユベルに受け取ってもらいたがっていたのだが、ユベルがそれを断った。ブフマッツという優秀な軍馬がいる以上、普通の馬を貰っても処分に困るだけだ。ブフマッツの餌にすればいいというリュスカの案も悪くはなかったが、グレイのことを気に入ってしまったユベルにはできないことではあった。馬は馬だ。だが、グレイの愛馬を無為に殺すようなことはしたくなかったし、かといって、飼い殺すのもグレイの生き様に反するように思えてならなかったのだ。
頭上には曇天が広がっており、夜と朝の狭間にあることすら忘れてしまいそうなほどに深い闇が横たわっている。陽の光は遠く、夜でもないのに暗い影が我が物顔で跋扈している。
「いつまで、ここ、いる?」
たどたどしい言葉で問いかけてきたのは、リュスカだ。闇の中、彼女の真っ白い髪と青白い肌はわずかに発光しているように見える。
リュウディース。皇魔の一種であり、極めて人間に近い姿をした種族だ。肌を隠し、角を隠せば、人間と勘違いするかもしれない。特に彼女は眼孔の中に眼球を形成しており、皇魔特有の赤い光だけではなくなっているのだ。彼女がなぜ、そうまでして人間に近づきたがっているのかはわからない。少なくとも、ユベルの命令ではない。ユベルは皇魔との交流に言語を必要としないからだ。
しかし、彼女が共通語を覚えるために四苦八苦している様子を見るたびに思うのだ。
人間と皇魔の違いとはなんなのか。
「彼の死を見届けたい」
ユベルが本心を告げると、リュスカは小首を傾げた。
「将軍、死ぬ?」
「ああ」
うなずき、砦を振り返る。廃墟同然の砦は、少し前まで猛将の牙城として盛大に賑わっていたものだ。グレイを慕う人々が集まり、小さな都市を形成してもいた。ジベルからの介入があってこそではあったのだろうが、たとえジベルが援助しなくとも、しばらくはなんとかやっていけたのではないかと思うほどにグレイ=ベルゼルグの声望は高かった。
彼がその気になれば、ここに自分の国を作ることも不可能ではなかったかもしれない。三千人といえば、小国並みの戦力だ。彼が国を作るといえば。ジベルも協力を惜しまなかっただろう。ザルワーンとの間に強力な緩衝材を作るようなものだ。しかも、グレイには自前の戦力があり、軍事的な援助は不要ときている。ジベルがグレイに協力していたのは、ひとつにはそういう可能性も考慮していたからに違いない。
しかし、彼は王になろうとはしなかった。
彼のザルワーンからの離反は、感情的なものにほかならない。打算や計算が働いたわけではないのだ。個人的な感情が、ザルワーンを許せなかった。ただそれだけのことだ。だが、ただそれだけの行動に三千人の人間が付き従い、ザルワーンの喉元に刃を突きつけるということになったのだ。
結果、ザルワーンは自由に動き回ることができず、ガンディアに蹂躙されていった。ザルワーンは、なんとかしてガンディア軍を撃退しようとはしたようだし、打てる手は打ったようではあったのだが、ガンディアの戦力がそれを上回っていた。ガンディア軍は動きの鈍いザルワーンを相手に縦横無尽の活躍を見せ、四つもの都市を瞬く間に制圧していった。戦略的価値の薄いスマアダやルベンには手を出さなかったのは懸命な判断だろう。無駄な戦闘は極力回避し、戦力の消耗を極限まで抑えようというのがガンディアの思考なのかもしれない。
ガンディア軍はいま、龍府に向かっているらしい。ガンディア軍がザルワーンの首都を制圧すれば、ひとまずこの戦争は終結を見ることになるだろう。そして、そうなるだろうというのがユベルの予想だった。勢いに乗るガンディア軍にとって五方防護陣など取るに足らぬ相手のはずだ。たやすく突破し、龍府へと雪崩れ込み、たった二千人の龍眼軍を蹴散らすだろう。
(そうでなくては困る)
それくらいでなくては、面白くない。
ガンディアがザルワーンに負けてもらっては困るのだ。いや、いまとなっては負ける要素など皆無といっていい。たとえ首都を落とすことができなかったとしても、それでザルワーンが形成を逆転できるはずもない。現状、ガンディアが勝っているのはだれの目にも明らかなのだ。戦力の損耗を考え、ガンディアが手を引いたところで、ザルワーンには挽回する手段がない。
ザルワーンはその本来の領土の三分の一をガンディアに奪われただけではない。ザルワーンがガンディアに注視している隙をつくようにして、ジベルが暗躍している。おそらく、この空城となったガロン砦も、メリス・エリスもジベルの手に落ちるだろう。グレイが龍府へ進軍する日時は、当然、ジベルも把握しているはずだ。それに合わせて軍を動かしていると考えるべきであり、ジベル軍が既にザルワーン領土に入り込んでいてもなにも不思議ではなかった。
とはいえ、ガンディアが龍府制圧をそう簡単に諦めるとは考えにくい。ガンディアは昔からザルワーンを目の敵にしていたし、ザルワーンを完全に潰さなければガンディアの将来はないと信じていた。事実、その通りではあったのだろう。ザルワーンが早期に南進を強行していれば、ガンディアは歴史に埋没していたに違いないのだ。ザルワーンがログナーを属国としたときから、南進の恐怖と戦い続けていたことは想像に難くない。
ユベルは、いつの間にか拳を握っていることに気づいて、手を開いた。見下ろす。手のひらに血が滲んでいる。爪が食い込み、皮膚を破ったらしい。胸中で苦笑する。ガンディアのことを考えるだけで、抑え難い感情が噴き出してくるのは仕方のないことだ。その感情を抑えようとすればするほど、どこかに無理が出てくる。
グレイにも指摘されたところだ。ザルワーンに関連する会話で、ガンディアの話題が出るのは当然のことだ。そういうとき、目つきが険しくなるのは、ユベルがまだ人間らしい感情に支配されていることの現れに違いない。
グレイは、忌憚のないことをいう男だった。魔王と恐れられたユベルにも、皇魔であるリュスカにも、他の人間と同様に接し、振る舞っていた。クルセルクのこともあり、そう度々ガロン砦を訪れることができたわけでもなかったが、訪れるたびに少しばかりの会話を交わし、それによってユベルは彼のひととなりを知ることができたのだ。
彼がなぜザルワーンに反旗を翻したのかも、彼との会話の中で知った。グレイは、自分のことばかりを語ったのだ。自分の最期を見定めていたのだろう。だからこそ、自分のすべてをだれかに語り残しておきたかったのかもしれない。その相手がユベルだったのは、幸運だったのかどうか。
ユベルは、ついぞ自分のことを話せなかった。それだけが心残りだった。
彼は、死ぬだろう。
死ぬために、ブフマッツを駆り、龍府へと向かったのだ。生き残るためではない。将来のためでもない。
ただ死ぬためだけに、彼は飛び出していったのだ。